さらば青春の狂気ども

雨宮夏樹

プロローグ 『Keep Yourself Alive』

「――自殺するんなら、別の場所にしといたほうがいいっスよ」


 人生の何もかもが嫌になった中3の秋の終わり。終電も過ぎた時間に独り、隣町の大きな橋の欄干に凭れてぼんやりしていたら、不意にそんなことを言われた。午前零時に不釣り合いな少女の声。わたしは闇色の水の流れから顔を上げ、悴んだ指先で髪を掻き上げる。


「ほら、今日は寒いんで。いま飛び込んだら、死ぬまでめちゃくちゃ寒いと思いますよ」

「……えっ?」


 仄暗い街灯の光にぼんやりと浮かび上がる細身な輪郭は、自分と同い年くらいの少女の形をしていた。わたしはセーラー服の胸を掴み、秘密を暴かれたときのように騒ぐ胸を押さえる。焦げ臭い冬の匂いの風が吹くと、少女の長い黒髪がふわりと宙に漂った。


「いや、その、止めやしませんけど……でも、せっかく死ぬんなら、あったかい部屋の中のほうがいいかな、って思いませんか?」


 わたしが黙っていると、少女はバツが悪そうに真っ白い頬を掻く。彼女が着ている見慣れない学校のジャージは深い赤色をしていて、わたしはその色彩が何故だか懐かしい。橋の上を自動車が通り、病的なハイビームに二人分の影が伸びる。


 突然現れた少女に何を言ったら良いものか考えを巡らせていると、少女は「夏だったら飛び込んでいいって話でもなくて」とか「でもあたしなんかに止められる権利もないし」とか、下を向いてモゴモゴ言い出した。可笑しくなってしまったわたしが微笑むと、少女は照れた顔でそっぽを向く。


「……余計なお世話でしたよね。忘れてください」

「いえ。ありがとうございます。確かに、今夜はやめたほうがよさそうですね」

「ええ、やめといたほうがいいっスよ」


 遠い星座を目で追う少女は、わたしが揃えて脱いだ靴へ再び爪先を押し込んだことに気付いていない。乱れた前髪を掻き上げてため息をつくと、鼻の奥に潮が香る。夜風に唇が乾いていた。わたしは指先の厚い皮を弄びつつ、空白の時間と心をただ持て余す。


「……いじめられてた、ってわけでもないんです。友達は、いないけど。でも、友達が欲しいってわけでもなくて」


 少女のスニーカーの足音が近づいて、欄干にはふたりぶんの体重がかかる。名も知らぬ少女は、長い黒髪を風に遊ばせながら頬杖をついた。ちらと見れば、嫌に端整な顔立ちだ。闇を見詰める瞳だけが大きく鋭くて、水晶のように澄んでいる。体温を感じるほどの距離感に怯えながら、わたしは静かに瞼を伏せる。


「それなのに……寂しくて」


 橋の上を夜行トラックが駆けて行き、酩酊に似た振動が身体に伝わる。暫くの間、わたしも少女も、黙ってぼんやりしていた。わたしはおさげ髪の先っぽを指に絡め、秋の夜の湿った匂いを嗅ぐ。もうすぐ冬が来る。寂しい冬が。


「……フレディ・マーキュリーは――」


 不意に鼓膜を揺らしたその名に、わたしは思わず顔を上げた。しかし少女はそっぽを向いたまま、小首を傾げて言葉を紡ぐ。


「フレディ・マーキュリーは、すげえヴォーカリストっスよね?」

「……はい。すげえです」

「でも、ブライアン・メイや、ロジャー・テイラーや、ジョン・ディーコンに出会わなかったフレディは、今みたいな大スターになってたでしょうか?」

「……なってなかったと思います」

「フレディがバンドのメンバーと出会ったのって、大人になってからっスよね」

「はい。24歳くらいのときですね」

「じゃ、24までは必死で生きてみませんか」

「……フレディがクイーンと出会った歳まで、ですか?」

「ハイ。24になりゃあ、ひょっとしたらあんたも、あんたの最高の友達に出会えるかもしれませんよ」


 少女の言葉に、わたしは瞬きをする。なぜフレディ・マーキュリーなのだろう。その話をするならば、ポール・マッカートニーとジョン・レノンでもいいじゃないか。よりにもよって、なぜ。わたしは疑問符でいっぱいな頭を捻り、少女に何か言い返そうとした。けれど何も思いつかない役立たずの脳みそは、ただただ可笑しくて、唇に微笑みだけを乗せる。


「……フレディじゃなきゃだめですか? オジー・オズボーンでも、ミック・ジャガーでも、ポール・スタンレーでも」

「べつにヴォーカル縛りってわけじゃないんスよ。黒モアでも貴族でもなんでもいいんです。バンドってのは、出会いの奇跡っス」

「あはは、そうですね。ツェッペリンも、メガデスも、エアロスミスも、オアシスも――」

「オアシスはちがくないっスか?」

「え? あ、そっか」


 ちょっとした勘違いに、ふたりで顔を見合わせ、同時に吹き出した。そうだ、適当に上げ連ねていたが、オアシスはちょっと違う。それも可笑しいけれど、互いに見合わせた顔の真剣さが、何より可笑しい。


――ああ、なんか、悩んでたのが馬鹿みたい。


 いちど吹き出すと止まらなくなって、腹筋が引き攣るほどに笑った。おおよそ深夜にははた迷惑な大声で笑っても、窓の灯りは遠い。思えば、誰かと一緒に笑うのは久しぶりだった。学校ではいつもひとりだし、家でもひとりで。有り体だが、自分がこんなに大声で笑えることを、すっかり忘れていた。わたしはその事実にますます面白くなり、息ができなくなるほど笑う。


「そ、そんなに面白いっスか?」

「面白いです、面白いですよ」

「そ……う、ですね。そうですよね。アハハ――」


 そうして、わたしたちは笑い続けた。眠る街なんてほったらかしで、感情の動くままに笑った。笑うと頬の筋肉が痛くなって、口の中が冷たく乾く。それでもその不快感はむしろ幸福だ。やがて頬の紅さを風に冷やした少女は、ポケットの中から何かを取り出し、ぶっきらぼうな仕草で私に向かって突き出した。


「あの、これ」


 思わず手を伸ばして少女の指に触れれば、その手が握っているのはまだ熱い飲料缶だ。少し迷ってそれを受け取り、少女に促されるままにプルタブを引けば、芳醇な珈琲の香りが身体を包む。痛む頬を揉みながら戸惑うわたしの隣で、欄干へ頬杖をついた少女は静かなため息を零す。


「人生ぜんぶ嫌になったら、真夜中に珈琲飲んで一服しましょ」


 カシュ、と乾いた音がして、少女が栓の開いた缶をこちらに掲げた。悪戯っぽい目付きと、唇の間から覗く白い八重歯。さっきまでの大笑いで、微かに紅潮した頬。わたしは胸のどきどきを瞬きで封じ込め、少女の缶に自分の缶をぶつける。


「……あの」

「はい?」

「いつか、わたしといっしょに――バンドを組みませんか?」

「もちろんです。約束ですよ。ほれ、カンパイ」

「……乾杯、です」


 中3の冬の始め。人生がぜんぶ嫌になったわたしと、そんなわたしの目の前に現れた、名前も知らない不思議な少女。世界でいちばん密やかな乾杯の音は、絶え間ない川の囁きに掻き消されて行った。




【さらば青春の狂気ども】


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