if:間違いじゃなくて、(10)

「…………」


「お嬢様?」


 二通目の手紙、エルザベラさまからの手紙を読み終えて黙り込む私に、ハルサが窺うように声をかけてくる。なにか答えようとして、渦巻く熱い感情が胸と喉につかえて言葉が出てこない。


 温かと呼ぶにはいささか強い熱。それが胸の奥で渦巻いて、熱く熱く強まって、吐く息まで赤く色づくように私を満たしている。けれどそれは乱暴なものじゃなくて、法悦にも似た、甘苦しく、切ない、多幸感と息苦しさを内包した、私を内側から壊すような想い。


 お姉さまは手紙の中で、欲しいものを手にするよう努めなさいと私を窘めた。その言葉に従うのなら、私はいますぐにでも、自分の中のこの熱いものに身を任せてしまえばいい。私のほしいもの。その答えは見つかった。そのためにすべきことも見えている。けれど、けれど。


「……ねぇ、ハルサ」


「なんでしょう」


「本当に、いいのでしょうか。正しくないと、貴族の規範からあまりにも外れているとそう自覚していますのに、それなのに、私はあの人を望んでしまっている。その気持に素直になれと、尊敬する人に背を押されている。その想いのままに振る舞うことは、本当に間違いではないのでしょうか」


「お嬢様は、正しいからそれを求めるのですか? それとも、欲しいものを欲しいと思うから、求めているのですか?」


「…………」


「お嬢様。正しさは、幸せの理由にはなりません。幸せは、正解を選んだから貰えるご褒美ではないのですよ」


「……貴女には敵いませんわね。どうしてそんなにも、私のことを見透かしたようなことを言えるのか、是非とも聞いてみたいですわ」


「間違えることが、より大きな幸せを運んでくることもあるのです。誰あろうお嬢様が教えてくれたことですから」


「――お父様は、どちらに?」


「旦那様は書斎にいらっしゃいますよ。今日のことで事前に話したいことがあればいつでもご案内するようにと仰せつかっております」


「まったく、お父様もハルサも、お姉さまも……どうしてみんな、私よりも私のことをわかっていらっしゃるのかしら」


「私達は、お嬢様の幸せを願っているだけです」


「書斎へ行きますわ。お父様に話があります」


「承知しました」


 ハルサは恭しく、少しだけわざとらしく大仰に頭を下げて、そして微笑む。


「うまくいくと良いですね」


「そう信じたいものですわ」


***


「お嬢様!」


「……どうしたのアニー、そんなに慌てて」


 いつもポーカーフェイスに落ち着いた所作を崩さないアニーが、侍女服の裾を翻す勢いで駆け込んできたことに驚いていると、アニーは勢いのままに私の手を取って部屋から引っ張り出そうとする。


「ちょ、ちょっとアニー?」


「お客様です」


「お客様って、それじゃ着替えを」


「それどころではありません」


「いえ、あの、アニー? 一応私も侯爵令嬢として、人と会うにはそれなりの準備というものが」


 いつもであればアニーの方が私に言い聞かせているそれをなぜか私が説明する羽目になっているというのに、アニーは煩わしそうに首を振ると、改めて私の手を引いて廊下をぐいぐい進みながら、私の言葉を遮る。


「リュミエローズ伯爵がお見えです。旦那さまと、お嬢様にご用事とのことで、そして――」


 それなら尚の事身なりを整えなくちゃ、という言葉を私は飲み込まざるを得なかった。続くアニーの言葉が、彼女がどうして私をこうも急がせたのかをそのまま物語っていたから。


「ミリエール様もご一緒です」


「――すぐに案内して」


 着替えなんて、そんな悠長なことをしている場合じゃなかった。

 程なくして見えてきた応接室の扉を前に、いよいよ我慢できなくなった私はアニーを追い越して自ら扉に手をかけた。


「ミリー!」


 お父様の――つまりはこの国でも一線級の貴族の――客人を迎えるための、我が家の中でも最も上等な応接室の扉を私は乱暴に開いて飛び込む。


 そこには確かに、ソファに腰を落ち着け来客用のティーセットに注がれた紅茶を口に運ぼうとしているミリーがいた。


 二ヶ月ぶりに見るミリーは、最後に別れたあの日とはだいぶ印象が違っていた。クレアを真似ていた巻き髪は解かれて背に流され、カチューシャで前髪を持ち上げ額が見えている。化粧は王都の流行りとは違って薄めで、けれどそれらはかつてどこか無理して見えた彼女の強がりを取り払った、柔らかな印象を私に与えた。


