第2話 『Who Are You』

 始業前の賑やかな教室の片隅で、むくれた相澤は頬杖をついた。不機嫌の理由は当然、部活動に関することである。この住川市立第五高等学校創立以30年にわたって存在していた重音楽部は、特色ある部活動として高校のパンフレットにも紹介されている。少し前、いや大分前の話だが、全国紙の新聞が取材に来たことだってあった。そんな部活が、廃部。そんなの、あまりにさみしすぎるではないか。


 確かに、確かにだ。以前は50名近くいて腕を競い合っていた部員の数は、この10年で半数以下になってしまった。ただそれは、少子化と洋楽ロック市場の縮小も大きく影響している。決して、自分達が広報を怠ったせいではない。


 まあその、チラシを作るための予算で尾津がいっぱい花火買ってきちゃったとか、そういう事件はあったが、廊下で花火をぶっ放したら部活の知名度は上がったからプラマイゼロだろう。学校のTwitterアカウントと副校長の尻は炎上したが。


「――うう……」


 教室の中は騒がしかったが、不機嫌な空気を隠そうともせず、平素より3割増しで目つきが悪い相澤の周囲は静かだった。だが、そんな相澤の機嫌を取ろうとクラスメイトたちが投げた飴玉やお菓子やコウモリのおもちゃのおかげで、相澤の机の上は賑やかなことになっている。このコウモリ、本当におもちゃだろうな?



 あれから部員たちと話し合い、とにかく生徒会に掛け合ってみようとは決まった。しかし、生徒会本部の活動が始まるまではあと8時間もある。この8時間をやきもきしながら過ごすのは癪だ。

 かといって常識と良識ある相澤は、生徒会の活動時間外に、生徒会長や副会長と部活の話をしたくなかった。休み時間に訪ねて行ったら時間外労働だ。日本のブラック体質はこういうところから来るのだ。ブラックなのはサバスだけで十分である。ブラックナイト? ブラックアース? そんなの知るか。


「……伊藤政則にクレームの手紙でも書くか」

「なになに? 傘連判状? おれも書く書く」


 その気もなしに呟くと、前の席の吉良頼人が楽しげに話しかけてきた。相澤は何度か瞬きをして、ため息をつきながら机に突っ伏す。もう考えるのが面倒だ。フライアゥエイでこのまま消えて灰になりたい。


「いやァ、一揆だねェ。チョコ食べる?」

「……ンな『良い天気だね』みたいに言う?」

「ほらチョコ。あーん」

「いらねえ」


 と、いいつつ口を開けたら、吉良は糖衣でコーティングされた色とりどりのチョコを袋から直に流し込んできた。突如として口いっぱいに詰め込まれたアメリカン糖衣チョコの甘さに相澤が目を白黒させていると、吉良は「安心しな、ちゃんと茶色だけ抜いといたぜ」と親指を突き立てた。なんの解決にもなっていない。


「なに相澤っち、部活Burnしちゃったん? お気の毒じゃんマジどんまい。もっと食う?」

「……いや、もういらん」

「まあ人生いろいろあるよね。言うて大丈夫でしよ。相澤っち腕は確かなんだし、これを機にバンド組み直せば」

「自分のコトはいいんだよ。心配なのはあいつらだ」

「うんうん、相澤っちのイイトコはそういうトコだよね」

「だってあいつら、ちゃんと監視しとかないと校庭にストーンヘンジ作るぞ」

「あ、音楽の心配じゃないのね」


 幾つか丸呑みして、無理やりバリバリ噛み砕いたチョコを飲み下すと、強烈な胸焼けがした。急いでペットボトルのお茶を煽ると、いつもぽんわりした表情の吉良が「ストーンヘンジ、いいねえ」と、いつになくぽんわりしたことを言い出す。いや、あってたまるかストーンヘンジ。たぶん吉良は半ば冗談だと思っているが、相澤は実際、寺嶋のスマホにあった『ストーンヘンジ 模型』や『ストーンヘンジ 自家用』という検索履歴を見ている。願わくは実寸大のものを買ってこないことを祈るのみだ。


