EX04-13:全部をくれたひと

「ようやく気づいた、なんて言うつもりではありませんわよね」


「…………」


「今になってそんな逃げを打つようなら、警備隊を呼ぶまでもありませんわ。この場で手打ちにして差し上げますわよ」


「…………」


 クレアがキツく睨みつけるけれど、エレメラは顔すら上げずにぽたり、ぽたりと涙を落とすだけだ。

 私も、黙ってエレメラの言葉を待つ。その言葉がなければ、私は手を差し伸べることも、はねのけることも出来ないし、したくない。


 私は誰でもいい誰かに慈悲の手を差し出す慈母になりたいわけじゃない。


 愛した人が救いたいと願った子がいて、その子のために私は家の力を迷わずに使う。エレメラという存在は、その過程にたまたま登場しただけの人間でしか無い。


 私にも、クレアにも、彼女を救う理由はない。

 彼女もきっと、私達に救われたいとは思っていない。


 それでも、エレメラには涙を流す理由があって、私達にはそれを救える力があって。

 だから必要なのは、彼女が私達に手を伸ばすこと。救って欲しい願うこと。私達が、彼女を救いたいと思うこと。


 そのためには最初の一言は、絶対に彼女からでなくてはいけない。彼女が手を伸ばす前に手を差し出してはいけない。


「…………」


 だから待つ。彼女が何も言わなければ、私達も黙って出ていけばいい。ルンちゃんが彼女から解放されるための条件は揃えた。これ以上この場に留まる理由はない。


「…………」


 でも。


「…………」


「…………」


「……………………」


 誰も何も言わない。それでも、もう少し、あと少し何かが動き出すのを待っている。最後のきっかけを、欲しがっている。


「エレメラ様」


 その声に、ゆっくりとエレメラが顔を上げた。


「一緒に、ここを出ましょう」


「ルナリア、貴女っ、むぐ」


 慌てて振り返ったクレアが思わず開いた口を私は慌てて塞いだ。抗議の目で睨まれたがとにかくしーっと口元に指を立てる。


 少し足元をふらつかせながらゆっくりエレメラの前に進み出るルンちゃんは心配だが、戸口に黙って立つアニーを振り返ると無言で首を振った。アニーも止めたのだろう。でも、無駄だったんだ。私達がいくら心配して、諌めたとしても。きっとルンちゃんは止まらない。


 エレメラのために、ではない。ルンちゃんのために、今はきっと止めてはいけない。


 私が私であるためにクレアに手を伸ばしたように。クレアがクレアであるために家を振り払ったように。

 ルンちゃんがルンちゃんであるために、これは必要なことだ。


「わたしたちはこの街で育ちました。わたしは物心ついた時から、エレメラ様と一緒に、生きてきました」


 つらい生活を強いられていたはずの過去を語るルンちゃんの言葉に、悲しみはない。痛みもない。ただ、少しだけ苦味を噛み潰すように顔をしかめたけれど。


「わたしはこの街が嫌いです。誰もわたしのことを見てくれなくて、蹴っ飛ばして、罵る時ばかり見下ろして、夜はうるさくて、朝は眩しくて寝られなくて、女のひとは冷たいし、男のひとは乱暴だし、エレメラ様は優しくないし、わたしやエレメラ様を知らず知らずに縛り付けていたこの街が嫌いです」


「…………」


「だけど」


 そっと、包帯に巻かれた小さな手が、涙で濡れた頬を撫でる。


「この街が好きでした。一人ぼっちの私を誰も憐れまないで、一つ一つ、生きる方法をくれて、うるさかった街が静かになっていく朝の空気が気持ちよくて、それから」


 それから、と。きっとたくさん思い悩んで、葛藤して、考えて、そうやって出した答えを。


「エレメラ様がわたしに居場所をくれた、この街が好きでした」


 一回り大きなエレメラの手を取って、ほんのり頬を赤らめて、微笑って言った。

 そう思えることが、その気持を告げられるのがたまらなく嬉しい、そんな顔で。


「るな、りあ」


 エレメラが震える唇でその名を呼ぶ。きっと本人を前には数えるほどしか呼べなかった名前。


「でも、わたしがこの街を好きになれたのは街の外を知ったからです。孤児院で暮らして、クレア様たちに会って、いろんなことを教えてもらって、考えて、そうやってやっと、わたしはこの街が好きだったってわかったんです」


 辛い思い出も、その中に埋もれていた小さな幸福も。苦しみの記憶から距離をとって初めて気づけるものがある。


「……ルンちゃんってば、ずいぶん成長したんじゃない? 先生がよかったからかしら?」


「もちろん私の教育は完璧ですけれど――それでも、これはあの子が自分で考えて、自分で出した結論ですわ。私が教えたのは考えることだけ。あの子はちゃんと、考えただけ。何も特別なことはありませんの」


