EX04-××:愛せなかった日

 親の顔を知らないのは、あの街で産まれた子供にとってそんなに珍しいことじゃない。私自身もそうだったから、あの子を、ルナリアを見つけたときも、ひとりぼっちでいる事自体に、特別なにかを感じたわけじゃなかった。


 ただ、その赤銅色の髪に既視感を覚えて、思わず凝視してしまった。


「…………?」


 まだ五歳にもならないだろう。みすぼらしい格好で路地の物陰に座り込み、ぼーっと通り過ぎる人波を眺めていた視線が、彼女を凝視していた私のそれとぶつかり、不思議そうにこてっと首を傾げた。


「あ……」


 その仕草も、どことなく似ていた。いや、どうだろう。いまになって振り返ってみると、果たして本当に似ていたのかどうか。何年も前に死んだ友人にそっくりな髪の色の女の子との遭遇に、何か意味を見出そうとした私の心が引き起こした錯覚だったのかもしれない。


「……あんた、家は?」


 ふるふると首を横に振る。


「親は?」


 ふるふる。


「あー……ご飯は?」


 すっ、と少女が手のひらに乗せて――私に奪われないように十分距離をおいて――見せたのは小さく齧ったあとのあるクッキーが一枚。それ一つで、何日しのぐつもりだったのだろう。


「一緒に来る? 寝床と食事くらいなら、分けてやれると思うけど」


 正直なところ、私だって毎日満足な稼ぎがあるわけじゃなかった。食うに困る程じゃなかったし、そもそも店に籍を持っている以上日々の寝食くらいは保証されている。でもそれは店が私という商品のメンテナンスをしているに過ぎなくて、もう一人分の食事まで毎度用意してくれるような善意は期待できない。


 だから少女を連れて帰るなら多いとも満足とも言えない食事を二人で分けることになる。私にとっても、これから大きくなる少女にとっても、決して十分とはいえないだろう。


 それでも私は、この出会いは運命なんだと思った。少女と同じくすんだ赤銅色の髪の親友。決して楽ではない暮らしの中、妊娠を私に告げた不安そうな顔を覚えている。できることがあったら何でも協力すると約束した私に、気丈に微笑んで「ありがとう」と笑ったあの子は、私に一度も頼ることなく行方をくらました。


 約束の証だと交換したお気に入りの櫛だけが、私の手に残った。


 彼女の所属していた店に乗り込んでわかったのは、彼女を孕ませた客が文字通り彼女を「買い取った」という信じられない話だけで、それがどこの誰なのかも、その後の消息も掴めなくて。


 震える足を鼓舞して街の外れにある共同墓地にまで足を運んで見つけたのは、いつの間にか墓標に刻まれていたあの子の名前。

 結局、あの子がどうして死んだのか、お腹の子を生んだのか、どうして私を頼ってくれなかったのか、どれ一つとしてわからないまま。


 そんな風に親友を失った私の前に現れた、彼女と同じ髪色の、産まれていればきっとあの子のお腹にいた子と同年代であろう少女を、捨て置くなんてできなかった。


 愛そうと思った。護ろうと誓った。今度こそ、辛い時に頼ってもらえるようになろうと思った。


 ……思った、のに。

 言い訳をするとしたら、私もまだ若かったんだ。ルナリアを拾った時、私はまだ十五にもなっていなかった。花街では若い女は持て囃されるが、それでもまだ青臭いと言われる年。それなりに器量がよくても取れる客は子供好きの変態ばかりで、そんな連中の性欲をぶつけられて毎日頭の中身が引っ掻き回される気分だった。


 親の愛も知らず、生きる糧を得るために誰かに媚びるしか無い私に、幼いルナリアを愛する余裕なんてなくて。


「あの、お姉さ――」


 はじめは、無視しただけだった。疲れていたから。それを自分への言い訳に、あの子の言葉を聞き流して布団にもぐりこんだ。それを何度か繰り返すうちに、はじめは隣で眠っていたルナリアは私と同じ布団に入らなくなった。それならそれでいい、あの子が自分で決めたことだと私は放置した。


「っ、あんた、何やってんのよッ!」


「ごめ、ごめ、なさ、わた、わたし、わた」


「出てって!」


「ごめんなさい、あの、あの」


「出てけよ!」


 ……あの子に最後に会った時に交換した櫛を、ルナリアが壊した。私は我を忘れてルナリアを怒鳴りつけて部屋から追い出した。一人になった部屋で、折れた櫛を抱いて泣いた。櫛が折れた瞬間、私の中のあの子が死んでしまった気がした。


 一夜明けて、服の裾を土で汚してあの子が恐る恐る部屋の戸を開けた時、私はまだ櫛を握って泣いていた。いや、涙はもう出なかったけれど、喉がひくひくと痙攣してまともに声が出せず、蹲って呻いていた。


「あ、あの、ごめんなさい、わたし、わたしにできることなら、なんでもする。するから、おねがい、ゆるして、おねがい」


 そう言ったルナリアに、ささくれだった私の心は牙を向いた。

 あの子を壊した償いをするなら、お前も壊れればいいって。


「…………切りなよ」


 私は護身用の小型ナイフをルナリアの手に押し付けると、そう短く告げた。


「……え」


「あんたはあの子を殺したんだから。その分。どこでもいいから、自分で自分を切りなよ」


 酷いことを言っている。悲嘆と酸欠でぼんやりした頭の中でも、その自覚はあった。でも同時に、どうせできるわけない、とも思っていた。何にも代えられない約束の証を壊したのだから、せいぜい傷ついて、償えなくて悩めばいいと思った。


 なのに。


「わ、わか、った」


「は?」


 思わず私が間抜けな声を漏らした直後、ぎゅっとキツく目を閉じたルナリアは、自分の腕に押し付けたナイフをえいと強く引いた。手入れもロクにされていないナイフはざりざりと耳障りな音を立てて彼女の青白い肌を削り取り、赤く血の痕が浮かんだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……ゆるして、ゆるして、お姉さん……」


 彼女の瞳からこぼれる涙は痛みのせいなのか、それとも別のなにかだったのか。私には推し量ることができなかった。衝撃で、私の頭の中は真っ白だった。


 それでも、そんな真っ白な頭の中でもわかることがあった。


 間違えた。何かを、取り返しの付かないほどに間違えてしまった。

 私とルナリアはもう、後戻りできない。


 私にはもう、この子を愛する資格なんて、護る資格なんて――ない。

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