if:間違いじゃなくて、(3)
頭が真っ白になった。目の前が真っ暗になったような気がした。
エルザベラさまがぐらりとその身体を傾かせ、階段を背中で降りていこうとする姿がゆっくりと見えていたはずなのに、私の身体もまたゆっくりとしか動かなくて、咄嗟に伸ばした手は彼女に届かなかった。
美しき完璧令嬢が受け身らしい受け身も取れず、鈍い音を立てて転げ落ちていくのを、私は半端に手を伸ばしたままの間抜けな姿勢でただ見ていることしかできなくて。
目の前で何が起きたかを理解しているはずなのに、感情も思考も、そこで立ち止まってその先に進もうとはしない。
何が起きた? エルザベラさまが落ちた。
どうして? 私の手をかわそうとしたから。
どうなった? エルザベラさまは動かない。意識がないみたいだ。
どうしたらいい? わからない。
どうするのが正解? わからない。
誰のせいだ? ――私。
「えるざ、べら、さま」
言葉が、意味のない呼びかけでさえ形にならず。彼女の名を口にしたつもりだったけれど、他の誰かが聞いて、そうと聞こえたかどうか。
私が呆然と立ちすくんでいる間に、下からはどこかの令嬢の悲鳴にも似た叫びが聞こえた。何事かと人が集まりはじめ、誰かの従者らしい者たちが数名、人を呼びに走っていくのが見えた。
それでもまだ、私はその場で何もできず、何も言えず、身じろぎ一つさえできず、真っ白になった頭で必死に何かを考えようとしていた。
混乱の渦中にあって、ひとつだけ明確なのは自分の無力感。
何もできない。私には、いつも、いつだって、なにも――。
「ミリー!」
「っ、あ……お姉、さま」
肩を揺さぶられて真っ暗だった視界が明るくなる。私の肩に手を置いていたのは敬愛するお姉さま、先ほど立ち去ったはずのクレアラート・エルトファンベリアだった。
「何があったのですか! エルザが――いえ、貴女は? 大丈夫ですの?」
階段下、意識のないエルザベラ様を囲むようにできた人だかり。そこに教諭たちが数名駆けてくるのをちらりと一瞥して、お姉さまはエルザベラさまについては口を閉ざした。
「私、私は、平気ですわ。あ、あのそれより、エルザベラさまが、あの、落ちて、意識が」
「大丈夫、意識はないようですが息はしていました。いま、ここに残っても私達にできることはありません」
「で、でもお姉さま、私が、私のせいで、エルザベラさまが」
「まずは貴女が落ち着きなさい、ミリー。……場所を変えますわよ」
言いながら、お姉さまはもう一度エルザベラさまのいる人垣を振り返る。出来ることはない、と言いながら彼女自身が本当は誰よりもこの場に残りたいと思っている気がした。
けれどお姉さまはそれ以上何も言わず、私の手を引いて人垣から離れるように階段を登っていく。本当はきっと、私よりもずっとエルザベラさまの容態が気がかりなはずのお姉さまにそうされては、私がぐずることもできず、私は手を引かれるままに彼女について歩いていった。
「それで?」
手近な空き教室にするりと滑り込むと、お姉さまは後ろ手に扉を施錠しながらそう短く尋ねた。
「え、と……」
「貴女が、エルザを突き落としたのかしら?」
「ちがっ」
否定しようとして、けれど言葉は途切れた。
私はエルザベラさまを意図して突き落とした訳ではもちろんない。でも、彼女の頬を打とうと、害意を持ってあの場にいたのは間違いないし、エルザベラさまが階段から落ちたのが私のせいなのも事実だ。
決して「突き落とした」訳ではない。でも、誰が加害者かと言われたらそれは私だった。
「…………」
「はぁ」
黙りこくった私を前に、お姉さまはやがて短くため息を漏らした。ああ、見放された。今度こそお姉さまは私を見限ったのかもしれない。そんな絶望が麻痺した思考にするりと滑り込んで、私は自分の身体が指先からどんどん冷たくなっていく気がした。
「勘違いしないで欲しいのだけれど」
お姉さまの声には呆れの色が濃い気がした。そんな声が自分に向けられたものだと想うだけで私の目には涙が滲む。こんな風にならない道がどこかにあったはずなのに、私はきっとまた間違えてしまったのだ。
どこで、何を間違えたのか。間違ってしまったということだけは痛いほどにわかるのに、やっぱりその理由がどこにあったのかを私の愚かしい頭では見つけられない。お姉さまに釈明するなら今しかないのに、私の唇は震えるばかりで言葉を紡ぐことはない。
「私は別に、貴女を悪者にしたいわけではありませんのよ」
「……ぁえ?」
間抜けな声が出て、俯いていた視線が勝手に上向いた。
私が敬愛してやまないお姉さまは確かに呆れたように眉を下げて、やれやれとゆるく首を振って、でも。
「怒って、いらっしゃらないのですか?」
怒る価値すら無いと思われたのだろうか。けれど、そんな風に心底私を見限ったにしては彼女の目元は柔らかく見えた。私の願望が見せた幻だと、そう言われてしまったらそれまでだけど、それでも私の目には、お姉さまがまだ私を見捨てていないような、そんな風に見えてしまった。
「怒っているか、と言われれば、まぁ怒ってはいますわね。私の大切な友人に怪我をさせた貴女にも、何がどうなったか知りませんが貴女を追い詰めてしまったらしいエルザにも――あなた達二人を残してあの場を去ってしまった少し前の自分にも、私は怒っています」
けれど、と彼女は言った。怒っているのは間違いない。でも、それはかつてのように苛烈な言動に現れることはなく、彼女は静かに怒りながらそれでも冷静に、状況と、自分の役割を見定めていて。
「エルザと、貴女と。両方を守るためにも、私は事実を知らなくてはなりません。怒るのも、起きたことを嘆くのも、まずは出来ることをやってからです。そうでなくては後悔ばかりが増えていくことを、私は親友に教えられたのですから」
だから、と彼女は。ほんの数週間前まで、同世代の令嬢たちから畏怖の対象としてしか見られなかったはずの過激な令嬢は。
怒りも、不安も、その顔に見せず。ただ真っ直ぐに、ただ真剣に、私を見つめて。私を見捨てはしないとこの手を握ってくれて。
「全部、正直に話してくださらないかしら? 私にも、きっと出来ることがあるはずだから」
その目に、私もまた初めて、尊敬するお姉さまとまっすぐに向き合っているような気がした。いま、この人から目をそらしてしまうのは絶対に間違っているという確信が、私の視線を彼女の美しい顔に縫い止めた。
いつものように視線をそらして逃げることはできない。そう思って初めて、いつもの自分が、いつの間にか大好きなお姉さまを正視できなくなっていたことを悟る。
自分に自信がないから。どんなに考えて、どんなに正しいつもりでも、いつも何かを間違えてしまうから。呆れられて、見捨てられてしまうのが怖かったから。
そうして目をそらすことがきっと、一番の間違いだったのに。
「お、姉さま、っ」
「泣くのはあとよ、ミリー。淑女は、人前で涙を見せるものではありません」
「――はい、はいっ」
必死に涙を飲み込んだ。そうだ、あとで、いつもみたいに後悔して泣くのはあとでいい。今は、私にできることをするんだ。お姉さまが正しく動けるように、私は私が話せることを全部話さなくちゃいけない。
そうしてようやく私はぽつぽつと、でも、しっかりと一つ一つ。あの踊り場で何があったかを語ることができたのだった。
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