第5話

「先日からよくこちらを見ていたので、気になってはいたのですが」

 深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている、だったか。というか日本語めちゃくちゃ上手いじゃないか。

 いきなり不躾に「いったい何者ですか」と聞くわけにもいかなかったので、

「日本語がお上手ですね」

「どうも」

 といった当たり障りのない会話がファーストコンタクト。しかしこんなのを続けていては埒が明かないのである。

 外国人は黙りこくったこちらを不思議そうに眺めている。切り込むならまだ出会って間もない時がいい。

 もし怒らせたなら逃げよう、うん。

 一呼吸整え、訪ねる。

「あの、最近この辺りで犬とか白鳥とか、あとカニを見ませんでしたか」

 ――――日本昔話か!

 これなら自然だろう、と思って口に出してみたが、口に出してみると突飛な質問である。よし逃げよう。

「あ、それ私です」

「そうですよね。さようなら」

 上げかけた腰が停止する。「私です」だって?

「私、訳あって姿をいろいろ変えることができるんですね」

 そんな「あの店のパスタがおいしいんですよ」みたいな調子で言われても。いやそれにしてもすごいカミングアウトを聞いてしまった気がするのだが。

「マジですか」

「マジです」

「……カニにもなれますか」

「なれます」

 差し支えなければ、目の前でちょっとやってほしいところなのだが。

「ちょっと待っていてくださいね」

 軽い。

 【それ】は立ちあ上がり噴水の裏へフラッと消えていった。

 そして、もしかしてそのままどこかに去っていったのかもしれない、と思い始めるくらいの時間がたったころである。

 「や、お待たせしました」

 どうでしょう、とでもいうジェスチャーをしながら現れたのは細身の日本人男性だった。

 ……もしかして噴水の裏にもともと待機していたりして。

「残念ながら、誰もいませんよ」

 隣に座りながら【それ】はカラカラと上品に笑った。持ち上げかけていた腰を落ち着かせ、ついでに心も落ち着かせる。いやいや、そんなばかな。

「わけあってこのような体質でしてね。いやあなかなか面白いでしょう?」

「面白いことは面白いんですが」

 それで済ませていいのだろうか。

 突然大きな鐘の音が鳴る。狐につままれていた気でいた私は、それが時計の長針が一回りした際の時報だと気付く、駅の入り口の真上にあるそっけないデザインの時計を見ると午後9時であった。

「もうこんな時間ですね。また時間があるときにここでお話をしましょう」

 妙になれなれしい声に促され、私は【それ】と別れることにした。

「それでは」

 人型の姿であれば、ね。

 それはそれとして、おそらく広場から私の姿が見えなくなるまで背中に視線を感じたのは気のせいだと思いたい。

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