if:間違いじゃなくて、(7)

 エルザベラさまと学院で行動をともにするようになってから一週間ほどの時間は、私にとっては一瞬と思えるほど早く過ぎていった。


 もちろん、自分のことだけでなく彼女の不自由な腕の代わりを務めるという役割上、普段であれば足を運ばない場所を訪れたり、普段であれば会わない人と顔を合わせたりといった慣れない忙しさによるところもあったけれど、それ以上に、エルザベラさまといることで見えてくる世界が、私の見ていたものとまるで違っていた、その驚きに翻弄されていたからというのが大きい気がした。


 お姉さまの背中を追いかけていた時とは違う。それは何も、エルザベラさまの視野や人脈が、お姉さまより優れているという訳ではないだろう。どちらかといえば私の目が、お姉さまの輝きで眩んでいないから、といった方が正しい。


 お姉さまを追いかけている私は、いつだって私の視界の真ん中に、世界の真ん中に、お姉さまという輝きを据えていた。その眩さにばかり気を取られて、その強すぎる光に霞んでしまうものを見ようともしなかった。


 でも、私はエルザベラさまに憧れてはいない。


 今となっては殊更に妬み、敵視するだけの気力もない。そうでなくとも、あの事故で怪我を負わせてしまったあとでは、冷水を浴びせられたも同じで、自分でも驚くほど落ち着いて、冷静になれているように思う。


 エルザベラさまに憧れはしないけれど、私などが彼女を妬むのは、彼女に憧れるのと同じくらいに愚かなことだと思わされた。


 それは、すごい、とそう思うからだけではない。


 確かに彼女はすごい。完璧令嬢、社交界の華。その評判は何も間違っていないし、間違っていると言うならその言葉さえ彼女を評するに不足だと言うことになるだろう。


 でもそれ以上に、エルザベラ・フォルクハイルは強く、自由だった。


「ミリー」


「……あ、はい」


「どうかしたの?」


「いえ」


 止まっていた手を動かして、何往復目かのスプーンをエルザベラさまの口元に差し出すと、彼女は躊躇なくぱくりとそれを口に含む。


「ん、美味しい」


「それは……よかったです」


 何を言うべきか迷って、結局当たり障りのない言葉で返すと、エルザベラさまは「ええ、よかったわ」と微笑んだ。


 利き腕が使えないとはいえ、スプーンを持つくらいなら左手でもできるだろう。ナイフとフォークを使うとなれば片手では難しいけれど、学院の食堂で怪我で片手の使えない令嬢がスプーンだけで多少不格好な食事風景を晒していてもそれを強く咎めようとする者はいない。


 それなのにこうして私の手を借りようと甘えて――「甘える」という以外の表現が思いつかない――くるのは、彼女の奔放さであり、強さであり、優しさなのだろう。


 周囲の視線をむしろ集めてしまうような振る舞いでも、彼女はそれが必要であれば躊躇しない。完璧令嬢と呼ばれる人間であるために努力しながら、その評価に固執しない。一見して矛盾するそのふたつは、けれどどちらもきっと偽りではない。


 ただ、彼女にとっては自身を高める努力は周囲の評価ではなく、自由のための武器だった。すべきこと、やりたいこと。それを成すために評価や地位が必要だから、それがあることでより自由になれるから、だから彼女は、完璧でありながら、自由であることに迷いがない。


 奔放で、強い。


 そして「彼女の腕の代わり」としてこの場にいる私に、少しでも多くの役割を与えようとしてくれるのは、きっと彼女の優しさなんだと思う。


 自分ひとりで出来てしまうことも、彼女は積極的に私の手を借りようとした。そうすることで、私自身に過ちを償えていると思わせてくれるつもりなのだろうと、なんとなく察することが出来たのは、私が初めて、穿った目でなく素直に彼女の目を見つめ返しているからだろうか。


「……すっかり仲良しですわねぇ」


 呆れたような目で私達の「あーん」を見ていたお姉さまが、こちらは美しい所作でナイフとフォークを操って上品に食事を進めながら私達を評する。


「あら、クレアってば嫉妬してる?」


「どちらにですの……いえ、自分で言っていて意味がわかりませんわね」


「もちろん両方よね」


 思わず、と言った風に口にした言葉を額を抑えて訂正したお姉さまに、エルザベラさまは悪戯っぽく笑いながら追い打ちをかける。数瞬遅れて、私もやり取りの意味を理解した。


 親友のエルザベラさまを取られて寂しいのか、いつもお姉さましか見ていなかった私がエルザベラさまを見つめているのが寂しいのか、というからかいの言葉を受け流そうとして、どちらにも嫉妬などしていない、と答えれば受け流せたはずのそれをつい素直に受け止めてしまって……とまぁ、そんなやり取りが行われていたわけで。


