第16話 繰り返される問い、の巻

 ジャンの父、ピヨール・マルクはこの地方の英雄であった。

 で、あったというからには過去の人。彼は今、記憶喪失で自分の家も家族もない廃人同然の生活を、村から輸送機で約十時間前後(途中中継基地により時間は前後)かもしれないナントカ都ナントカ川区新日暮里から徒歩数時間前後の裏道某にある埋め立てられた川沿いの某都営アパート一室でしている。

 本当になにもする事がない。無いのかあってもないのか分からないが、とにかくピヨールマルクはすでに空を飛ぶ事を諦めていた。

 飛ぶ手段が分からないのだ。ただ呆然と、すべてを失い記憶も過去も無くしてしまった過去の英雄は、一人ボロ毛布を体に被って死んだように生きている。

 餓死寸前。もう何も残っていない。その時、ふと知らないはずの一人の若い男が空を飛ぼうとしているのを、ずっと遠くからたまたま見た。

 若い男は飛べないでいた。でもがむしゃらに、翼にもなっていないようなガラクタを持ち出してどこか崖の上から投身自殺のまねごとを繰り返していた。

 ピヨールは記憶を失ってはいたがその若い男の様子を見て、なんてバカな男だろうと思っていた。

 過去の自分だって、それに近いバカをしていた事などすべて忘れたまま。


 目の前には、どこか見覚えのあるようなガラクタの山がうずたかく地下室に積んであった。

 それは飛行機だった。様々な形のグライダーや、作りかけのエンジンや、それからオーニソプターのなり損ない、自作のケーブルもどきや有り得ないゴミとゴミを掛け合わせたような、ただの重い板。

 強度も足りない、構造材が足りない、すべてが足りない、こんなのでよく空なんか飛ぼうとしたなと言うような物がごまんと転がっている。

 男は懐かしそうにそれらゴミの山の一端をなぞると、ぱしゃりと後ろでカメラマンのフラッシュが焚かれて我に返った。

「あなた、もしかしてピヨール氏ですか?」

 記者の一人が、少し戸惑った様子で男にマイクを差し向ける。

 それを黒人通訳男性がはじき返して首を振った。

『いいえ、手話のチャンピオンです』

「いや違う」

 男も記者のマイクをそっと押しのける。

黒人通訳男性は、地下ドックの暗い闇の中で完全に境界線を失っていた。黒だけに。

 ……エート人種差別表現だったら、そのつもりはありませんでしたがあとで消しますので。

「俺はただの(自主規制)さ。ここのドックの持ち主の、古いただの応援団だよ」

「ええ、その、じゃあその(自主規制)さん」

 記者の一人がおずおずとマイクを向けてくる。

「(自主規制)さんは、空はお飛びになりますか」

「そんなもったいぶった聞き方しなくていいよ。何が聞きたい」

「はあ。じゃあズバリ聞きます。(自主規制)さんは、前の大会ではどうして空から堕ちたのですか?」

「だよね。その質問だと思ってた。でもその前に答えなきゃいけない質問があるから、そっちの方を先に答えるよ」

「答えなきゃいけない質問とは?」

「なぜ僕らは空を飛ぶのか。そしてなぜ僕らは誰も飛べないのか。その理由を、まだ誰も知らないままだ」

 男は顔にモザイクをかけたまま、懐かしそうにドックに散らばる飛行機の破片を拾い上げる。それからおもむろに記者たちの前に差し出した。

「これね、ミキプルーンの苗」

「はあ」



 飛行大会本部テントの中で、ハンディラジオに耳をつけていた村長は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の(自主規制)を除かねばならぬと決意した。村長には話の先が分からぬ。

 ところでそのラジオと村長の発憤を遠くから聞いている中年の女性が、なにか聞き覚えのある声だといった様子でそのラジオの声を聞いていたのだが。



「これはただの飛行機のなりそこない、つまりくず鉄だ。くず鉄をいくら集めたって、くず鉄はくず鉄以外にはなれない」

 男はそう言って飛行機の破片を床に投げ捨てると、それからジャンがずっと頑張って造ってきた飛行機の工房、それから組み立て部屋や設計室に入っていった。

 元々は男が使っていたものだ。今でも昔とほとんど変わらない。ずっとジャンの母、つまり男の妻がこの地下室を守ってきたのだ。

 あれからもう何十年も経ているが、埃をかぶって部屋全体が死んでいる以外は何も変わっていない。ただジャンが、その部屋を新たに使いだしたこと以外は。

「普通はチームを組む物だ。飛行機って一言で言っても、そんなものたった一人で、しかもがむしゃらになったってできるものじゃない。努力する先が違う。物事にはステップという物がある」

