if:間違いじゃなくて、(8)
「……これで、全部元通りね」
そう言って私が軽く右手を振ってみせると、ミリーは微笑んで「そうですわね」と頷いた。その微笑みが、一体彼女の本心のうち何割ほどを表してくれているのだろう、という疑問は口には出せない。
初めて訪れた王都のリュミエローズ邸は、私やクレアのような公侯爵クラスの貴族からすると「こぢんまり」と評することになるような、そんな家だった。
もちろん貴族の邸宅として十分な大きさだし、王都に屋敷を構える同規模の伯爵家の中では大きな部類に入るだろうけれど、それでもなおその屋敷を小さく、愛嬌のある様子に見せるのは貴族趣味の薄い、ともすれば地味な出で立ちのせいだろうか。
当代リュミエローズ伯爵が先代の権力志向、権威主義に反発して王都にいながら社交にもさほど積極的でなく、王都貴族としては華に欠ける振る舞いをしていることは知っていたが、まさか屋敷の外観までそうした装いに改めているとは知らなかった。
こんな貴族としては華も箔もない家の娘に、あの権威主義の塊みたいだったかつてのクレアがよく気を許していたものだな、なんて失礼な感慨を抱くほどその家は素朴な印象だった。
中でお茶でも、と伯爵夫人に勧められたが、私達のために初日から旅程を送らせては申し訳ないと断った。クレアも文句を言わなかったので、同じ考えだったのだと思う。
リュミエローズ家の門扉の前、家紋の入った馬車の前に立つのは旅支度を整えたリュミエローズ伯爵と、娘のミリエール。
それを見送るように屋敷の門扉を背に並ぶのはリュミエローズ伯爵夫人に、リュミエローズ家の主立った使用人が数名、そしてミリエールの友人として駆けつけた私とクレア。
私の腕の包帯は、既に一昨日には医師から解除の許可が出ていたのだけど、あえてこの場までは外さなかった。明確な理由があった訳ではないけれど、これを外すということはミリーが私の腕代わりという役目を終えて、王都を離れることを意味していて。その瞬間を、まだ迎えたくないというささやかな抵抗だったのかもしれない。
その包帯も、たった今外された。
ミリーは、父であるリュミエローズ伯爵が視察のために領地へ戻るのに随行する形でリュミエローズ領へ戻り……半月後、王都に戻るのは伯爵だけ。
ミリーは王都への出入りを禁じられる訳ではないが、これまでのように王都で暮らし時折領地へ戻るというサイクルとは生活が逆転する。おそらく生涯王都暮らしであろう私やクレアとは顔を合わせる機会は極端に減ることだろう。彼女が王都に近い貴族に嫁ぎでもしない限り、今生の別れになる可能性だって無いとは言えない。
「……ミリー、」
何か言いたい、と口を開き、息を吸い込んでも、肝心の言葉が出てこない。引き止めたい、というのも私の本音なら、この期に及んで彼女のこれからの道行にわざわざ後ろ髪引くような真似をしたくないというのも本心で、板挟みの私は間抜けに口をパクパクさせることしかできなかった。
「エルザベラさま――いえ、あの……今だけ、エルザとお呼びしても?」
「っ、いいわ。今だけなんて、これからも好きに呼んでちょうだい」
「ありがとうございます」
あるかもわからない「これから」を許しても、彼女は少し寂しそうに笑うだけで、その未来を約してはくれない。
「私、いまでも思っていますの」
「……なにかしら」
「エルザは、お姉さまの親友には相応しくないんじゃないかって」
「今それを言うの!?」
こんな時まで! と思わず叫ぶと、ミリーは可笑しそうに口元を押さえて笑った。クレアを真似て作り上げた高慢な高笑いでも、自信をなくして諦めたように小さく口の端を歪めた笑いでもない、きっとそれはミリー本来の素直な笑顔。
クレアのように見るものを威圧する力のある笑みではない。私が社交界でそう振る舞うような、華やかで人目を引く笑みではない。でも、ふと視界の端に映るだけで見たものの心を少しだけ和らげる、そんな笑顔だった。
「ほら、そんな風にすぐに本心を口になさいますもの。魔窟とまで言われる王都社交界でお姉さまのパートナーを務めるには不足ではなくて?」
「私だって場は弁えますわよ、いまは完璧令嬢ではなく、エルザベラとしてここにいるだけです」
口を尖らせる私にもう一度微笑みかけて、ミリーは私の右手を取った。
「……もう少し早く、もう少し違った形で、貴女とこんな風に本音で話してみたかったですわね」
そう言いながら彼女は、私の右手をそっと……と言うにはいささか力強く握る。握られた手を通して伝わる彼女の震えの意味は、後悔、なのだろうか。
私の怪我に責任を感じて、彼女はこの右手の代わりを務めることになり、そしてようやく私達は出会ってから初めて素顔で話せる関係にまで進んだ。……その時にはもう、彼女の中で結論は出ていたけれど。
