if:間違いじゃなくて、(1)
新しい門出に、ふと私の脳裏によぎった人物は――。
▶何かと噛み付いてくるミリーだわ
***
「エルザベラ・フォルクハイル!」
……またか。
思わず零れそうになったため息を苦笑で飲み込んで、私は背中にかけられた乱暴な呼びかけに振り返る。
踊り場に立つ私を見下ろすように階段の上で仁王立ちした少女が、周囲の目を気にする風もなく堂々と階段を降りてくる。
「ミリエールさま、そう大きな声を出さずとも聞こえますわ」
なるべく彼女を余計に刺激しないようにと、つとめて落ち着いた対応を心がけての返答だったのだが、そんな私の態度も気に入らないのか、私を呼び止めた少女、ミリエール・リュミエローズは不機嫌さに拍車をかけたように目元を釣り上げた。
とはいえ、彼女の表情なんて可愛いもの、小動物の威嚇と同じである。……私の隣に比べれば。
「……ミリー」
「はい! お姉さま!」
「いい加減になさい、と私は、一体、貴女に、何度、言えばわかるのかしら?」
静かに、しかしミリーの怒声の数倍は怒りの滲んだ声で、にっこりと微笑んだクレアが振り返った。ミリーも遅れてその怒りに気づいたのか、クレアの笑みを見た瞬間「ぴっ」と情けない声を漏らして半歩ほど後ずさった。
ここ最近は毎日のことだし、クレアが言うように「何度も」繰り返された光景なのだけど……なぜこの娘はまるで懲りないのだろう。
「で、ですが、お姉さま! 私はお姉さまのためを思って――」
「貴女がエルザに毎朝噛み付くことが一体どうして私のためになると思うのか、ぜひとも説明していただきたいですわね……」
先ほどの「ぴっ」で毒気を抜かれたのか、はたまた毎朝のことでクレアの方もさすがに怒り疲れたのか、立ち上っていた怒気を引っ込めたクレアはどちらかというと呆れたような調子でぼやく。
「で、ですがお姉さま! この者はお姉さまの婚約を解消させて未来の国母の地位を奪ったのですよ! そんな人間を未だに友人として傍に置くなんて、お姉さまの将来のためになりませんわ!」
「そのことについては何度も言いましたでしょう、ミリー。殿下との婚約解消は私自身で決めたこと。お父様を説得し、陛下ともお話して、関係者全員が納得して決まったこと。エルザはあくまできっかけの一つでしかありませんわ」
クレアはともすれば冷たくも聞こえる声音でそう言い放つと、ちらりと私を一瞥してさっさと立ち去ってしまった。あとは任せる、ということらしい。
損な役回り、とも思わないけれど、適材適所という言葉に準じるのならあまり私に向いているとも思えない役回りに苦笑する。役割として「損」なのは、本来なら憎まれ役を買って出る形になったクレアだと思うのだけど……他の誰かならともかく、ミリーを相手にするのに私は適任とは言い難い。
「ぐぬぬ」
「それ、声に出す人は初めて見ました」
まさしく「ぐぬぬ」という顔でこちらを睨んでくるミリーにそう返すと、今度は今にも噛みついてきそうな威嚇の呻きが聞こえてきそうな「がるる」……喧嘩っ早い小型犬、って感じかしら。
ミリエール・リュミエローズ。
私の知るゲームではネタキャラかつモブ立ち絵という優遇されているんだか冷遇されているんだかわからない立ち位置の取り巻き令嬢だった彼女だけど、こちらに転生した私にとってはゲームよりも数倍鮮やかな印象を残したご令嬢である。
私がクレアと友好を深めようとするたびにどこからともなく現れてはきゃんきゃん吠えて噛み付いて、最後はクレアに一喝されてしょげかえることになるのだけど、次の日にはまた懲りずに噛み付いてくる。
諦めが悪いとかしつこいとか学習しないとか、そんな風に彼女を評することは簡単だけれど、私にしてもクレアにしても、実はこの困った友人ーー少なくとも私は彼女のことをそう思っているーーをそう悪い目で見ている訳でもなかったりするのだから、我ながら人の印象とか関係というのは難儀なものである。
私もクレアも捻くれているから、だろうか。クレアが好きだ、仲良くなりたい、一番の友人でいたい。その一念だけで何度当のクレアから雷を落とされようとも私に噛みつきクレアを慕い続ける彼女の真っ直ぐさを、私達は揃ってどこか好ましく感じてしまっていた。
……そんな私達の気持ちは、彼女には欠片も伝わっていないようだけれど。
「今日こそはお姉さまの隣を譲ってもらいますわよ、エルザベラ・フォルクハイル」
クレアがこの場を立ち去ったからか、先程よりは幾分か落ち着いた調子で、けれど変わらぬ敵意と嫉妬を目に宿しながらミリーが私を睨みつけてくる。
「ミリエールさま、何度も申し上げていますけれど、たとえ私を追い落としたところでクレアとの友情は約束されませんよ」
友情というのは、結局のところ一対一の関係性につける名前でしかない。他人がそこに割り込む、というのは発想としてはわからなくはないけれど、たぶん少しだけズレているのだ。
ミリーは私がクレアと親しくなって、自分が彼女に置いていかれたように感じているのだと思う。でも、実際には私とクレアの友情が育ち、クレアとミリーの友情はその間育っていなかったというだけなのだけど。
