if : 侍女に恋を、主に愛を(2)

「夢みたいだったわ!」


「それはよろしゅうございました」


 クレアラート様と別れた帰りの馬車で、お嬢様は興奮冷めやらぬ、という様子ではしゃいでいる。先程まではクレアラート様の手前、感情と発言はともかく所作には気を遣っていたが、いまはそれすら忘れて思い切り足をぱたぱたさせている。はしたないですよ、と嗜めても「ここにはアニーだけだもの、いいでしょ?」と甘えられては何も言えない。


 その油断しきった顔を、彼女は両親はおろかあのクレアラート様にも見せたがらない。もっとも、クレアラート様に対しては、どちらかといえば油断する間もないほどいつでも夢中な様子だけれど。


「…………」


「アニー?」


「なんでしょうか」


「ううん、どうかしたのかと思って」


「どうもしておりませんが?」


 突然尋ねられたことの意味がわからずに首を傾げると、お嬢様は「だって」と私の手元を指さした。


「はい?」


 思わず指された手元を見れば、知らず仕事着を握り込んでいた。


「……失礼致しました」


「それはいいのだけど……何かあった?」


「なにも」


「でも、その手」


「なにもありません。お嬢様がお気になさることは、なにも」


 ご友人に嫉妬していました、などと言えるはずもなく。私はいつもの無表情を貼り付けたままそう言った。言ってから、少し素っ気なさ過ぎたか、いつもより語調が荒かったかもしれない、と思ったが今さら顔には出さない。


「……そう、アニーが気にしないでと言うなら無理にとは言わない。でも、もしも本当に辛いなら誰かに相談するのよ? アニーは昔から自分のことは溜め込むところがあるもの。私じゃダメなら侍女長とかレイラとか、貴女の話を聞いてくれる人はいるわよ」


「……………………そうですね」


 ああ、なぜ私は落胆しているのだろう。


 お嬢様は私を大切にしてくださる。気を遣ってくださる。だから私が否と言えば無理には踏み込まないで、それでも無理せず誰かに吐き出していいのよと言ってくれる。それは何もおかしくないし、侍女に向けられる言葉にしては優しすぎる。


 でも。


 それは、ということだ。


 私は、お嬢様のことなら何だって知りたいのに。どんなくだらない悩みも、どんな途方もない夢も、前世を違う世界で生きたなんて盲言だって、全部を知って、信じて、大切にしたい。


 でも、お嬢様は私を知りたいとは言わなかった。労ってはくれたけれど、知ろうとはしなかった。何を悩んでいるのか、強く尋ねようとはしなかった。

 お嬢様の一番近くにいた? 違う、私はいつも、お嬢様の後ろに付き従っていただけ。私の世界にはいつだってお嬢様がいたけれど、お嬢様の世界に私が映るのは彼女が振り向いた時だけだ。



『侍女が主に抱く感情じゃないわ』



 ふいにレイラの言葉が頭に響く。知ってる。そんなこと、とっくの昔に気づいている。レイラが言っていた通り「主の隣ではなく後ろを歩くもの」なのだから。振り返って微笑みかけて欲しいなんて、侍女が主に望むことではない。


 でも、仕方ないのだ。気持ちを隠すことは出来ても、抑え込んで、消してしまうことはできない。だって私の、お嬢様との始まりは既にからだったのだから。


「いい機会なんじゃない? アニーはいつも私と一緒だもの、たまには私以外の誰かと真剣に話してみるのも、何か得るものがあるかも――」


 それ以上聞きたくなかった。いや、現に聞こえなかった。私の耳は、それ以上お嬢様の言葉を聞きたくないと拒絶した。


「そうですね」


 馬車が大きく揺れて、そして止まる。私は立ち上がって扉を開け、いつものように先に下車する。お嬢様の手を取り、昇降台を降りる彼女を支える。


「お嬢様の隣には、クレアラート様がいらっしゃいますからね」


「……アニー?」


 振り返ろうとしたお嬢様を無視して、私はさっさと歩き出した。門衛に軽く会釈して門を開けてもらう。お嬢様がすぐ後ろに追いついたのを気配だけで感じて、私は何も言わず屋敷へ向かって進む。

 先導という名目でなら、私は彼女の世界に映っても許されるはずだから。



* * *



「侍女長」


 ノックの音に顔を上げると、どうぞと声を掛ける前に扉が細く開いて、鉄面皮が覗いた。


「どうかしましたか?」


 無作法な、と指摘することはしなかった。いつもの無表情が、今日はなぜか泣き出すのをこらえているように見えたから。


「ご相談が、あるのですが」


「もちろんいいですよ。どうぞ、そこに掛けて」


 夜もだいぶ深い時間。フォルクハイル邸の使用人たちの大半はもう床に入ったか、夢の中へ旅立っている頃だろう。こんな時間まで起きているのは旦那様と執事長、それと私くらいのものだと思っていたのだけど、どうやら完璧令嬢の完璧侍女は、今日は寝付きが悪かったらしい。


 いつもなら、ただ仕事の話なら、こんな風に夜中に尋ねては来ない。彼女、アニエスはそのくらいの分別は当たり前に持ち合わせている人間だ。その彼女がわざわざこの時間に訪ねてきたのだから、相応の理由があるのだろう。突っぱねてしまう気にはならなかった。


 すすめられた椅子におずおずと腰掛けたアニエスは、いつも泰然とした彼女には珍しく所在なさげに視線を彷徨わせた。この部屋に来るのが始めてという訳でもないだろうに、そうキョロキョロするほど落ち着かないなんて一体なんの話だろうかと、むしろこちらが身構えてしまう。


「お茶はいるかしら? 少し冷めてしまったけれど」


「……いただきます」


 厨房の火を落とす前に用意したものだから、だいぶぬるくなってしまっているけれど、こういう時は味よりもお茶を飲むという行為に意味があるものだ。落ち着いて話すためにもその方がいいだろうと、空になったカップにお茶を注いで差し出した。


「あ……すみません、侍女長のカップで」


「構いませんよ。今は私と貴女しかいませんし、うるさく言わなくても貴女は時と場所を弁えていますから」


 誰かが使ったカップの回し飲みは褒められたことではないが、人目がある訳ではない。私も彼女も、高位の貴族家に仕える身としては珍しい純然たる庶民出身ということもあって、こんな夜中にまでお行儀よくしているのは肩が凝る。


「ありがとうございます」


 少し複雑そうに眉尻を下げながら笑って、アニエスはお茶に口をつけた。


「それで、何のお話かしら」


 彼女がカップを置くのを待って、私はなるべく穏やかな声でと意識して尋ねる。


「……ええと」


 何を言うべきか迷う、というよりはそれを口にするのが躊躇われる、という感じの濁し方だった。お嬢様だけでなく、旦那様や奥様にも臆さず物を言う彼女にそう思わせるだけの、一体何を言おうというのだろう。


「その、手が足りない部署など、ありませんでしょうか」


「……はい?」


 意図がわからずに思わず聞き返すと、それで覚悟が決まったひらきなおったのか、アニエスは彷徨わせていた視線をすっと私の顔に合わせて居住まいを正し、を口にした。


「お嬢様の専属を、外して頂けないでしょうか」

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