if:間違いじゃなくて、(5)
針の筵のような一日を過ごし、念願だったお姉さまの隣の席で講義を受けながら少しも高揚しない気分を嘆いた翌日、私は学院を休み、朝から別の場所へ向かって馬車に揺られていた。
休んだのは私の意思だけでなく両親の考えもあってのことだったが、とはいえ正直なところ少しホッとしている自分もいて、そのことにまた自己嫌悪を覚える。
少なくともこれで、あのジリジリと肌を焦がすような視線に晒されなくて済むという安堵感。それを確かに感じている自分が、まるで自分の罪から逃げ出しているみたいに見えて、私はまた少しだけ自分を嫌いになっていく気がした。
もっとも、これから行く先がどこであるかを思えば、逃げた、とも言い切れない。立ち向かっているとも言えないのが微妙なところで、いうなればもはや私には逃げ場が無いだけなのではとも思えてしまう。
「お嬢様、もう到着ですからご用意を」
「……ええ」
同乗していた侍女に促されて、自分の内側に逃げ込んでいた意識を引っ張り出す。がたん、と馬車が一度大きく揺れて足を止めると、外で御者が昇降台を用意する物音がした。……いよいよ、到着したらしい。
馬車の扉が開く前に、そっと窓掛けを持ち上げ外に目をやる。エルトファンベリア邸ほど豪奢ではないが、リュミエローズ家の屋敷よりは何倍も立派で重厚な門が目の前に聳えている。前庭も広く、その威容だけでこの家に住む人間が王都でどれほどの力を持っているのか窺い知れようというものだ。
過去にも何度か、この庭や、邸内のホールを舞台にした集まりに参加したことはあったから、初めて見るというわけではない。ただ、その時は彼女になんの負い目もなく、また彼女にとっての私もおそらくその他大勢のうちの一人でしかなかったから、なんとも思っていなかった。なんなら、お姉さまを差し置いてこんな場を設けるなんて生意気ですわ、と憤っていたかもしれない。
……心持ちが違うと、屋敷の門ひとつでさえこうも違って見えるものかと、私は恐怖にも似た感覚に身震いした。
「どうぞ、お嬢様」
馬車の扉が開き、昇降台の脇で御者が頭を下げる。先に降りた侍女の手を借りて馬車を降りると、すぐに門の内側から人影が現れた。
「ミリエール・リュミエローズさま、お待ちしておりました」
この辺りでは珍しい銀色の髪をきっちり切り揃えた生真面目そうな長身の侍女に出迎えられる。彼女がいつも無表情なのは知っていたが、今日はその評定がそれでもどこか棘を含んだものに見えたのは、私の被害妄想だろうか。
「……ええ。エルザベラさまに、お会いしたいのだけれど」
「生憎お嬢様はまだ意識がお戻りでありません」
こういう時、主の容態というのは隠すものだ。バカ正直に重症です、意識不明ですと口にして、身動きが取れぬならといいように利用されることは避けなくてはならないから。
けれど目の前の侍女は――おそらく彼女の独断で――主の容態を私に突きつけた。その冷静な瞳が、私を鋭く睨んでいるように感じられたのは……多分、気のせいではないのだろう。
意識不明と聞いて、身体が強張る。私が怪我をさせてしまった彼女について、命に別条はない、とは聞かされていたがその容態について詳細に聞いていたわけではなかった。丸一日も経てば、容態がどうであれベッドの上で話くらいはできるだろうと思っての訪問だったのだけれど、予想外に彼女の容態は思わしくないようだ。
その事実の重みと、そして皮肉を込めた言葉で私を突き刺そうとした侍女を前に、怖気づきそうになる。けれどここでそれじゃあと馬車に舞い戻ったら今度こそ自分が自分を許せなくなるわよ、と震える身体を叱咤して、なんとかその場に踏みとどまった。
「そ、そう。それでは――」
「お嬢様はお会いできませんが、旦那さまが貴女をお待ちです」
それなら侯爵に、と私が続ける前に侍女の方からそう言われた。先程「お待ちしておりました」と声をかけられたのは聞き間違いではなかったらしい。
もちろん、来訪の連絡は今朝早くに使用人をやって確認を取っていたし、了承の返事も届いていたので門前払いされるとは思っていなかった。ただ、フォルクハイル侯は忙しい人だし、訪問を了承したということはエルザベラさまにも私と話す用意があるのだろうと安堵していたのだけど、そうではなく侯爵の方が私の訪問を了承したようだ。
「こちらへ。ご案内します」
「……ええ、よろしく」
侍女に促されて、私は門をくぐる。こちらの侍女と御者は、馬車を移動させそのまま使用人向けの客室に通されるとのことで、私とエルザベラさまの侍女の二人だけで前庭を通り、邸内に入る。
「…………」
「あ、あの」
広い邸内の廊下を無言で先導されることに耐えかねて声をかけると、侍女は相変わらず鋭い棘を含んだ視線で振り返り、「なにか?」と冷たい声で尋ねてきた。
