if:間違いじゃなくて、(9)
リュミエローズ領という場所は、私にとって故郷という感覚があまりない。
私が生まれたのは確かに領地の中心に立つ屋敷の一室だけれど、妊娠中の母の静養のために領地に戻っていたその時期が珍しいのであって、私が生まれて一年と待たず一家はすぐに王都の屋敷に戻っていた。
物心着いた頃には王都の屋敷のほうが私にとっては家であり、領都の本邸の方がむしろ別邸とか別荘という感覚に近く、だから期間限定ではなく、いつまでと決めずにそこに滞在するのは背中がむず痒くなるおかしな感覚があった。
「お嬢様?」
「……ああ、ごめんなさい。なにか私に用ですの?」
「いえ、何をなさっているのかと思いまして」
王都から使用人は連れてきていないので、こちらの屋敷にいる使用人は皆私に対して少しよそよそしい。
そんな中で、ぼうっと外を眺めて廊下に突っ立っている主の娘に「なにしてんの?」と直球の問いかけを投げてくるこの侍女、どことなくエルザベラさまに似た赤茶の髪を持つ彼女はハルサ。私より少し年上で、けれど屋敷の侍女の中では若く私と一番年が近い。
こちらの屋敷へ移ってから、なんとなく話しやすくて何かと身の回りのことを頼んでいるうちに、彼女の方も遠慮がなくなってきている。前にこの屋敷に戻った時なら、その態度に「無礼な!」と喚いていたかもしれない、と思いながら、今の私はむしろもう少し砕けた態度を取ってくれても構わないのにと想っている。
エルザベラさまのように、相手を尊重しながらも適度に気安く。
クレアラートさまのように、自分と相手の誇りを認め合いながらも思うままに。
そんな関わりは、この地では期待してはいけないのだろうけれど。
「何をしていたわけでもないのですけれど……」
「また王都のご友人のことを思い出していらっしゃったのですか?」
「友人だなんて烏滸がましいですわ。あの方たちは私の――」
言いかけて、自分の中にその先を示す言葉が見当たらないことに気がつく。友人と呼ぶには憧れが強く、友人と呼ぶには劣等感が強く、けれど他人を気取るには少しだけ優しくされ過ぎた。
「ですが、お嬢様はそのお二人のことがお好きなのでしょう?」
「もちろんですわ。あんな素晴らしい方々に親愛を示されて、好きにならない人なんていませんわよ」
「では、やはりお友達なのでは?」
「……どういう意味ですの?」
問い返すと、ハルサは少し考えるように口元に手を添えるだけの間を取ってから、ですから、と続けた。
「お嬢様はお二人がお好きで、お二人もお嬢様を気遣ってくださった。それはもう、十分にお友達なのでは?」
「私も、彼女たちも貴族です。友人というのは、単に好悪の感情だけで選んでよいものではありません」
「しかし」
「私のように愚かな人間は、あの方たちに相応しくありませんのよ。いつか私の過ちが、お二人を傷つける日が来る前に距離を置くべきなのです」
「…………」
ハルサは何か言い募ろうとした口を閉じて、けれど飲み込んだ言葉を口にしたくてたまらないといった風にじっとこちらを見返してくる。
その視線をどうしてか受け止めきれなくて、私は彼女の顔から目を逸らして、もう一度窓の外に目をやった。
高台に建つ領主館からは領都のほとんどが見渡せる。
こちらへ戻ってから二度ほど近隣の視察に出向いているが、そこで生きる人々、その暮らしぶりは同じ平民でも王都のそれと比べれば地味で、けれど穏やかでそれなりに幸福そうだった。
きっと彼らは彼らの正しさを知っているのだ。
貴族だとか平民だとか、そんなことよりも大切なこと。自分にとって大切なこと。自分が幸福になるために間違ってはいけないこと。きっとそれを知っているから、彼らは幸福そうなのだ。
彼らもきっと、私よりも「正しく」生きている。
「……間違っていても、なんて望むこと自体が、間違いですのに」
「お嬢様」
ぐいと、ハルサに袖を引かれた。逃したはずの視線が、つい振り向いて彼女を捉えてしまう。
「間違えてはいけないことは、あります」
ゆっくりと、逃さないと私の目をじっと見据えたハルサは語る。
「ですが間違わない人などいません」
「それは――」
「間違えたらそれで終わり、なんてことはありません。人は過ちから学ぶものです。そうして間違えて、間違えて、間違いを繰り返して、本当に間違ってはいけないことを見つけるのです」
「…………」
「侍女として出過ぎたことを申しますが、お嬢様。貴女さまにとって今日と言う日は、本当に間違ってはいけないものを取り留める、最後の機会ではないかと思うのです」
「ハルサ、貴女」
「旦那様は、お嬢様が不要と言えば渡さなくてよいと仰せでしたが――」
そう言ってハルサが取り出したのは二通の便箋。
「私は敢えて、強く言います。お嬢様、こちらは今、ご覧になるべきです」
