if : 侍女に恋を、主に愛を(3)
「……え?」
辛うじて私の口から出たのはそれだけだった。
いつも私を起こしに来るアニーに代わり、苦労して寝起きの私をベッドから引きずり下ろしたレイラは、私を引っ張り出すのに乱れた息を整えるように軽く深呼吸を繰り返した後「ですから」と同じ言葉を繰り返した。
「アニエスはお嬢様付きを外れることになりました。彼女に代わる侍女を現在侍女長が選任中です。次の侍女が決まるまで、当面の間お嬢様のお世話は私が致します」
「アニーが……」
私の侍女を、やめた?
「っ、アニーはどこなの? すぐに話をしなくっちゃ――」
「慌てなくても大丈夫です。アニエスはお嬢様の専属を外れただけで、お屋敷を出ていった訳ではありません。邸内であれば、他の侍女たち同様お嬢様と顔を合わせる機会もありましょう」
「でも、私アニーからそんなこと一言も聞いていないわ! 何か事情があるなら、いいえなければおかしいわ。アニーが何も言わず私のそばを離れるなんて」
それくらいの信頼は、築いていたつもりだった。私とアニーの関係はただの令嬢と従者じゃなくて、もっと特別で、何にも代えられないものだと。少なくとも、理由も告げずに私の隣を離れて気にせずにいられるほど私達はお互いに無関心じゃなかったはず。少なくとも私はそう信じてきた。
自惚れと言われてしまえばそれまでだけれど、それでも全くただの思い上がりじゃないつもりだ。
秘密がひとつもないなんて言うつもりはない。そもそも私自身、前世のことやクレアとの友情にこだわった本当の理由も話していない。アニーにだって私に言えないことがあってもいいし、あると思っている。
でも、私達のことだ。私のことでも、アニーのことでもない、二人のことだ。それを相談もなしに、突然なんて。
「お嬢様、まずは朝のお支度を。旦那様と奥様をお待たせすることはできません」
「……わかったわ」
いつもはぼんやりしている寝起きの頭がいやに冷えて覚醒していた。レイラの手を借りて身支度を整える間も、アニーと会ったらまず何から問いただすべきかと、そのことをずっと考える。考えていた、のに。
「おや、おはようございますお嬢様」
「お、はよ。アニー」
自室を出たところで鉢合わせたアニーの「何か変わったことでもありましたか?」みたいな顔を見て口に出せたのは挨拶だけだった。
「あの、アニー」
「はい?」
「……えっと、それ何?」
アニーが抱えているおかしな形のつぼみたいなものを見て、さして気にもならないことを聞いた。
「いつもの行商人から、また旦那様がお買い物を」
クレアに贈る首飾りを吟味した、人の良さそうな行商人の顔を思い出す。
「そう、お母様はなんて?」
「いつもどおりでした」
つまりカンカンってことじゃないの。そんなアニーのいつも通りの受け答えに、追求のために用意していた言葉は全部が大げさすぎるような気がしてくる。
「では、失礼します」
「え、ええ」
つぼを抱えたまま美しいお辞儀をしたアニーはくるりとこちらに背を向けるとさっさと歩きだして、廊下を曲がって消えた。
「…………」
「お嬢様」
レイラに呼ばれて、アニーが曲がった廊下の角から無理やり視線を引き剥がす。
「レイラ、朝食のあとで部屋に来るようにアニーに言っておいて」
「ご自分でお呼びになられては?」
「……私は、その」
「申し訳ありませんが、私はこのあと侍女長の手伝いで少し外しますので、別のものに声をかけて戴くか、ご自分でアニエスに声を掛けてください」
「意地悪ね」
「何のことでしょう」
レイラはくいっとメガネを押し上げると「さ、行きましょう」と私を促す。アニーの消えた角をもう一度振り返ってから、私は食堂へ向かって歩きだした。
* * *
朝食の場に集まった給仕係たちの中にアニーの姿はなかった。それどころか、その後何日も、屋敷のどこを歩いても彼女を捕まえられなかった。