「ミリー、本当に貴女なのね!」


 思わず抱きつきそうになるのをどうにかこらえて、慌ててティーカップをおろしたその手を取り上げて握るに留める。


 クレアと一緒に手紙を送ってから結局返事もなく、もう会えないのではないかと、今生の別れを半ば本気で覚悟しかかっていた彼女が目の前にいる。この世界に転生してクレアを目の前にしたときと同じような――と言うと大袈裟に過ぎるかもしれないけれど、本当にそれほどの喜びと、言いようのない安堵感に、私は彼女の手をきつく握り、そのまま胸元に掻き抱いた。


「え、エルザベラさま、あの、お会いできて私も嬉しいのですけれど、その」


「ンンッ。エルザ、まずは落ち着いて、こちらに座りなさい」


 慌てたようなミリーの執り成しに続いて聞こえた声で、ようやく私はこの部屋にミリー以外にも人がいることに気づいた。


 私に手を取られて慌てた様子で顔を赤らめているミリーと、その隣には彼女が王都を離れるときに挨拶を交わした穏やかな初老の男性、リュミエローズ伯爵の微笑ましいものを見るような笑顔。そして振り返れば、戸口で澄まし顔をしているアニーと、呆れ混じりに目元を抑えながら、隣に座りなさいと手振りで促すお父様。


 ……あれ、私もしかしていま、とっても恥ずかしいことをしたかしら?


「……こんな無作法な娘ですまない、伯爵」


「いえいえ、私としては可愛い娘を大切にしてくださる方に預けたい。エルザベラ嬢の振る舞いは、むしろ是非にと私の気持ちを強くしましたとも」


「え、っと……」


 お父様に促されるまま隣に座りながら、私は既に大方の用件について話し終えているらしい両家の家長のやり取りに首を傾げる。


「取り乱して申し訳ありませんでしたわ。それで、本日はどういったお話で我が家へ?」


「ええ、侯爵には既にお話をしましてね。条件付きで承諾を頂いたところなのです。エルザベラ嬢にも、ぜひとも良いお返事を聞かせていただきたい」


「お話が見えないのですが」


「今日、こうしてお伺いしたのは他でもない。エルザベラ嬢」


「は、はい」


「ここにいるミリエール、我が娘と婚約して頂けませんかな」


「――――はい?」


 思わず令嬢にあるまじき、ぽかんと大口開けた顔で伯爵を見返してしまった私を、誰が責められようか。


***


「…………」


「また読んでる」


 寝室に入った私に背を向ける形でベッドに腰掛けていたミリーにそう声をかけると、彼女は驚いた様子もなく振り返り、手にしていた手紙で口元を隠すようにしてくすりと小さく笑う。


「何度でも読みたいものですからね」


「恥ずかしいのだけど」


 丁寧だけれど、あの頃と比べたら随分くだけた言葉遣い。誰の真似をするでもない彼女自身の言葉が聞けるのはいいのだけど。


 何年も前の赤裸々な思いを綴った手紙を、結婚してまで繰り返し読まれる私の気持ちもわかってほしい。……いや、心のどこかでは未だにそれを新鮮に喜んでくれる彼女を可愛いと思って喜んでいる私がいるのも確かだから、そこまで見抜かれていてこうしているなら文句なんて言えるわけもないのだけど。


 ミリーはベッド脇の小棚の最上段にある鍵付きの引き出しに丁寧に折り畳んだ手紙を仕舞うと、ベッド脇に立っていた私の手を引いて、そのままベッドに引き倒してきた。


「……危ないでしょ」


「あら、何がです?」


 いつものことですのに、と言って微笑むミリーからは、かつてのような張り詰めた脆さは感じない。あの頃よりもずっとのびのびと、でも信じるもの、好きなものにはずっと真っ直ぐなまま。