「そうね。私がクレアと一緒にいたかったのと同じ、当たり前のことね」


 恥ずかしいことを言うな、という目で睨まれたのでひそひそ話をやめて渦中の二人に目を戻す。でも、なんとなくもう心配はいらないと思う。あとは二人が素直になればいいだけで、もうそれは私やクレアの手を離れた問題だ。


「わたし、たくさん考えたんです。想像したんです。エレメラ様がいなかったら、わたしはどうなっていたんだろうって。こんな風に怪我をすることはなかったかもしれない。たくさん辛い思いをしたのも、悲しい気持ちになったのも、痛かったのも全部、なかったかもしれない。だけど」


「だけ、ど?」


 その先を聞きたい、けれど聞くのが怖い。もはやどちらが子供かわからないほど小さく蹲っているエレメラの不安げな瞳に視線を合わせ、ルンちゃんはゆっくりと気持ちを吐露していく。


「あなたに出会わなかったら、わたしはきっと死んでいたから」


 エレメラが目を見張る。恨まれるのも、憎まれるのも、どんな罵倒も覚悟していただろう。でも、ルンちゃんの口から出たのはそのどれでもなく。


「ありがとう、エレメラ」


 エレメラ様ではなく、エレメラと。そう呼んで笑いかける少女の強さに、エレメラはいまどれほど傷つき、救われたのだろう。深く深く、決して癒えない傷をつけてしまった相手に許されるのはどんな気持ちだろう。それが心の底から愛した相手だとしたら。


「辛い毎日も、小さな幸せも、これからもっとたくさんのことを知りたい気持ちも、全部、エレメラがいなければ無かったものだから」


「でも、だって、そんなの」


「だからわたし、何度でも言いたい。ありがと、エレメラ」


「やめてよ! 私なんか、あんたを虐めて、傷つけただけで! あんたを拾うのが私じゃなかったら、あんたはもっとちゃんと、幸せで」


「ちがう、と思う。だってあなたじゃなきゃ、わたしはひとりぼっちのまま、死んでたと思うから」


 それがルンちゃんの出した結論だった。たとえその関係がどれほど一方的で乱暴だったとしても、としたら、それは確かに慈悲であり救いなのだ。


「ね、エレメラ」


 ぎゅっと、重ねた手を握って。ぐっとその手を引いて。


「わたし、エレメラと一緒にいろんなものを見たい。今日までの全部をくれたあなたに、今度はわたしがこれからのたくさんをあげたい」


 だから一緒に行こう、と誘う。


「……ルナリア」


「お願い、エレメラ。エレメラと一緒がいい。一緒じゃなきゃ、わたしきっと、ずっと幸せじゃないままだから。わたしに幸せを、教えて欲しい。わたしも、エレメラを幸せにしてあげるから」


「…………ぇぐっ」


 辿々しい告白への答えは、小さく押し殺しきれなかった不格好な嗚咽。感情を飲み下そうとして失敗した情けない声。幾人もの男を手玉にとって、自由で優美な女の仮面をかぶり続けて、大人になる前からの強がりをやめられないまま夜の街で生きてきた女は、愛して守って傷つけた小さな女の子の前で、言葉を失くして泣いていた。


「行こ、エレメラ」


「……うん。うん、行きたい。私も、あんたと、ルナリアと一緒に、行きたい。ルナリアが見たもの、見るもの、一緒に見たい」


「うん……うん。いっしょ。いっしょに、いよ」


 エレメラの震える背中にルンちゃんが細い腕を回す。堪えきれなかったエレメラが、小さなルンちゃんの体を強く掻き抱く。


「ごめんなさい、今までずっと、ごめんなさい。大好きだって、愛してるって、言わなくてごめんなさい」


「ありがとう、今までずっと、ずっと一緒にいてくれてありがとう。わたしに命をくれて、ありがとう」


 ごめんなさい。ありがとう。

 噛み合っていない言葉は、今までの分。ずっと言いたかったことと、ずっと気づけなかったこと。


「……ごめんなさいだって」


「謝る相手を間違わなかったことだけは評価してあげますわ」


「無理しちゃって。とっくに責めるつもりなんて無くなってたくせに」


「うるさいですわ。さ、これ以上の無粋はやめましょう」


「そうね」


 クレアに促され、戸口で見守っていたアニーも連れて外へ出た。

 抱き合う二人を残して戸を閉める。この先はきっと、二人だけの大事な思い出になるはずだから。

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