第1話 『Killing Yourself To Live』

「……なんてこったい」

 文化祭後の三連休が明けた、残暑も薄れる10月暮れの木曜の朝。眠い瞼を擦りつつ、ぶうたれながら登校してきた高校2年生の相澤司は、部室の扉に張られた残酷な張り紙を見て硬直していた。


『通告 10月末日をもって重音楽部を廃部とする。 生徒会』


 純白のA4判に明朝体で打ち出されているのは、たった1行、たったそれだけの死刑判決だ。相澤は肩からずり落ちたギターを背負い直し、滲み出てきた汗を手の甲で拭う。


 一体何がいけなかったというのだ。確かに、部員数は4人だ。部の最低人数として定められた5人を下回っている。が、カップ焼きそば同好会とマイケル・シェンカー研究部なんかどちらも部員3人しかいないじゃないか。創部以来の伝統の文化祭ライブは閑古鳥が鳴いていたけれど、あれはそもそも時間帯が悪い。文化祭の目玉企画である『なりきりイングヴェイ・マルムスティーン選手権』の裏番組なんて人が来ないに決まっている。いや、なりきりインギーのほうも人いなかったみたいだけど。っていうか何故インギーなんだ。誰が企画したんだ。何故だれも企画にストップをかけなかったんだ。


 だがそのへんのことは、まあいい。自分たちが努力したってしょうがないことを悩むのは止そう。それ以外で廃部を言い渡されそうなことは何か無かったか。確かに、自分を含む部員4人は素行も成績も悪い。模試で出る全教科の平均偏差値なんて4人そろってやっと120に届く程度だ。しかしそれが廃部に影響するとは思えない。


 まあその、補修が嫌だからトイレに時限爆竹を仕掛けて騒動を起こしたり、テストを延期させるために職員室に鳩を放したり、掃除機にチョークの粉を仕込んで教室を真っ白にしたり、そういうことはした。小言が煩い生徒会の会計担当の体操服にスルメイカを仕込んだりもした。いやはや、あのイタズラは地味だったが、大騒ぎになって楽しかった――。


「廃部……理由……」


 いやはや、爽やかな朝だ。しつこい残暑も10月の暮れになって和らぎ、日差しは柔らかく、校庭へ木漏れ日を落とす。小鳥の囀りに混ざって聞こえる3年生の露出狂の叫び声とか、カバディ部の雄叫びとか、天文学同好会がUFOを召喚せんと唱える経文めいた歌声とか、そういう日常の落ち着きを阻害するような残念な要素も、窓から差し込む風の前では無力なもので。


 校舎3階、薄暗い廊下奥。相澤はおもむろに黒いジャージの袖を捲り、短く切った髪を指先に絡め、ため息をついた。


「……むしろ廃部にならない要素が見つからねェ!」


 しばしの静寂の後に声を振り絞り、相澤は部室の引き戸をスパァンと勢いよく開けた。直後に相澤の鼓膜を震わせたのは、既に部室の中にいた部員たちのぎゃあぎゃあした泣き声だ。物置を間借りしたホコリ臭い部室の中へ入った相澤は、愛機であるギブソンSGを壁に立てかけ、そして胸の前で腕を組む。


「ぴゃあぴゃあ喚くな! 鬱陶しい!」

「だ、だってよォ~! 部長ぉぉォ~! うえええぇぇん!」


 最初に縋りついて来たのは案の定、ヴォーカル担当の尾津真人だった。このあいだ教室に迷い込んだスズメを寝ぼけて食って救急搬送されたドジっ子な尾津は、自分が唯一輝ける場所である重音楽部を喪うのが怖いのだ。その気持ちが痛いほどわかる相澤は、脚に絡みつく尾津の肩まで伸びたサラサラヘアーをくしゃくしゃ撫でる。


「泣くな尾津! ヴォーカルなんだから喉を大事にしろ!」

「いまさら大事にしたって遅いよォ! それにおれ音痴じゃん! 大事にしたって意味ないもんン~!」

「おめーは音痴じゃねえ、音程は取れてるし声質もそこまでは悪くないぞ尾津」

「へ……じゃ、じゃあおれ、下手じゃないの?」

「下手じゃねえ。下手じゃあねえが、なんか一味足りねえだけだ」

「ほ、褒められた! 部長に褒められたッ!」


 正直言ってぜんぜん褒めてないのだが、尾津は悲しみの涙を喜びの涙に変え、残る2人の部員のもとへ帰って行った。無邪気に喜ぶ尾津を抱き止め、ドラムの和田秀俊は「よかったなァ」と涙を拭う。床に正座してハンカチで洟を噛んでいるベースの寺嶋勇は、いつものように何を考えているのかよくわからなかった。相澤は再びため息をつき、凝った肩をぐるりと回す。