もう少し早く私とミリーの関係が進んでいたら、この別れは無かったのだろうか。そんな「もしも」に意味なんて無いとはわかっていても、素顔のミリーを好きになったからこそ余計にそんな益体もない可能性を想ってしまう。
こうならなければ得られなかった関係と、こうなったから失ってしまった関係が同じものだなんて。
「けれど……私はきっとまた間違うでしょう。エルザにもう一度傷を負わせてまで、私はこの王都に留まりたいとは思いません。いつか、お姉さまにだってご迷惑をおかけすることになります」
「っ、私はそんなこと――」
――気にしない、なんて言ってもミリーには何の意味もないだろう。同じように思ったのか、クレアは思わずと言った様子で開いた口をつぐんだ。
私たちが気にしても、気にしなくても関係ないのだ。ミリー自身が、そんな自分を許せないのだから。
「……貴女にそんな心配をされるほど、私と我が家は弱く有りませんわ」
「そうですね、お姉さまならそう仰ると思いました」
せめても強がって見せるクレアに、今はきっとそれを強がりと見抜けるはずのミリーは、けれど諾々と頷いて肯定する。こうなる前の、悪役令嬢と取り巻き令嬢としての関わりを懐かしむように。
「ミリー、名残惜しいのはわかるが、そろそろ」
リュミエローズ伯爵が穏やかに、しかし明確に、惜しむ別れが迫っていることを告げる。
ミリーはさっと顔を伏せ、素早く目元を拭う。私もクレアも、もう少し、とは言えなかった。
別れを告げなくてはならない。でも……さよならも、またねも、この場に相応しいとは思えなくて、私達は三人揃って黙り込む。もしかしたら最後かもしれないこの別れに、私達が最後に交わすべき言葉はなんだろう。それにも、正解と間違いがあるのだろうか。
「……ミリー」
急かすようなじりじりした沈黙を破って口を開いたのは、クレアだった。
「貴女が何者かを決めるのは、周囲ではありません」
さよならでも、またねでもなく。クレアが諭すように口にしたのはそんな言葉だった。
***
「貴女が何者かを決めるのは、周囲ではありません」
いつか聞いた言葉をいま一度繰り返したお姉さまを、思わず見つめ返す。お姉さまは瞬きすら厭うように強く、睨むように険しい視線で真っ直ぐに私を捉えていた。
「貴女の振る舞いの是非を決めるのも、周囲ではありません。もちろん、社会において、組織において、是とされる行動、非難される選択、称賛される振る舞い、疎まれる愚かさもあるでしょう」
ですが、とエルザの右手を握ったままだった私の手を、その上から包み込むようにしながらお姉さまは続ける。
「貴女の振る舞いが、貴女にとって善いものか、そうでないか、それを決められるのは貴女だけです。痛みを伴うから過ちなのではありません。周囲に称賛されるから正解なのではありません」
ただ、と。たくさんの言葉にならない別れの言葉を飲み込むように、あるいは噛んで含めて、最後の言葉に込めるように。
「貴女が自らの振る舞いとその結果を、少しでも愛しく思ったなら。そう思えたなら、それはきっと」
――きっと、貴女だけの幸せなのですわ。
そう告げて、お姉さまは私の知らない柔らかな笑みを浮かべて一歩下がった。あとには、未だ互いの間に手を渡したままの私とエルザが残る。
「……そうね、クレアの言う通りよ」
私に握られたままの右手に視線を落としながら、エルザは呟くような、自問のようなささやかな声でそう言って、ゆっくりと下ろしていた顔を上げた。
「ね、ミリー」
「……なんですか」
「私、怪我をして良かったと思ってるの」
空いている左手を右腕に添えて、そんなことを宣った。
思わずぽかんとする私に微笑みかけながら、彼女は「良かったこと」について話し続ける。
「そりゃ痛かったし、起きたら喉もカラカラで身体は思うように動かせないし、災難だったなと思わないわけではなかったけれどね」
言いながらも、たしかにその声音に私を責める色はない。それどころか彼女の言葉通りの災難を疎む様子すらなく、かすかに頬を染めて陶酔すら感じさせる表情は至福の思い出を語る風ですらあった。
「この怪我のおかげで、私はミリーの素敵なところをたくさん知れたわ。貴女に触れて、関わって、今まで出来なかった話をたくさんして、見たことのなかった表情をたくさん見せて貰った。それを、私は得難い幸福だったと思う」
「…………」
大げさですわとか、お世辞は結構ですとか、冗談がお上手ですわねとか。返すべき言葉はきっとそういうものだ。
だって私のしたことは、彼女を何度も罵倒して、話も聞かず一方的に噛み付いて、一歩間違えば怪我では済まないような事故に巻き込んだだけ。
どう転んでも、厄介な犬に噛みつかれた記憶でしか無い。幸せな記憶になんてなるはずがない。どうしようもない私が、どうしようもなく間違っていただけの、誰にとっても善い意味なんて持ちようがない、そのはずの過ち。