 こんなところでも、二人の親密さや、頭の回転の速さに、自分が取り残されているのを感じる。


 お姉さまの隣に当たり前のように収まったエルザベラさまを恨めしく思っていた私が胸に抱いていたそれが嫉妬というよりは劣等感と呼ばれる感情であることに、この一週間でさすがの私も気づいていた。


 お姉さまは素晴らしいご令嬢で、エルザベラさまもそれに見合った教養と品格の持ち主で、私は二人のどちらと並んでも、せいぜい子飼いの取り巻きと見えるのが限界だろう。


 私とは比ぶべくもない二人に対して、一人には憧れ、一人には劣等感を抱く。その背中に追いすがり、追い越すために、私は結局なにもしなかった。出来なかった。


 エルザベラさまに噛み付いて、彼女をお姉さまの友人に相応しくないと詰め寄りながら、どうして自分がその場所にいないのか考えもしなかった。考えなかったというよりは、考えるまでもないと勝手に決めつけていた。考えなしに、相応しいのは私だと信じ切っていた。


 お姉さまの親友に相応しく在ろうとしただけ、とエルザベラさまは言っていた。ヒントではなく、答えまでくれていたようなものなのに、私はこの一週間を経てようやく自分が「何もしていなかった」のだと気づかされた。


「ミリーも、あんまりエルザを甘やかす必要はありませんわよ」


「あら、甘やかすだなんて。私は当然の権利を行使しているだけよ」


 ね、と微笑みかけられて、私は曖昧に笑って視線を逸らす。……少し、頬が熱い。


 甘やかしている、と言われればそうかもしれない。私の胸にある罪悪感を利用されて、からかわれているだけだと言われたら、一概にそれを否定もできない。


 ――でも、だって。

 嬉しい、と思ってしまうのだ。


 誰かに頼られたり、甘えられたりすることはなかった。同世代の令嬢たちはもちろん、年下の令嬢たちと社交の場で会っても、私は憧れられることも頼られることも甘えられることもなく、何かを期待されることはなかった。


 両親でさえ、私には「貴族令嬢として恥ずかしくない教養と振る舞い」を求める以上のことはしなかった。隠居した祖父、先代リュミエローズ伯は権力志向が強かったが、当代の当主であるお父さまはその辺りはだいぶ大人しくしている。当代リュミエローズ家が目立った功も立てず、一方で悪評の一つもないのは、それはそれでお父さまの努力の成果なのかもしれないと思う。


 両親のそんな方針のためもあり、そして私自身の生まれ持った才覚の凡庸さと、それを磨こうともしない愚かさのせいで私も目立ったところのない平凡な令嬢として育ち、クレアラート・エルトファンベリアという輝きに出会ってその背を追いかけ始めた。


 私はお姉さまに憧れたけれど、お姉さまの何に憧れたのかを真剣に考えたことはなかった。ただ、お姉さまのようになりたいと強く、強く感じていて。


 きっと、私はお姉さまの所作や品格そのものに憧れたのではない。周囲からの期待を背負い、常にそれに応えようとする彼女の振る舞いに憧れた。


 周囲に何かを期待されること。いつだって自分の力で、その期待に応えていること。

 期待をかけられることなど無く、無難で平凡であることだけで「それで十分、それ以上は不要」と言われてきた私には、期待されることそれ自体が憧れだった。


 だから、私はきっと今の状況を喜んでしまっているのだ。


 甘えられるということは、それに応えてくれると期待されているということ。少し自惚れた、大げさな言い方をするなら、信頼されているということ。エルザベラさまは私に期待して、私がそれに応えると信じてくれる。


 それが、どうしようもなく嬉しい。


 エルザベラさまがそうして私に甘えた振る舞いをすることが、私の罪の意識を少しでも軽くしようという気遣いだとわかっていて、それでも。

 この人の隣で、この人の期待に応えることができて嬉しいと、そう感じている自分を、誤魔化せる気がしなかった。



***



 お父様――当代のリュミエローズ伯爵に呼び出されたのは、その晩のことだった。


「ミリエール、参りました」


「ああミリー、そこに座って」


 お父様に促されて執務机の向かいに用意されていた椅子に腰を下ろす。口調こそ穏やかで険しさは感じなかったけれど、つい先程まで家族揃って食堂で食事を摂っていたのだ。その席でも話はできたろうに、こうしてあとになって呼び出されたことから、何か大事な話なのだろうと身構えてしまうのは仕方ない。