 いつもその気持ちを全力で向けられ続けている私がついつい気恥ずかしさに視線を逸らしてしまうくらいの真っ直ぐさは変わらず健在で。


「んー」


 引っ張り込まれたのは私なのに、体勢は私が押し倒したみたいになっている。覆いかぶさった私にキスをねだって目を閉じるミリーに、私は苦笑して口付けを落とした。


「……ふふ」


「満足した?」


「はい、とても」


 喜びを隠す素振りを欠片も見せずに幸せそうに笑うミリーに、つられて私も笑う。


 ――あのとき、ミリーが私の手紙への答えとして選んだのは、私への婚約の申し入れだった。


 私との出会いを間違いと言わせないために。生涯をかけてその正しさを証明するために。

 何よりミリー自身が、私との出会いが間違いでなかったと示すために。


 婚約してからというもの、すっかり角が取れた彼女は持ち前の真っ直ぐさを全開にして婚約者である私への愛情表現をぶつけてきた。それは婚姻が成立して一緒に暮らすようになっても収まらず……というか更に熱が入っている気がする。


 しかもミリーのこの愛情表現、打算も計算もアピールも、好意からくる計算高さすらもまるで無いからタチが悪い。前世の言い回しで言うなら、天然物の小悪魔とでも言うべき振る舞いを毎日止めどなく浴びせられる私の理性が危うい。


「でも、もっとくれてもいいですよ」


「満足してないじゃない」


「何度だって満足したいですから――ん」


 言い終えた直後の唇を啄むと、もっととばかりに吸い付いてくる。いつも真っ直ぐで一生懸命な彼女を可愛いとは思っていたけど、こんな風に甘えてこられると際限なく甘やかしてしまいたくなる。


「……あのとき、貴女があんなに大胆なことをするとは思わなかったわ」


「婚約のことですか?」


「クレアは、どこかで貴女が思い切ったなにかをしようとしてるって見抜いてたみたいだけど、私は自分の不安ばっかりでちっとも気付けなかったわ」


 二人で出した手紙に返事が無かったあの訪問までの期間。便りのないことにやきもきする私とは対照的に、クレアの態度は堂々としたものだった。曰く、「ミリーがなんの理由もなく私の手紙を無視するなんてありえませんもの。返信がないということは、近いうちにあの子自身がなにか知らせを持って現れるに決まっていますわ」とのこと。


「実際、クレアの言った通りだったわね」


「お姉さまはさすがですね。はじめから私よりもずっと、私のことをわかっていたのですもの」


「…………」


 嬉しそうに、今でも変わらず姉と慕うクレアを褒め称えるミリーに、私の中で嫉妬の蛇が蠢くのを感じる。そんな私の感情の波に気づいたのか、ミリーは私の頬に手を添え、そっとキスを返してくる。


「お姉さまに向ける憧れも尊敬も、あの頃から何も変わっていません。今でもあの方は私の目標であり、敬愛する大切な友人であることに変わりありません」


 ですが、と。ミリーは悪戯な笑顔で私に囁く。


「エルザへの想いは、あの日から今日まで、どんどん大きく膨らんでいます。あの日、お父様の用意した縁談を蹴って貴女に婚約を申し込んだことを後悔したことは一度たりともありません」


 それだけではご不満ですか? と言うミリーを、ぎゅっと抱きしめる。一度は手の届かぬところまで遠ざかってしまった彼女の熱が、匂いが、確かにこの腕の中にあることを確かめる。


 頭では、わかっている。ミリーは確かに私を選んでくれたし、そこに私とクレアを比べてとか、そんな下世話な話が入り込む余地はない。ミリーにとって私は私で、クレアはクレアだ。どちらへむける親愛も、比較するようなものじゃない、それぞれのものだ。


 そこまでわかっていても、私は時折、不思議に思う。不安になる。


 クレアは美しく気品漂う、王国随一の令嬢。そんな誰もが知る評価だけでなく、ユベルとの婚約解消以降は苛烈だった性格も穏やかになり、親しい相手には繊細な気遣いだって見せる、親しくなればなるほどその魅力に絡め取られるような、そんな女性になった。