なのにそれを幸せだと語るエルザの視線は少しも揺らがない。言葉で足りないのなら目で伝えるとでも言うように、私の視線と絡んで離さない彼女の目つきに、疑いなんて挟む余地はどこにもない。
彼女は心底、私の過ちが産んだこの数週間を愛しく想っているのだと、納得させられる。
あの時間を、甘く、愛しく、いまでも恋しく想っているのが、私だけではなかったと語ってしまっている。
まるで、私の過ちを肯定してしまうような、そんな囁き。
その言葉に、握っている彼女の手に縋ってしまいたくなる。引き止めて、私を必要だと言って、過ちを許すと告げて、とそんな情けない願いを口にしてしまいたくなる。
……でも。
「ありがとうございます、エルザベラさま」
「…………」
いつもの口調に戻った私に、エルザは一瞬だけ泣きそうに顔を歪めて、けれどすぐに完璧令嬢の美しい笑みを浮かべた。そんな笑顔より、さっき私との数週間を語った和らいだ笑みをもっと見たいと思ってしまった。
それを叶えられないのが、いつもいつも間違い続けてきた私には相応しい終わりだ。
「貴女のような尊敬できる女性にそう言って頂けただけで、私の愚かさも報われます。どうかこれからも、素敵な貴女でいてください。リュミエローズ領から、貴女の幸福を祈っていますわ」
「………………ありがとうございます、ミリエールさまもどうか、お元気で」
「ええ」
そうして私達は社交の席ですれ違う時に浮かべる笑みを交わし合う。この数週間こそが間違いで、在るべき正しい関係に戻ったことを確かめ合うように。
「ミリー、貴女は私の友人です。困りごとがあればいつでも連絡なさい」
「ありがとうございます、クレアラートさま」
「……元気で」
「はい」
お姉さまを名前で呼ぶ。彼女を慕う取り巻き令嬢ではなく、ただ歳が同じだけの格下の貴族令嬢に戻る。
そうやって、王都で私が手にした過ぎたるものをひとつひとつ、手放して。
「行きましょう、お父様」
「いいんだね?」
「はい。すこし長すぎたくらいです。お待たせいたしましたわ」
「いや……それじゃ、行こうか」
父に手を引かれて、馬車に乗り込む。
馬車の戸を閉じる前に見送りへの感謝をエルザとお姉さまの二人に伝える父の声を聞きながら、私はじっと足元を見つめ、目元に力を入れていた。戸が閉まるまで、涙を溢れさせないために。
きっとこちらを見ているであろう、憧れの二人の令嬢を、私を友人だと言ってくれた、愚かな私には過ぎたる出会いを、もう見つめ返すことは出来ない。もう一度顔を見てしまったら、もう涙を堪えられない。
ばたん、と馬車の戸が閉じられて。
がたん、と馬車が揺れて。
がらがらと音を立てて馬車は王都の外門へ向けて動き出す。
「…………」
気遣わしげにこちらを伺うお父様の視線を感じながら、私は俯いたまま顔をあげることが出来ない。
そう時間をおかず、馬車が王都外門の騎士団詰め所で一度止まり、そしてすぐに動き出す。
ごとん、とひときわ大きく車体が揺れて、馬車が城門を出て街道に乗ったことを伝えてきた。
「……ふ、ぐっ……うぇ……」
そこでやっと。
私は顔を覆って、涙を流した。
「うあぁぁぁぁぁ――――」
少しだけ堪らえようとした努力をすぐに投げ出して、声を上げて泣く。お父様は、黙って私の背を撫でてくれていた。
もっと王都にいたかった。
お姉さまと、その背を追うだけではない、隣に立って胸を張って笑い合う、本当の友人になりたかった。
エルザに、私にはじめて期待をくれた彼女に、もっときちんと応えたかった。
いつかお姉さまに、ありがとうと言われる存在に、頼られる人間になりたかった。
もっとたくさん、エルザのいろんな顔を見て、いろんな声を聞いて、同じものを見ていたかった。
二人に、意地を張らないありのままの私を、もっと知ってほしかった。
間違っていてもいいから、もっとずっと一緒にいたかった。
生まれ育った故郷へ戻る道を辿りながら、王都を離れるほどに心細くなっていく自分を自覚する。間違いと言うならきっと、初めから全て間違っていたのだ。
――王都になんて、来たのが間違いだったのだ。
全部全部、間違いだった。私も傷ついて、お姉さまも悩ませて、エルザも苦しめて。王都に来たことが、彼女たちに出会ったことが、全部全部間違いだった。
間違いだった、なんて。
「そんなの、嫌よ……間違いだなんて、言わないでよ……」
嗚咽の隙間に、言葉が漏れる。自分でも目を背けていた気持ちがまろび出る。
最も素晴らしい出会い、最も愛しい思い出を否定しながら。
私は枯れるまで泣いて、泥のような眠りに沈んだ。
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