全く見かけないわけじゃない。むしろ元が優秀なアニーは私付きだった期間がかなり長かったにも関わらず屋敷の他の使用人たちや新人ともすぐに馴染んで、既に彼らに指示を飛ばす立場にまでなっている。侍女長やレイラともよく込み入った話をしているのを見かけたし、私といる時には数歩後ろを静かに歩いてばかりだった彼女が、ギリギリ「歩く」の範疇に収まる速度でせかせかと忙しそうに急いでいるのもよく見かけた。
そのたびに声をかけようとすると、アニーの方から「おや」って顔をして「どうかなさいましたか?」って声をかけてくる。彼女が何一つ気にしていない、まるで昨日も一昨日も、去年も五年十年前も同じようにしてきました、って態度でいるものだから廊下のど真ん中で「どうして急に私の傍付きをやめたの!」なんて問い詰められる雰囲気ではなかった。
結局、当たり障りのない会話をしたり、切り出すタイミングを窺って言葉に詰まっている間に誰かが彼女を呼びに来て「すみません、御用がありましたらまた後ほど」と頭を下げて立ち去ってしまうのだった。
「……なに考えてるのよ」
自室で一人、髪やドレスが乱れるのも気にせずベッドに仰向けに倒れる。いいのよ、どうせ今日はこの後なんの予定もないし。急な来客でもあったらアニーに頼んで……じゃない、今はレイラに頼まなきゃね。彼女、いつもはどこにいるのかしら。
「アニーは、探さなくても一緒にいたのに」
専属なのだから当たり前だけれど。
「専属だから、ね」
結局、それだけだったのだろうか。
アニーが私の専属を離れたと聞かされた朝、私はまず困惑して、そして憤った。何の相談もなくやめるなんて、私の傍を離れるなんて、私達の関係はそんな簡単に切り離せるものじゃなかったはずだって。
でも、何も変わらないって顔をして私に頭を下げ、足早に廊下を行き来し、侍女仲間に慕われて微笑んでいる彼女を見ていると、困惑も憤りもしぼんでいく。
次第に私の心に膨らんだのは、落胆。
私だけだったのだろうか。私だけが、特別だと思っていて、アニーにとっては、私は今の主というだけの、仕事のためだけの……。
そんなはずはない、と思う。侍女として始めて我が家に来た時から、私の傍仕えを希望したのは他ならぬ彼女自身だ。最初の数年はともかく、今となっては侍女としてのキャリアも積み、お父様の紹介状があれば王都の大抵の貴族の家で働ける彼女が、無理をして私に仕える必要はなかったはずだ。なのに彼女はもうずっと私と一緒にいてくれた。それは他ならぬ彼女自身が、私に仕えることを望んでくれたからだとついこの間まで、何の疑いもなく信じていた。
でも。
「それがたまたま、今だっただけかもしれないのよね」
どこで働いてもいい。仮に彼女がそう思っていたなら、何か些細なきっかけで配置換えを願い出ることだってあるかもしれない。それが先月だったかもしれないし去年か、あるいは来年だったかもしれない。この間まで私の傍付きだったのは、辞める理由がなかったから。その可能性だってあるのだということに、ようやっと思い至った。
だってそうじゃなきゃ、何も言わずに私の隣からいなくなるはずがない。
傍付きをやめたばかりで、なんでもないって顔で私と話せるわけがないんだ。
ふと、彼女が突然私の専属を外れる前日、彼女がぽつりとこぼした言葉が頭によぎった。
『お嬢様の隣には、クレアラート様がいらっしゃいますからね』
私に聞かせるでもなく、自分に言っているようでもなかった。あの時は彼女がさっさと歩きだしてしまったから深く尋ねなかったけれど、あれは一体どういう意味だったのだろう。そもそも、どうしてそんな話になったのだったか、それが思い出せない。
馬車でのアニーが何か思い悩んでいるように見えて、誰かに相談するように勧めた、ような気がする。私、なんて言ったっけ? 私に話しにくいことなら、他の誰かに言えばいいのよって、確かそんなようなことを言ったはず。
それに対する反応が「私にはクレアがいる」ってどういうこと?