「よくご存じで」

 皮肉を込めて記者は言った。

「だが目標があれば」

 ここで男は振り返って、ボロボロに破れた設計図の一片を拾ってぽんぽんと埃を払うと、記者に振り返ってその内容を示した。

「目標を示せば、人は集まり、動くんだ。当時の僕らには目標があった。それもチーム全体で。ただ漠然と空を飛んでたわけじゃない」

「では次に、ピヨール・マルク氏が壮絶な空中分解事故を起こして死亡、いや、消息不明になった顛末を」

「う、けほっけほっ……」

 古い設計図にかぶっていた埃が宙を舞い、勢いよく古い風を吸い込んでしまって男は大きくむせる。

 その声もマイクは全部拾ってしまい、この声はラジオを通して地域中に、いやこのラジオを聞いているラジオすべてに生中継してしまった。

 当然、ラジオの聞き手には男の古い友人や、繋がりのあった人、彼らが一緒になって追いかけていた人や、追いかけられていた人もいた。

 当事者の一人がはっとしてラジオに聞き入る。彼女は今、自分の息子が空を飛んでいるのをこっそり見に来た中年の女性だった。

「あの時の僕らは若かったよ。そりゃあね」

「誰でも若い時期はあるものです」

「そうだ、だから僕らは飛んだんだ。たったそれだけのために、男は命をいくつでも放り捨てられるものさ」

 記者はこの古すぎる展開に顔をしかめながら、ちょっと聞きにくい質問が頭の中によぎった。

 これは聞いていい質問なのかどうか。

 取材先に都合の悪い事でも、事件の真実を知り大衆に伝える。それはジャーナリズムの魂の根幹なのか。

 記者は少し深めに深呼吸をすると、ふたたびマイクを男に差し向けた。

「つまり、一人の女性を追いかけたくてマルク氏は空を飛んでいたと?」

「うん、だいたいあってる」

「でもそれ、空を飛ばなくても、もっと別の方法がありますよね? 例えばその、何かきれいな花をプレゼントするとか、その」

「あははばかだなあ、空を飛ぶことにロマンがあるんじゃないか」

 この理屈の飛躍に、記者は顔をしかめた。

 明るいノーテンキな男のモザイク顔を、カメラマンがふたたびフラッシュを焚いて写真に納める。

 そこで記者は閃いた。

「ではピヨール氏、なぜピヨール氏が空から堕ちたのかの理由をまだ聞いていませんがことの真相は。その後はどうなりましたか?」

「だから落ちたんだよ」

「は?」

「もうぼくには空は飛べない。空を飛ぶような人間ではなくなってしまった」

「理屈になっていません」

「そう、翼には最初から欠陥があったんだ。だからぼくらは、もう飛べない。今までも。そしてこれからも」

 まるで禅問答のような掛け合いに記者は首をかしげたが、その瞬間自分が今日の昼にジャン・マルクに質問したことを思い出して絶句する。

 ジャン・マルクは父ピヨール・マルクの抱えていた翼の欠陥を持ったまま、また空を飛んでいるというのか!?

 またあの空中分解の悲劇が、これは記者としてはおいし……いやあってはならない大スクープだ。

「ピヨール氏の息子、ジャン氏はふたたび空を飛ぼうとしていますが、と言うことはジャン氏のグライダーは落ちると、そういうことですか!?」

「そうだろうね。ジャンの翼も、ぼくと同じものを使っているのならいつか落ちるだろう」

「なぜ飛んでいるのですか! いや、父として止めないのですか!?」

「単に落ちる事に気がついていないだけなんじゃない?」

 ピヨールはそうあっけらかんと言い放つと、元自分の格納庫、今はジャンの格納庫のシャッターを開けた。

 外から明るい、太陽の光りが刺し込んでくる。

「さあさ、湿っぽい話は終わり。みんなで空飛ぼうぜ!」

「これは……大変な事になったぞ! あの大惨事は何も変わっていない、ふたたび繰り返される悪夢なんだ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る