 ただでさえ魅力的なクレアだけど、ミリーにとってはそれだけじゃなく、憧れのお姉さまであり、お互いに唯一の幼馴染でもある。


 鮮明に抱き続けた憧れがあり、誰よりも近づきたい、隣に並びたいと願った輝きがあり、積み重ねてきた関係の重さだってある。


 果たして私がミリーとの間に積み上げてきたものは、それに勝っていただろうか。

 異なる派閥の家の、それも同性の相手に嫁ぐなどという異例中の異例の選択をしてまで私と共に在ることは、ミリーにとって彼女の恐れた「間違い」ではなかっただろうか。


「確かにお姉さまは私にとって特別な方です。誰よりもその隣に相応しい人間でありたいと願った気持ちに、一欠片の嘘だってありはしません」


「それなら、私よりも――」


「それでも、初めてだったのです」


 私よりもクレアの方が。思わずそう続けそうになった私の言葉を遮って、ミリーが言う。


「私に頼ってくれたのは、貴女が初めてでしたエルザ。それが私にとって、どれだけ大きな救いになったか――なんて、私にしかわからないのでしょうけどね」


 言葉だけなら自嘲にも聞こえるそれを、けれどミリーは嬉しそうに、大切な記憶を抱きしめるように語る。


「貴女が教えてくれたのです。誰かの隣に在る喜び。追うのではなく並び、支え合う温かさ」


 それから――と彼女が続けた言葉は、私の知るかつての彼女とは少し遠くて、けれどそれはきっと、私が一番、彼女に望んでいた言葉。


「誰に間違っていると言われようとも、私の幸せを決められるのは私だけだということも」


 あの日、婚約の申し入れに訪れた彼女は私に言った。


『もう誰にも、私の幸せを間違いだなんて言われたくないのです』


 そう言ってミリーは、貴族として、令嬢として、間違いだらけの婚約を望んだ。間違いでも正解でもなく、ただそう在りたいと望む生き方を選ぶ。ときには間違いすらも進んで選ぶ、を選んだ。


『誰にも、私自身にも、私の望みを間違いだなんて言わせません。だから――』


「だから、私の幸せはエルザの隣にしか無いのです」


 力強く、凛々しく、真っ直ぐにそう言った直後にまた「んーっ」と可愛らしく唇を突き出して何度目かわからないキスをねだってくる彼女は、もう誰かを取り巻くことでしか自分を表現できない取り巻き令嬢ではない。


 クレアの友人で、私の妻で、他の誰にも似ていない、誰かの正解に頼らなくても彼女で在り続ける、そんなただのミリエール・リュミエ・フォルクハイル。


 ……彼女に送った手紙の末尾をどう結んだか、私だって読み返すまでもなく覚えている。

 私がミリーに願ったこと。きっと私の我儘でしかなくて、けれどどれほど身勝手でも、何より彼女のためだと願ったこと。


 月並みな言葉。ありきたりな願い。それでも。



 ――私に見せてくれた、貴女の笑顔が好きでした。これから貴女がどんな未来を選ぶとしても、どこで、誰と生きることを選ぶとしても、どうかあの笑顔を無くさないで。


 きっと、笑っていて。


 私と、クレアと、王都で過ごした日々を忘れないで。

 たとえそれが貴女にとって苦い間違いであったとしても、私にとっては幸せな記憶、大切な思い出です。


 どうか、私の宝物まで否定してしまわないで。

 そしてどうか、貴女の願いを、貴女自身が否定してしまわないで。


 いつかどこかで貴女と再会できるとしても、この別れが今生の別れだとしても、私の人生に貴女が関わってくれたことは私の幸福です。



 ……強がりも多分に含んだ手紙だったけれど、嘘は書かなかった。本音を言えばすぐにでもリュミエローズ領へ会いに行って元気でいることを確かめたかったけれど、会いたいという言葉を隠した事以外は素直な私の気持ちだった。


 そしてそんな私の想いを、腕の中の彼女は今も大切に仕舞い込んで、折に触れては大切そうに開いて読み返してくれている。気恥ずかしくも幸せな、それは私達を繋ぎ止めた思い出。


 貴族社会を生きる令嬢として、私もミリーも、きっと間違いでしかない選択をしたけれど。


「それでも、私は今幸せですよ、エルザ」


「ええ、私もよミリー」


 ライバル令嬢と取り巻き令嬢。私達の出会いも、諍いも、別れも、再会も。すべてが今、この幸せに繋がっている。ならきっと、それは間違いなんかじゃなく。


「……愛してるわ、ミリー」


「愛しています。何よりも誰よりも、エルザ、貴女のことを」


 それは間違いじゃなくて、ささやかな奇跡。幸せな偶然。得難い幸運。

 いつだってきっと間違いだらけの私達だけど、それさえも二人でなら。これは間違いじゃなくて幸運だと、そう言って笑い合えるだろう。


 だって私達はいま、世界で一番の幸せ者だものね。

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