「まあさ、そんなに落ち込まないでよ。メンバーに困ったらいつでも呼んでね。おれボンゴくらいは叩くからさ」


 そう言ってはにかむ吉良の優しさにはいつも助けられている。しかし彼は何故、重音楽部に廃部命令が下ったことを知っているのだろうか。首をかしげる相澤は、張り紙を見た尾津が「廃部だぁ!!」と大声で喚きながら学校中を走り回っていたことを知らない。おかげで現在の住川高に、重音楽部の廃部決定を知らない生徒はいなかった。


「相澤の人生にはさ、ブライアン・メイが足りないよね」

「何て?」


 秋の初めの涼しい風が教室の薄いカーテンを撫で、刈られた青草の匂いが薫る。静かな朝の陽射しに、吉良が大あくびをした。テーブルの上の菓子やおにぎりを掻き集め、ペラペラの鞄の中へ仕舞う相澤へ、何人かの生徒が「おはよう」と声をかけた。いちいちそれに返すことはしないが、それが相澤の常なので、誰が気にするわけでもない。


 相澤は、重音楽部に入るためにこの高校に入った。

 父の代からブラックサバスのファンである相澤は、3歳の頃のクリスマスプレゼントにギブソンSGをねだるほどの、トニー・アイオミのファンである。周囲には、何故そんなギタリストが好きなのかと問われる。しかし『War Pigs』を子守唄に育った相澤にとって、あの黒衣のギタリストほど尊敬できる人物はいなかった。人格まで尊敬した結果として妙なイタズラ好きになってしまったが、それは副作用というやつである。副作用の無い薬なんてない。


 好きだから、何もかも同じことをしたいと思ううちにギターの腕前は上達し、10歳になる頃には大人たちのバンドに招かれた。そんな相澤が、新聞でも特集を組まれたことのある、「ハードロック、ヘヴィメタルしか演奏しない部活」のある学校に惹かれたのは、当然の成り行きだろう。


 相澤は、高校説明会で聴いた重音楽部の演奏を今でも忘れない。あの頃の重音はレッドツェッペリンに凝っていて、演目は当然のように『天国への階段』だった。中学生向けの説明会でツェッペリンなんてイかれてる。

 でも、演奏は凄まじかった。天使のように美しい青年が、本物のロバート・プラントと錯覚するような歌声を披露する、そんなステージ。一瞬で虜になった当時中学3年生の相澤は、絶対にこの重音楽部に入ろうと心に決めた。


 後から知ったのだが、あのとき歌っていた葦原聖という生徒は当時まだ高校1年生で、その時点ですでに大手レコード会社から声がかかっていたらしい。ただ、相澤が入部した頃には、葦原の姿は部内のどこにも無かった。話によれば葦原は、喉を壊して高音が歌えなくなり、「ロバート・プラントの再来」として売り込もうとしていたプロデューサーに見放され、バンドからも厄介者扱いされ、遂には重音楽部を去ってしまったそうだ。


 その後、葦原は住川高の生徒会長に就任し、相澤たちのどうしようもない重音楽部をとても可愛がってくれた。彼にとっての重音楽部は辛い思い出だろうに、資金や活動時間をいろいろ工面して、常に快適な活動を援助してくれた。

 相澤は一度、「なぜそんなに優しくしてくれるのか」と葦原に問うたことがある。そのとき葦原は、屈託のない笑顔でこう言った。


――「ボクが叶えられなかった夢を、キミは叶えておくれ」


 そんなわけだから、相澤は重音楽部を手放したくないのだ。重音楽部は相澤の存在理由である。そして、過去にこの部活を支えていたたくさんの熱意は、現在の重音楽部を作り、未来へ向かおうとしている。その意志を途絶えさせたくなんてない。

 30年も続いた部活が消えるというのは、紙切れ一枚で済ませられる話ではないのだ。


 だが現状、どうしたものか。部活について考えるのをやめ、ため息をついて重い黒髪を掻き上げると、始業のベルが鳴り、担任の春藤が禿頭――本人曰くスキンヘッド――をぬるりと滑り込ませて教室の中へ入ってきた。