「……領地に戻りたいと、言っていたね」


 前置きはなく、お父様はいきなり本題を切り出してきた。


「そうしたいと、思っていますわ」


 言い切る前に少しだけ、言葉がつっかえたけれど、その瞬間に、エルザベラさまの笑顔が頭をよぎったけれど、それでも私は自分の気持を続けた。


「私は、この王都に私の、リュミエローズ伯爵令嬢としての役割があるとは思いませんので」


 少し遠回しな言い方だけれど、つまり「これ以上トラブルの種になる前に自分から身を引いてしまいたい」という意味だ。上昇志向の強かった祖父を、家を継いで早々に領地の奥に押し込めてまで無難な領地運営と無難な社交を選んだ父に、その意図が伝わらないはずはないだろう。


「その件について、私なりに考えてみた」


 ということは、その結論を、当主として私の処遇を決めたということなのだろう。それを、この場で私に告げるのだろう。


 せめて学院卒業までは王都に留まれと言われるのか、それとも私の意を汲んで領地に戻すと言われるのか。どちらを告げられたいのか、正直いまの私にはわからなかった。どちらを言い渡されても、その瞬間に泣き出してしまうような気さえしていた。


「お前がそう望むなら、領地に戻ることを許そうと思う」


「……ありがとうございます」


 当主の立場からの物言いで、けれど声には少なからず私への思いやりを乗せてそう言ったお父様に、頭を下げることで視線を合わせることから逃げる。


 私の望みを聞いて、それを叶えると言ってくれた父に、いまの表情を見せるわけにはいかないと思った。


 貴族の娘は社交に於いても政治に於いても、それなりに重要な駒だ。貴族の娘としてそれくらいは知っている。


 けれどお父様はその駒を盤外に逃してもいいと言ってくれたのだ。有力な大貴族の娘に怪我を負わせた責任を取るという形で家の厳格さを示せるとはいえ、それは婚姻、縁戚関係という武器を捨てるのに釣り合うメリットではないだろう。


 だからこそこうして領へ戻ることを許されたのが、お父様の親心なのだと理解できる。私のためを思って、決断してくれたのだとわかる。


 でも、いまの私はそれを喜んではいない。逃げ出せることに、安堵もしていない。それどころか、王都に残りたいという気持ちすら湧き上がっている。


 だって王都には、エルザベラさまがいる。


 今だけ、私が負わせてしまった怪我が治るまでの、ほんの数週間だけ。それだけの間の、期間限定のものだとしても。


 初めて私に期待して、甘えて、それに応えることを許してくれた人が、この王都にはいる。


 王都に残ったからといって、今後もエルザベラさまが私に甘え続けてくれるわけではないだろう。今のように親しい関係を続けられたとして、いずれ私は、またどうしようもない間違いを繰り返してきっと愛想を尽かされるのだ。エルザベラさまと一緒に王都で仲良く過ごすより、彼女の友人に相応しくない私が切り捨てられる未来ばかりが浮かんでくる。


 それでも、未練は断ち切れない。


「当主としてお前の提案を受け入れる。父としてお前の選択を許す。……だが、フォルクハイル侯爵からは今回の一件、咎め立てしないと言われているし、お前次第だ。急ぐでもない。もう少し、考えてから結論を出しても遅くはないだろう」


 お父様は優しいのだと思う。強制せず、私が選ぶことを許してくれている。でも、今の私には、自分自身を見下ろすようになった私には、自分が心のどこかでそれを寂しく思っているのがわかってしまう。


 もしもお父様が「王都に残れ」とか「領へ戻れ」だとか、私に役割を求め、それを果たすように期待してくれたなら、きっと私は従った。エルザベラさまへの未練を断って、父の期待に応えるために努力しようと思えたかもしれない。


 けれど実際に告げられた言葉はどこまでいっても私の自由で、私の選択で、私の責任で。

 間違いたくない、選びたくない。そう願う私にとって、それは呪いで。


 ……明日、学院は休みだ。エルザベラさまには会えない。


 エルザベラさまの腕が完治し、彼女に甘えられる私という立場が用済みとなるまでの間の貴重な一日が、彼女と会うことなく終わってしまう。明日一日でさえその虚しさに息苦しくなる。