差し出された二通の手紙が誰からのものか、半ば確信に近い予感を抱きながら私はそれを受け取る。
フォルクハイル家の紋と、エルトファンベリア家の紋がそれぞれ押された二通。裏面の署名は、私が憧れた彼女たちの名が美しい筆跡で書かれたもので。
「……あとで、目を通しますから」
「いいえ今です、お嬢様。今でなくては」
ハルサが強く言い募るその意味を、私は知っている。知っていて、心の片隅では迷っていて、けれどその迷いは正しくないからと目を逸らしている。
「顔合わせは本日の午後すぐです。もう、時間はありませんよ」
「っ、だからこそ、だからこそ今読むわけにはいかないのです。貴女だってわかっているでしょう、ハルサ」
「わかっています。この縁談はリュミエローズ家にとっては良いものとなるでしょう。お相手も、お嬢様と少し年は離れてらっしゃいますが評判の良い方です。お嬢様がこれからも穏やかにこの領都で暮らしていくなら最良の伴侶となるかもしれません」
縁談。お見合い。顔合わせ。
今日の午後に予定されているそれは、リュミエローズ家のお抱え商会の若旦那との初顔合わせだ。
他貴族との婚姻ではなく地元である領都に本店を構える商人との縁談は、領に戻って静かに暮らす、という私の希望を最大限汲んでくれたお父様の配慮あってのものだ。
自分の感情のためだけに王都を辞した私が、家のためにできる最後の役目でもあるだろう。
お父様からは無理強いしない、不満があれば断っていいと事前に言い含められているが、だからこそ私にはこの縁談を断るという選択肢は存在していない。
これまで思うままに振る舞い、間違え続けた私が家のため、貴族のために出来るたった一つの「正しいこと」が、この結婚なのだから。
……だから、いま彼女たちの言葉など目にしてしまえば、私は。
「私は、もう二度と間違わないと決めたのです。だからハルサ、これ以上そのことで私に迷いを抱かせないで」
「迷ってくださいお嬢様。そして本当に間違えてはいけないことが何なのかお考えください。旦那様も、お嬢様の幸せを優先しろと仰せです」
「……ハルサ、どうして貴女は」
今回、逃げるようにして領に戻ってからの間こそ私は意識的にハルサを傍に呼んで重用しているけれど、私達の関係なんてそのほんの数週間のものだ。
彼女は別に代々うちに仕えているとかそんな家系ではないし、私を生まれた頃から知っているような馴染みの使用人というわけでも――そもそもそんな歳でも――ないのだ。
それなのにどうしてこんなに私を「知って」いて、私の望みを突きつけてくるのだろう。どうしてこんなにも厳しく、私の幸せを願ってくれるのだろう。
「お嬢様は覚えてらっしゃらないかもしれませんが、私がこのお屋敷に仕えているのは、そもそもが間違いから始まったことなのですよ」
「……間違い?」
はい、と頷いてハルサが語った話には、言われてみれば、という程度だけれど確かに覚えがあった。
数年前、田舎から出てきて仕事を探していたハルサは、街の食堂で開かれていた領都内の求職者を集めて人手を欲している店主や職人と引き合わせるという集まりに向かう途中で、慣れない道で迷い、それらしい人集りを見つけてよく確認もせずにその後ろに加わった。
ところがそれは領主屋敷の使用人募集のために集まった別の集団であり、気づいたときには彼女は面談のために領主屋敷の控室にまで案内されてしまっていた。
間違いに気づいたもののあまりといえばあまりの間違いを言い出せずにいた彼女が青い顔をしていたのを体調が悪いと思ったのか、面談を仕切っていた侍女長が別室で少し休んできて良いと送り出し、そこで彼女は生意気な少女……たまたま王都から戻っていた私と出会う。
私は彼女が間違いからここにいるとは露ほども思わず、それどころか面談を受けに来た使用人候補とも思わず、新米の使用人だと決めつけてあれこれ要求し、当然屋敷のことを何も知らない彼女を困らせた。
まだ幼い領主の娘を邪険にも出来ず、困り果てながらも私と一緒に邸内を駆けずり回る羽目になったハルサは、その様子を見かけていた複数の使用人たちの苦笑交じりの評価も加味した侍女長から面談開始と同時に採用を告げられた。
「あの時の……」
幼い頃のことだし、そもそも私にとっては「妙にどんくさくて役に立たない使用人がいたな」という程度の記憶でしかなく、その時の彼女の顔まで覚えていなかった。
ただ、役に立たないとか使えないとかそんな風に思っていた割に、その記憶はどこか楽しげな思い出として私の中に残っていた。
「私は道を間違い、行き先を間違ってここへたどり着きました。そうしてお嬢様に使用人と間違われて、この仕事を得ました。当初の予定通り街で働くよりずっと良い給金を貰って、実家への仕送りも十分にできています」
「…………」
「私は間違えたおかげで、いまの暮らしができています。正解だけを選んでいては、こうはなりませんでした」