だからミリーがクレアの隣という居場所を本当に欲するのなら、私をどうにかするよりも、もっともっと、クレアに直接好きの気持ちを、友情を示していくしかない。
クレアはそれをわかっているし、きっと受け入れる準備だってしている。でも、クレアは少しだけ厳しいから。自分にも他人にも、いつだって努力を求めるから。
だからクレアは、ミリーがどれだけ間違っているかに気づいていてもただ手を引いて正しい道に引っ張ってあげることはしたくないのだと思う。ミリーが自分で気づいて、自分で手を伸ばして、そうやってクレアのほんの袖口だけでも掴めたなら。その時にはきっと、力いっぱいその手を引いて、私とは反対の「隣」にミリーの席を用意してあげるつもりだろうけれど。
「なにをバカなことを! 貴女が現れるまで、お姉さまの一番近くにいたのは私ですわ! 貴女がお姉さまにおかしなことを吹き込んで、ユベルクル殿下との婚約も破棄させて、お姉さまの大事なものの席を掠めとったのでしょう!」
私にはお見通しですわ! と自信満々に告げるミリーの目には敬愛するお姉さまを奪った私への敵意と侮蔑の色がある。
それはやっぱり見当違いな、間違った怒りに根ざしたもののはずなのに、やっぱりとても純粋で真っ直ぐで、彼女にとってはどこまでも正しい。そうやって信じたものを信じ続けられるミリーだから、私も、クレアも、彼女を好ましく思ってしまうのだろう。
私達は正しさを信じるのが、すこぶる苦手だから。だからミリーのその愚かな真っ直ぐさを否定できない。むしろどこか、ほんの少し、羨んでさえいるのかもしれなかった。
「ミリエールさま」
「ふふん、ようやく観念しましたかしら」
だから、という訳でもないけれど。クレアと違って彼女の成長を突き放して信じきれない私は、少しなら手を貸してあげてもいいのでは、なんて思って。
「私はクレアの友人になろうと決意した時、他の誰のことも考えませんでしたよ」
「な、何ですの、急に」
「私はただ、クレアを友人として尊重し、友人として諌め、そして何より彼女の隣に立つに相応しい人間であるように努めただけなのです。そうしてあとはーー」
あとはクレアが認めてくれるまで、それを続けるだけ。自分の信じた正しさを貫くことができるミリーになら、きっと出来るはずのこと。だからもう少しだけ頑張って、努力の行き先を間違えないで。
そう、諭そうとしたのだけれど。
「ふざけないでくださいまし!」
私の言葉を遮って、ミリーが激高する。
「私、私が、お姉さまの隣に立つに相応しくないと、そう言うわけですの!?」
「……もしも私の言葉をそのように感じたのなら、それこそがミリエールさまがご自分で向き合うべき壁ですわ」
「っ、馬鹿にして!」
はじめにクレアに一喝されて後ずさった距離を超えて、ミリーが詰め寄ってくる。靴音高く、挑みかかるように近寄ってくる彼女の顔はやっぱり愚かで、だからこそ真っすぐで、愚直という言葉を最も美しく飾れば彼女になるのだろうと思わせる。
どこまでも間違っている哀しさと、それでも歩みを止めない力強さ。
目の前の少女が自分に対して怒りと敵意をむき出しにしているとわかっていて尚、私はその美しさに目を見張った。
憐れで、綺麗で、儚さにも似た脆さを感じさせるその瞳。
いつだったか、前世の記憶を取り戻してから初めて彼女の姿を見た時、私は彼女を「劣化版悪役令嬢」なんて身も蓋もない言葉で形容したけれど。今の彼女を見て、そんな風に言えるはずもない。
彼女の美しさは洗練されたものではないけれど、脆さと力強さの共存するそれはゲームの主人公、しなやかな強さのマリーとも、悪役令嬢、鋭く力強い大輪の美を全身にまとったクレアとも違う。
主人公でも、ヒロインでも、悪役令嬢でもなくて。
そんな何者でもない、ごく普通の令嬢が。それでも欲しい物があると手を伸ばし、足を進めるそのひたむきさを、誰が笑えよう。
誰でもなかった前世では何も成すことはなく、完璧令嬢というスペックを初めから与えられた今生で望みを果たした私は確かに、彼女からしてみれば「ずるい」と「妬ましい」と、そう思われても仕方ない。
……なんて、そんな風に私がミリーの美しさと迫力に圧倒されていたことを彼女自身が知っていたとも思えないけれど。
おもむろに彼女が振りかぶった右手に頬を張られるのだと遅れて気づいて、反射的に一歩後ずさって「あら?」
思わず間の抜けた声が漏れて、下がったはずの足が空を踏み抜く。ぐらりと体が傾いでようやく、私は自分が階段の踊り場にいたことを思い出す。
「っ、エルザベラさま!」
咄嗟に、私の頬を張るはずだった右手を伸ばして私を引っ張ろうとするミリーの姿に「ああ、やっぱり根はいい娘なんだから」なんて呑気な思考が頭をかすめたのもほんの束の間。
ぐるりと私の視界で天地が反転し、後頭部に感じた衝撃とともに私の意識は闇の向こうへと吹き飛んだ。
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