失礼な侍女ね、といつもなら悪態のひとつもついていたかもしれないけれど、今の私にはそんな勇気もなければそんな気分でもない。誰かに礼を説けるほど、私自身がそれに則っていたかといえば、エルザベラさまに手を上げようとした時点で私にその資格がないのは明白だった。
「エルザベラさまの容態は、その、そんなに悪いのかしら? 意識が戻らないと言っていましたけれど、それはいつから」
「学院で意識を失われてから、目を開いていらっしゃいません。医者の見立てでは怪我の方は後遺症もなく治療できる範囲ですが、意識が戻らないことについてはお手上げだと。……いまこの瞬間に目を覚まされるかもしれませんが、このまま目覚めないまま、衰弱してしまう、可能性もあると」
彼女は努めて冷静に、あくまでも客を案内するいち侍女として、話したつもりだろう。当事者である私が相手だからこそ、ある程度詳細に話しても良いと判断して、そこまで語ってくれたのだろう。
でも、声が震えていた。
それだけで、彼女にとってその「可能性」が筆舌に尽くせない恐怖なのだと伝わってきた。
「ごめんなさい」
だから、なのか。理由は自分でも定かではなくて、謝って何が変わるわけでも、目の前の女性に許されたい訳でもなくて。ただこの人に謝りたかった。謝罪することでしか、自分を認められなかった。
「……謝罪はお嬢様と旦那様になさってください」
「いえ、これは貴女への謝罪ですわ。もちろん、エルザベラさまにも、侯爵さまにも謝らなければいけない事はあります。でも、これは貴女の大切な方に怪我をさせてしまった、そのことに対する、貴女への謝罪なのです。アニエス・シルバ……さん」
さま、と呼ぶのはさすがに立場柄無理だった。けれど呼び捨てていては私の気持ちの半分も伝わらないと思った。下げていた頭を上げると、目の前の侍女――エルザベラさまの専属であるアニエスさんはいつもの無表情な目をほんの少し驚きに見開いて私を見返していた。
「……私の名前をご存知だったのですね」
「以前、エルザベラさまから伺いましたわ」
他家の使用人の名前を覚える、というのは確かに珍しいことだとは思うけれど、こと目の前の彼女と、それからお姉さまのところのリメールについては彼女たちの主と接する機会が多ければ自然と覚えるものだと思う。
それは単に、彼女たちが侍女として優秀だとかそういう話ではなく、二人の令嬢にとって、それぞれの侍女は単なる使用人の域を越えて大切な人物だからだろう。
よく話題にも登るし、その名を口にする時のお姉さまやエルザベラさまの幸せそうな、安らいだ様子を見ていれば、その名前を覚えるのは意識するまでもないことだ。
いつだって完璧であることを躊躇わないエルザベラさまが、弾んだ声で侍女を自慢している姿を初めて見た時、彼女を敵視していた私でさえ、彼女にこんな顔をさせる侍女はどんなに素晴らしい従者なのだろうと思わされたほどだ。
そんな風に信頼を寄せてくる主に怪我をさせた私を、彼女は侍女の仮面の下できっとひどく罵ったことだろう。許してくれとは言わないし、許してほしいとも、正直思っていない。ただ、どうしようもなく彼女を傷つけ、不安にさせたことについて、済まないと、そう思っていることだけは言葉にしたかった。
身勝手な謝罪。相手を慮るでもない自己満足と言われても仕方なくて、そのうえ私自身も結局「満足」なんて出来はしない。誰の得にもなりはしない、何の意味も成さない謝罪。
それでも、口にしたかった。済まない、申し訳ないと、その気持だけは伝えておきたかった。
――私だって、間違えたくて間違えているわけじゃない。誰かを傷つけたくて、何かを永遠に奪いたくて、振る舞っているわけじゃないのだ。
「……私は、許せません」
アニエスさんは小さくそう言うと、私と視線を合わせることなく歩き出した。慌ててその背を追いかけながら、ああ彼女は優しい人なのだなと思う。
私の謝罪を受け止めて、それでも許せない、主を傷つけた私を許しはしないと断言する。私の謝罪が私のわがままであったように、彼女の怒りも彼女のわがままだと、そうでしかないのだと告げられた。
突き放されているようにも思えるけれど、でもきっと、彼女の言わんとしているのはそうじゃなくて。
私が何をしようと、どんなに言葉と誠意を尽くして謝罪しても、きっと彼女は私を許さない。だから「許されようとしなくていい」と、少なくともアニエスという一人の女性に対して、許されようと気負う必要はないと、前を行く彼女の背はそう告げている……ような気が、した。
それもまた間違いで、私の勘違いで、都合の良い思い込みかもしれないのだけど。
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