 からかうように、ふざけるように、あーんと口を開けて私が差し出すスプーンを口に含んで微笑む彼女に、会いたいと思った。



***



 ミリー、と彼女を愛称で呼ぶのは不思議な感じがした。


 クレアがずっとそう呼んでいたし、私も社交の場ではともかく学院の中では時々ぽろりと内心で口にしている愛称がついつい口に上ってしまうこともあったので、その響きが私の口に馴染まないという訳ではない。


 ただ、ミリエールさまと呼ぼうとしてぽろりと愛称がこぼれてしまうのと、意識して親しい友人を呼ぶように愛称を口にするのとでは私の心持ちがまるで違う。


 呼ばれるミリーの方は……どうだろう。随分私への態度から角が取れたとは思うけれど、それが彼女の私への印象や感情の変化なのか、罪悪感や諦念から噛みつく元気もないのか、私には判断がつかない。


 あの日ミリーが私に、王都を去るという考えを告げてから一週間ほど。学院にいる間に限らず、私はクレアとともに出来る限りミリーと一緒に行動するようにしていた。


 学内政治的な意味合いも、あるにはある。ただの事故だったとはいえ、私の怪我の一因がミリーにあるのは確かで、直前まで私達が口論していたことも学院の関係者なら簡単に知ることが出来る。そこから、ミリーが悪意を持って私を突き落としたという想像と、ただの事故だったという想像のどちらを浮かべる人間が多いか、考えたくはないが考えるまでもない。


 そういった噂や悪評からミリーを遠ざけるために、当事者である私が彼女と親密に接し、そんな私達のそばに王家に次ぐ、つまり学院ではユベルに次ぐ権威を持つクレアがいることで、邪推と悪意の双方からミリーを遠ざける。


 それはクレアとも確認して決めたことだ。ミリーを守るためであり、学院内に余計な混乱を起こさないために、力のある貴族として当然の配慮でもある。


 しかし最初の数日で、その配慮はもう十分だろうと感じていたのが、私の正直な感想だった。


 初日こそ、私がミリーにこれみよがしに頼って見せるのを訝しむ視線は多かったが、悪意のある視線はその何分の一程度しか感じられず、それもクレアが睨みを利かせればすぐに散る程度のものだった。


 それ以降は好奇の視線が大半だったが、クレアの婚約解消騒ぎでそれなりに私の振る舞いが知られていることもあって、少しばかり私が自由に振る舞ったところで「また何かやってるな」と思われているだけのようで、そこにミリーの不利になりそうなものは含まれていなかった、と思う。


 あとはミリー自身に立ち直ってもらうだけ。そしてそれも、遠からず達成できるのではと思えるくらいには、ミリーの様子は穏やかだった。


 あの日、私が目を覚ましたその時以来、彼女は故郷であるリュミエローズ領へ戻るという件について何も言わない。王都に残る決心をしてくれたという訳でもないだろうけれど、いつ帰る、帰ってどうする、と具体的な話を進めている様子でもなく、保留になっているようだった。


 初めこそ私に怪我をした腕の代わりを頼まれるたび、ぎこちない作り笑いを浮かべていた彼女だったけれど、一週間が過ぎる頃には遠慮がちにだけど確かに笑ってくれるようになっている。このまま、彼女が以前の調子に戻ってくれればいい。私とクレアは互いに直接そう言葉にした訳ではないけれど、ひとまず山は越えただろうと安堵していた。


 ……それとは別に、私個人としてミリーに甘えるのを楽しんでいるところもまぁ、ないとは言わない。


 甘えられたり頼られることに慣れていない様子のミリーだけれど、慣れないなりに一生懸命私のお願いに応えてくれようとする彼女の懸命さと言おうか、健気さと言おうか。

 もともと彼女が持っていた愚直さや真っ直ぐさが、敵意としてではなく、献身として自分に向けられている。それがなんだか殊の外居心地良く、懸命な彼女が可愛らしく見えるのは、親心みたいなもの、かしら。


 だから、というか。


 油断していたという表現が良いものか、わからないけれど。


「父に、領へ戻る許可をいただきました」


 休みが明けた朝。

 ミリーにそう言われた私は、呆気にとられた間抜けな顔で、言葉の出ない口をぽかんと開けて、彼女を見返してしまった。

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