望む仕事を得られる人間は、貴族平民を問わず決して多くはない。幸運にもハルサがそれを手にできたのは彼女自身と私という二人の間違いがきっかけで。
「私に機会を与えてくれたお嬢様が、間違いを疎んで苦しんでいるのは、それこそ何か間違っているのだと、私は思うのです」
それは私を納得させる理屈ではなく、彼女の個人的な感情によるもの。私を想って説き伏せようとするのではなく、彼女自身が納得できないからという身勝手なもの。
……その身勝手さに、救われる私がいることもきっと、織り込み済みで。
私はハルサの目を見て、手元の便箋を見て、そしてもう一度彼女を見る。彼女は黙って、じっと私を見返すだけ。言いたいこと、言うべきことは言った、とその目が告げる。
私は目を閉じて、開いて、そして手の震えを自覚しながら、でも漠然と決意に似た何かを胸に、一通目の便箋を開いた。
***
――婚約の話が進んでいると聞きましたわ。貴族にとって婚姻とは最大の義務ではありますけれど、言い換えればそれさえ済ませてしまえば義務という肩の荷の大半は下ろせると言っても過言ではありませんでしょう。
その意味で、貴女に早い婚姻を勧めたリュミエローズ伯爵は正しいのだと思います。少し前の、それこそ殿下と婚約していた当時の私であれば伯爵の考えを手放しで肯定していたことでしょう。
なんて書けば、今の私が貴女の婚約についてどう考えているか少しはおわかり頂けるかしら。
ええそうです、不満です。ひどく不満ですわ。
だってその結婚では、貴女は荷を下ろすだけではありませんか。その先に、本当に貴女の幸せはあるのですか?
これは私が友人から言われたことの受け売りですが、今では私が貴女に告げるべき本心であることに違いありません。
貴族の義務というのはあります。時には自分の思いとは違う決断をしなくてはならないこともあるでしょう。ですがそれは、義務に反する思いを抱くことを否定するものではありません。貴女が幸せになることを拒むものでは有りません。
義務はあります。けれどそのために、貴女自身が傷ついて、諦めることが正しいとは、私は思いません。
もしも縁談の相手が貴女にとって幸福な結婚となるであろうと思えるのならそのまま身を任せるのも良いでしょう。けれどそうでないのなら、お父上に、それで不足なら私にでも、助けを求めなさい。この国いちの公爵家の跡取り娘は、貴女の幸福のために助力を惜しみません。
貴女に姉と慕われた身として一つ、貴女に命じます。
次に私と顔を合わせる時には、貴女は自分の幸せのために行動したと胸を張っていなさい。貴女自身の幸せのために、貴女自身が欲しいものを手にするために、必要なことを見極めなさい。
貴女にそれが出来るのなら、貴女はこれまでも、これからも、クレアラート・エルトファンベリアの欠かすことの出来ぬ大切な友人です。
***
……と、要約すればそのようなことが、五枚もの長さに仰々しく装飾された貴族言葉で連ねてあったのが、クレアラートさまの手紙だった。
私を叱咤し、私に選べと言う。
あの方らしく厳しい、けれど親愛と、優しさと、そして強気な言葉の裏に不安も覗く、クレアラートさまそのものの手紙に、口の端が震える。泣きたいような笑いたいような気持ちになりながら、それでも胸に満ちる名状しがたい感情が温かいものであることだけは間違いなくて。
次に顔を合わせる時、と私との「次」を確かに約束してくれる言葉にどうしようもなく希望を抱いてしまう。
私はずっと、彼女の隣に並んで遜色のない、彼女の友人に相応しい人であろうとしてきた。そのために何が必要なのかを考えて考えて、正解が見つからないまま、結局彼女の傍を離れてしまったけれど。
そんな彼女がわざわざ手紙を書いてまで、私の探していた答えをくれた。
正しさでなく、貴族としての格でなく。
私の望みを望むままに求めること。ただそれだけで、彼女は私との友情を約束してくれる。
簡単じゃない。
でも、出来なくもない。
私に覚悟があれば。迷いを振り切ることさえできれば。恐れに打ち勝つことさえできれば。
すべて私の気持ちの問題でしか無い。私だけの問題、私にしか解決できない問題。だからこそ、お姉さまはそれに立ち向かえと私に告げる。
それ以外の全ては引き受けてやるから、欲しいものを欲しいと叫べと言う。
でも――と私の心はまだ逃げ道を探している。
欲しいものってなんだろう。私が、私の幸せのために欲しいものなんて本当にあるんだろうか。確かな幸せが、そのための何かがあるなんてそれこそが私の幻想なんじゃないか、なんて。
――二通目の手紙が、その答えだったのだと、この時の私はまだ知らなかっただけなのだけれど。
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