「おはようさん。えー、出席取るぞー。相澤ァ……おめーはまたジャージか。制服を着ろ制服を」

「サーセン」

「まあいいや。おまえもいろいろ災難みたいだしな」

「ウッス」

「ま、人生いろいろあるよ。えー、伊藤、井上、加瀬……は風邪引いて休みだ。えー、吉良、篠原――」



 都心の喧騒から離れた片田舎の高校で過ごす、何てことはない日常のひと時。部活がぶっ飛んだという大事件こそあったが、それで生活がどうなるわけでもない。苛立ちと焦燥感はあれど、虚しいことに、それだけだ。

 37人のクラスメイトの名前を呼び終えた担任は、出席簿を閉じて「文化祭お疲れ様」だとか「季節の変わり目で体調を崩しやすくなるから」だとか、ありふれた朝の挨拶をし始める。休日はサングラスをかけてバイクを飛ばし、誰もいない所で熱唱するのが趣味だという担任の声はよく響き、聞いていて心地よい。


 しかし今朝は何故こうも教室の中がざわついているのだろう。机に頬杖をついた相澤が眉を顰めたそのとき、ひととおりの話を終えた担任が、「さて」と笑顔を作った。


「んじゃ、新メンバーを紹介するぞ」

「――新メンバー?」


 きょとんとする相澤と対照的に、拍手をして騒ぐクラスメイトたち。一拍遅れて「新メンバー」を「転入生」と変換した相澤は、大きな瞳を何度も瞬かせた。

 転入生。一応、前々から噂にはなっていたが、何だってこんな中途半端な時期に、こんな中途半端な学校に。まあその辺は個人の事情だが、何にしても、この学校では珍しい存在である。そして同時に、相澤は教室がざわついている理由を理解した。

――そっか。転入生、このクラスに来るんだ。


「じゃ、入ってこい」

「……ハイ」


 やや浮足立った口調で担任が廊下へ向かって声をかけると、僅かに緊張した声が聞こえて、建てつけの悪い教室の引き戸が開いた。教室のざわめきは止み、たくさんの視線が同じ場所に集中する。御多分に漏れず教室の前方へ目を向けた相澤は、やがて現れた背の高い少女の横顔に、何か強烈な既視感を覚えた。


――うん?


 担任がチョークを取り、真っさらな黒板へ転入生の名前を書いていく。瀬戸芽衣子。それが彼女の名前らしい。雪のように白い肌、真新しいセーラー服に包まれた細く長い手脚。緩く波打つ長い黒髪の隙間に見える瞳は静かに輝いていて、細い顎に微笑みを浮かべる唇の色彩は薄い。


 綺麗な子だ。相澤は素直にそう思った。体つきこそ華奢な雰囲気だが、目鼻立ちや真っ直ぐな眉から、意思の強さや気の強さが感じられる。軽く口笛を鳴らす吉良の椅子へ蹴りを入れ、相澤はしばし芽衣子に見惚れた。そうしていると、物珍しそうに教室の中を見回していた芽衣子が、ふと相澤のほうを見る。


「……あ」


 目が合った途端、小首を傾げて微笑む面立ちはどこか異国風だ。花の綻ぶような微笑みにあてられ、相澤は慌てて目を反らす。あの微笑みに、「綺麗だ」と思ったことを見透かされたような、そんな気がした。そして同時に、芽衣子に感じる奇妙な既視感が、胸の中で膨れ上がった。


――やっぱ、どっかで会った?