「ったく、にしてもいきなり廃部ってのはねえだろ……酷ェことしやがる連中だよホント」

「どーせ霜山の陰謀だろ。あのソロバン野郎、金にしか興味ねえんだぜ。そのうち資金繰りのために学校印のコンドームでも売るんじゃねえの?」

「その次は棺桶だ! あいつ棺桶売る! ぜってえ売る!」

「……校章のついた棺桶とか誰が買うんだよ」

「変態クソ校長とか買うだろ! でさ、和田チャンさ、コンドームってなに?」

「よしよし尾津、おまえさんはそのままでいておくれ。コンドームってのはな、水風船だ水風船」



 無精髭をもっさり生やした和田が汗臭い尾津を抱き締めている絵面はあまりにも暑苦しい。相澤が目で命じると、床の上で敬礼した寺嶋がそそくさと窓を開けて換気を始めた。この部屋は風の通りが悪いから、男3人がわあわあ泣いていた後だと空気も酷い。相澤はくしゃみをひとつして、椅子をひとつ手繰り寄せ、どっかりと腰掛ける。椅子はギリリと軋んだが、決して自分が太ったわけではない。


「まあ、こうなっちまったもんはしょうがねえ。問題はこれからどうするかだよ」

「そんなん決まってんだろ、あんな1行ぽっきりの『廃部通告』じゃ納得できねえよ」


 尾津の喉を撫でてゴロゴロ言わせながらまともな顔でまともな事を言う和田は、なぜかズボンを履いていなかった。相澤は彼の赤いパンツをなるべく視界に入れないようにしつつ、神妙な面持ちで頷く。和田のいう事は尤もで、そして自分も元よりそのつもりだ。あんな通告書を見て誰が納得できるか。あ、いや、廃部になるだろうなあという事に関しては理解してるけど。でも、理解と納得は別だ。相澤が頷いたのを見て、和田は悔しさに拳を握る。


「部長、おれは我慢ならねえんだ……おれたちはこの住川でも随一の実力者で、あんたはこの街でいちばんのギタリストだ。それなのに生徒会からは疎まれて、部室はマイケル・シェンカー研究部に取られ、こんな物置に押し込められて……不遇すぎる!」

「ああ――そうだな」

「だが! おれは絶対に諦めねえ! この部はあんたという素晴らしいリーダーのもとでもっともっと発展して然るべきだ! 廃部なんて絶対に認めねえ! 部長、生徒会に抗議しに行ってくれ! 生徒会に直訴する権利があるのは部の代表者だけだからな! おれたちはあんたに頼るしか手がねえんだ!」

「ああ――そうだな」

「もちろん抗議にはおれも同行するぜ!」

「いや――おまえは、来るな――」


 毛むくじゃらの生脚をなるべく視界に入れないようにしつつ、相澤は両手の人差し指で×印を作る。「なんで?!」と床へ膝をつく和田は、多分自分が若干ハミ出していることに気付いていないのだろう。朝っぱらから見たくないもののトップ3に食い込むもの、他人のはみチン。相澤は眉間の皺を揉み、「ちんちん冷やすなよ」と一応の気遣いを和田に贈る。ハミ出すくらいならいっそ全部出せ。ドラマーならキース・ムーンを見習え。というかさっきから寺嶋のほうからガサガサ音が聞こえているが、一体何をやっているのだ。


「……テリー、手元を見せな」

「……!」

「藁人形か。霜上を呪っても状況は解決しないと思うが……」

「……」

「っていうかその藁どこで拾ってきたんだ。貸してみな」

「……」

「……納豆臭いなこの藁人形」

「……今は納豆はいらない」

「……黙ってベースを弾いてくれ……」


 納豆臭い藁人形は思っていたよりも重量感があり、軽く投げると窓の外へ吹っ飛んで行く。遥か下の方から悲鳴が聞こえたが、今は関係無いので無視だ。何も言わない寺嶋は、背中の真ん中まで伸ばしたぼさぼさの髪の隙間から、瞬きもせずにこちらを見下ろしていた。相澤は脚を組んで寺嶋を睨み返すが、その行為の不毛さに気付き、目を閉じてため息をつく。


――クソったれ。どいつもこいつもアホばかりだ。

――いや、知ってたよ。知ってたんだけどさ。


 いろいろ考えているとなんだか酷い頭痛がしてきた。閉じた瞼の向こうでは、通学路で捕まえたカブトムシを尾津が自慢している。たったこれだけの時間で一日分疲れた相澤は、もう廃部で良いような気がして来た。