「相談相手、ってことよね」
それがきっかけになったのだろうか。でも、私は別に私専属の侍女をやめて欲しかった訳じゃないし、そんなつもりで言ったんじゃないことくらい、アニーだってわかっているはずなのに。
「そもそも、馬車で悩んでいたのが結局何のことだったのかもわからないのよね」
私の言葉はきっかけでしかなくて、理由は別のところにあるのかもしれない。でも、もしも私の他の誰かを頼ってもいいんじゃないかって言葉を聞いてアニーがそうすることを選んだなら、私に彼女を連れ戻す権利なんてあるんだろうか。
私は彼女の主のように振る舞っているけれど、彼女の雇い主はお父様だし、家のことを仕切っているのはお母様で、侍女たちの配置を決めるのは侍女長だ。私は彼女に対して、彼女のいま抱える仕事以上のことを求める権利はない。
私のところへ戻るのも、このまま屋敷で他の侍女たちと同じように働くのも、別の貴族に仕えるのも、アニー自身が決めること。私がどうこう言うことはできない。
じゃあ、もしかして。
「もう二度と、アニーに髪を梳いてもらえない、かもしれないの?」
ぎゅっと、心臓が締め付けられる。
素っ気ないのにちょっと生意気な言葉で私をいなしながら、いたわるように優しく髪に触れてくれる彼女の手付きが好きだった。レイラのそれだって侍女としては一流でとても丁寧だけれど、アニーがしてくれる時のような安心感も、心地よいくすぐったさも与えてはくれない。
「もう、アニーに着替えを手伝ってもらえないの?」
前世の記憶がある私にとって、着替えを手伝ってもらうことは気恥ずかしいものだった。でも、アニーはそんな私を尊重して、自分でできるところまでは自分でやらせてくれたし、その上で着こなしやアクセサリーで整えて「今日もお綺麗ですよ」ってほんの少しだけ口角を上げて褒めてくれた。
前世からずっと一人っ子だった私は、恥ずかしさと同時に込みあげる、むずがゆい喜びが好きだった。甘やかしてくれる、世話焼きの姉がいるみたいで。
貴族の娘として、完璧令嬢として、両親にさえ無邪気に甘えられなかった私を、ただ一人気兼ねなく甘えさせてくれたのが、アニーだった。
彼女は私にとって侍女であり、姉であり、親友であり、恋人だった。
少なくとも私にとっては。でも、もう今は違う。彼女はレイラたちと同じ、ただの侍女になることを自ら選んだ。私を特別に思っては、くれなかった。
「……それは、やだな」
やだ。そう思う。でもどうしようもなかった。
もしも今までの全部が、私の一方通行だとしたら? アニーの本心を知りたいけれど、もしこの最悪の想像が当たってしまったらと思うと全身が重くなる。
アニエス・シルバは私の知るゲームには登場しない。だから私はアニーのことを、この世界で出会い、見て、話してそうやって知ったことでしか知らない。人と人との関係では当たり前のことが、今はひどく私の手足を冷たくしていた。
「お嬢様」
がちゃりと扉が開いて、私は思わず飛び起きた。こんなことを悶々と考えている時に、アニーが入ってきたらどうしよう。そう思って飛び起きたはずなのに、扉を開けて現れたのがレイラだったのを確かめて、私は小さく安堵と、落胆の混じった息をついた。
「どうかなさいましたか?」
「……なんでもない。少し疲れてしまっただけよ。それで貴女は、何の用かしら?」
私が用件を尋ねると、レイラは「はい」と頷いて。
「クレアラート・エルトファンベリア様がお見えです」
とんでもない用件を口にした。
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