――いや、全く知らない子のはず。名前に聞き覚えも無い。


「ほい。じゃあ瀬戸、自己紹介」


 そんな相澤の困惑などいざ知らず、担任に促された芽衣子は、軽く頷いて、緊張を振り払うように深呼吸をする。彼女が呼吸をすると、セーラー服の白いスカーフが陽光に揺れた。その神聖さに相澤は唇を噛む。


「はじめまして、瀬戸芽衣子です。父親の転勤でこの町に来ました。誕生日は6月27日で、好きな動物はペンギンで……えっと、よろしくおねがいします」


 ごくありふれた自己紹介の挨拶をして、芽衣子は頭を下げた。そうすると、自然な拍手が教室の中から上がる。揺れる黒髪に目を奪われた数人の男子生徒が感嘆の声を上げたことに、芽衣子は戸惑っているようだった。担任がため息をついて男子生徒たちを叱ると、芽衣子は不思議そうに目を細めた。


「おし。瀬戸、おまえの席は1番後ろの、あの空いてるとこだ。ロッカーは窓際に空きがあるから好きなとこ使え」


 軽く頷いた芽衣子がこちらに向かって歩いてくる。拍手をやめた相澤は、違和感こそ拭えないまま、何を思うでもなく頬杖をついた。


 みんな興味津々で芽衣子を見ているが、彼女はあまり、自分と相性の良いタイプには見えない。それに、重音楽部に関心を示してくれそうにもない。あんなに綺麗で明るそうな子だから、きっと人気者になるだろう。しかしそれは自分とは関係のない場所での人気だ。友達の少なく、どちらかというと内向的な自分の日常は、転入生が来ても、来なくても、大して変わるような物ではない。


 そうだ、転入生が来たからって、自分の日常は何も変わらない。変わることなんて、部活の存続のみだ。こればかりは自分だけの問題ではないので、何としてでも何とかしないと。元来そこまで容量のない、出来の悪い頭だ。今はそれだけを考えていよう。


「さて、今日からめでたく瀬戸が加わり、38人のラインナップになったこのクラスだが、来月にはもう期末考査だ。文化祭終わってすぐで何だが、よりいっそう気を引き締めて――」


 耳に心地よい担任の声。窓から吹き込む涼しい風に、相澤は大きなあくびをする。アイオミに憧れて、とりあえず形から入ろうと早寝早起きするようになったけれど、何年経ってもまだ朝に慣れない。しかし、向いていないからと言って諦めたくもない。それに、誰もいない朝焼けの街をスニーカーで駆け抜け、夜明けを眺めながら河原で飲む缶珈琲は最高に美味いのだ。

 その珈琲の美味さに免じて、1限の数学は寝て過ごしても良いかな。そんなことを考えて机に突っ伏そうとした瞬間、ふと視界に影が差した。


「ねえ」

「……ん?」


 鈴を転がすような、愉悦を含んだ柔らかい声。弾かれるように顔を上げると、想像以上の至近距離に色白な芽衣子の顔がある。驚いて飛び退こうとしたら、存外に強い力で肩を掴まれた。


「え、なに、え?どうしたの……?」

「……見つけた。あたしの――」


 近くで見ると、芽衣子の瞳は薄く緑がかっている。それを縁取る長い睫毛がキラキラしていて、遠目に見たときよりもっと綺麗だ。あと、なんか近くにいるだけでいい匂いする。女慣れしていない相澤は、混乱しつつもそんな呑気なことを考えていた。

 そんな相澤の唇に柔らかいものが触れたのは、瞬きをひとつしたそのときだった。


――ん?

――今の、なに?


 固まっていると、教室のあちこちから変な悲鳴が聞こえる。身体の周りが芽衣子の匂いに包まれて、頭の芯が甘くぼやける。相澤の肩を離した芽衣子は悪戯っぽく髪をかき上げ、軽い足取りで自分の席へ向かっていった。僅かに違和感の残る唇へ触れ、恐る恐る前を向くと、驚愕の表情を浮かべる吉良の肩越しに、担任も同じような顔をしている。


「……き、吉良ちゃん、いまの――」

「……相澤っち、いまのファーストキス?」

「へ……?」


 吉良の一言に硬直し、やや間があって、相澤は全てを理解した。両手で口元を押さえて周りを見渡すと、さっきまで芽衣子を見ていたクラスメイトたちの視線は、今や自分だけに向けられている。それから少し遅れて盛大な悲鳴を上げた相澤の視界の隅では、澄まし顔の芽衣子が窓の外へ視線を向け、長い指先でぼんやりと唇の甘皮を弄っていた。

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