――いや。いやいやいやいや。良くない。全然よくない。何考えてんだ。廃部はダメだ。絶対ダメだ。自分たちの唯一の居場所を守らねば。


 頭を振って後ろ向きな思考を追い払うと、廊下の方からたくさんの足音が賑やかに階段を駆け上がるのが聞こえた。この部屋には時計が無いし、校内放送もほとんど届かない。そろそろ始業時間かなと相澤が顔を上げたその時、部室の扉が開いた。


「おうお前ら、授業始まんぞ」

「……服部先輩」


 扉の隙間からひょっこり顔を出したのは、3年生の服部樹だ。相澤たちがいつものように声を張り上げて挨拶すると、服部は日に焼けてそばかすの多い顔で朗らかに微笑む。その服部の焦げ茶色の癖毛をむんずと掴んで「おれもいるぞ」と顔を出したのは、服部のストーカーの木津武史である。相澤たちが再び挨拶すれば、坊主頭で背の高い木津は服部の頭に顎を乗せ、特に意味もなくあうあう言った。


「おいこら木津、おれが背ェ低いからって顎置きにすんなよな!」

「いーじゃん別にィ。減るもんじゃねえし?」

「背骨縮まって背ェ低くなったらどーすんだよ! 現状アンガス以上ディオ未満なんだぞ!」

「おめーアンガス・ヤングより背高いの? 見えねーなーッ! おめえ背丈よりちんこのほうがデカいって知ってるんだぞデカチン」

「背丈よりちんこの方がデカいってどーゆー状況だよ気持ち悪ィな。それちんこに色々付属してるだけじゃねーか」

「まあ生物の究極の目的を考えればそんなもんだろ。しょせん社会とはペニスに付属した概念だ。本能に逆らうことを知的だとか理性的だとか捉えることで人間は他の生物と画一的な存在になろうとしてるが、一皮剥ければ誰だって歩くペニスだぜ」

「えっおめー気持ち悪ィな」


 もつれ合うようにして部室に入って来た服部と木津に、相澤は頭痛の種が増えたと感じる。今年の夏に仲良く野球部を引退したこの2人は、基本的に誰にでも人当たりの良い善人だが、2人揃うとぎゃあぎゃあ喧しいのだ。男どもは木津の演説に目を輝かせて拍手を贈っているが、相澤には木津の話の9割が口から出まかせの詭弁だとわかっている。相澤は蜘蛛の巣の張った天井を見上げ、「うー」とも「あー」ともつかない唸り声を上げた。


――つーか、なんで木津先輩までズボン履いてないんだ?


 時間は刻一刻と始業時間に近づき、時が進むごとに、「廃部」という事実が相澤の胸へ重くのしかかる。天井近くの巨大な額縁に飾られた、『ブラックサバスを神と崇めよ』という書は、今日ばかりはなんだか皮肉めいて見える。


 本当の事を言えば、部長として部員の中の誰よりも長く生徒会と交渉――決して喧嘩ではない、決して――してきた相澤は、よく理解していた。生徒会の決断が覆ることは、まず無い。

 

 というより、今までは長い執行猶予期間だったのだ。部としての最低人数にも達していない、しかも2年生しかいない、顧問が誰かもよくわからない部活なんて、潰れて当然である。この重音楽部が2018年の今まで存続できた理由なんて、「どの部活よりも学校の特色が現れているから」ということくらいしかない。割とマジで無い。


 しかし、それでも――。


「――そーいや2年に転校生来るんだって? 珍しい時期だがワケありかね」

「転校生か。おれたちには縁のない話だったな。おまえらいじめたりすんなよ?」


 白い歯を見せて笑う服部の腕には、少し黄ばんだギプスが嵌められていた。「はーい」と素直に手を挙げた部員たちを横目に、相澤は顎を撫でる。まあ、今は考えたって仕方ない。休み時間にでも生徒会役員を捕まえ、廃部の決定を抗議しよう。ダメだったらダメでそれまでだ。部活の存続は諦めて、これからのことを考えよう。だが、交渉はする。最後まで粘り切る。40年以上も続いたこの重音楽部を、自分が終わらせるわけにはいかない。


 そう決意を固めた相澤の肩を、「何もかもわかっているよ」という顔をした木津がポンと叩いた。さりげなくその手を振り払った相澤は、若干ハミ出ている木津の木津をなるべく視界に入れないようにしつつ、「ちなみに」と木津の顔を見上げる。


「木津先輩、うちらが廃部になった理由ってなんか心当たりあります?」

「え? むしろなんで今まで続いてたの?」

「……ですよねー」


 わかりきっていた答えだが、はみチン野郎に改めて正論を言われると、なかなかダメージが深い。心労の多すぎる相澤は、首から提げたお守りの十字架を左手でぎゅっと握り締め、今日一番に盛大なため息をついた。

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