EX04-10:わたしの片割れ
「はい、ここが私達の部屋よ」
そう言って通された部屋に、使い込まれてはいるものの寝心地のよさそうなベッドとボロ布の上にどこから貰ってきただけと思しきぺったんこの枕の寝床があるのを見て、わたしはどんな反応をするのが正解だったんだろう。
クレア様に教わったとおりに自分で考えてみようとして、すぐに諦めた。多分、こういうのは考えるだけ無駄っていうやつなんだ。だってわたしがあのぺったんこの枕に頭を預けることになるのは、もうわかりきったことだ。
「どぉ? 前よりきれいで広いでしょ」
「……そうですね」
「引き抜きの話来た時は、もーあんなトコ出たいって一心だったけどさ、これならやっぱお店移って正解だったわよね」
「……そうですね」
「ていうか、店の前に停まってた馬車、なにあれ。やたら立派だったし貴族の朝帰りかしらね。あーやだやだ、この街の住人はもう寝る時間だし、世の中は働いてる時間でしょ? いいわよねぇ、ひと晩女遊びして朝帰り、それでゆっくりお休みでしょう。ほんと、貴族なんてロクな死に方しないわよ」
「…………そうですね」
わたしの世界を広げてくれた貴族婦妻を思い浮かべて、少しだけ躊躇ったけれど、わたしは頷いた。この人はわたしに肯定以外の返事なんて求めてないのはよく知っている。
栗色の茶髪はふわふわで、緩やかにカーブしながら背中の中ほどまで伸びている。出先だったからか無造作に後ろで一つに束ねていたそれを解いて、ふぅと軽く息をつく横顔は、確かに美しいのだと思う。
鼻は高く目つきは鋭く、少しツンと上向いた刺々しい顔つきではあるけれど、だからこそ、リラックスしたときの顔つきや、甘く微笑んで客を誘う時の表情は魅力的に映る。
そんな風に彼女を魅力的に感じるのは、わたし以外の人だろうけれど。
「なにボーっとしてるの、早く髪を」
「あ、はい」
ベッドに腰掛けた彼女に近づくと「ん」と差し出された櫛を受け取り、ふわふわの髪を櫛る。彼女のもとに引き取られてから四年間、変わらずに続けてきた仕事を、わたしの手はまだ覚えていた。
「ふふ、やっぱりあんたの手が一番ちょうどいいわね」
「ありがとうございます」
彼女は何が楽しいのか上機嫌だ。仕事中以外に彼女が笑うのは珍しい。……そうか、珍しいのか。
いままでは気にしなかったことがふと頭の片隅にひっかかる。
この人が仕事のために客に微笑むのは、それが仕事の一環だからだ。客に見えないところではだいたい不機嫌そうに口を尖らせていて、客を連れて部屋に入った後でさえ、わたしに何か言いつけるときにはいつもしかめっ面だった。
わたしはずっと、彼女はわたしの顔を見たくないんだろうとか、虫の居所が悪いんだろうとか、そんな風にぼんやりと彼女の様子を受け入れていたけれど、思い返せば同僚と話すにも店の主人と話すにも、笑っている姿を見たことはほとんど無いような気がする。
……笑わないのは、わたしと同じだ。
彼女はわたしを支配する側で、わたしを好きにできた。彼女の手元にいたわたしには、そんな主人はまるでわたしに無いものを全部持っているように満たされて見えていたけれど、クレア様に両目を開くことを教わったわたしには、彼女もまた笑うこともできないくらい何かに飢えていたのかもしれない、と思える。
笑顔を知らないわけじゃない。ただ、毎日を生きる中に笑う理由が一つもないだけ。笑う理由がないから、笑う必要がないから、笑わない。この人とわたしはきっと、少しだけ似ている。
「エレメラ様は、ここを出たいと思わないのですか?」
気づけばそう口にしていた。純粋な疑問であると同時に、それは自問でもあって。
エレメラ・リベラ。わたしの飼い主。彼女の手元に置かれていた頃の私はここを出るなんて考えもしなかった。籠の鳥、なんてつもりさえなく、ここを出てどこへ行けばいいのかという選択肢が一つもなかった。花街の外へ出て世間知らずで一文無しの子供が生きていけるとは思えなかったし、それならばわたしを必要としている人間が一人だけいるこの街にとどまるのは自然なことだった。
でも、そうじゃなかった。
エレメラ様はあっさりとわたしを手放したし、店の男の人に連れられて行った孤児院はなんの躊躇いもなくわたしを引き取って、そして今日まで普通に生きてこられた。絶対だと思っていたものが揺らいでも、無理だと思っていた環境に放り出されても、わたしの世界は当たり前みたいに続いていく。
孤児院で暮らし、そしてクレア様に考えることを教わって、そしてもう一度ここに戻ってきた。
それでもきっと、今夜は当たり前に彼女が客を取り、わたしはその身繕いから部屋の片付けまで雑事をこなし、朝日が昇りきった頃に床につくんだろう。
「……何を言ってるの? 私だってこの店に移ったばかりなのよ?」
「いえ、そうではなく。花街の外で、生きていくつもりはないのですか?」
「生意気な言葉ね。あの孤児院でヘンなことでも教わった?」
わたしの敬語が耳に障ったのか、エレメラ様が私を睨んだ。そういえば、当たり前のように使っている敬語もクレア様に習うまで中途半端にしか使えていなかったんだっけ。
「申し訳ございません」
「……なんなのあんた、気持ち悪い」
上機嫌から一転、不機嫌さを隠さない言葉に、わたしの中の過去が首をもたげる。
いけない。この人を怒らせちゃダメなんだ。この人に捨てられたら生きていけない。この人だけがわたしを必要としてくれる。この人がわたしをいらないと言えば、死ぬしか無い。
そんなことない、と理性を動員して背筋を落ちる冷たい汗を無視する。その恐れは幻想だ。誰に見捨てられてもわたしの世界は終わらない。きっとどこかで、変わらず生きていける。だから。
「外へ、出てみませんか?」
次の言葉は疑問ではなくなっていた。エレメラ様がわずかに目を見開く。それはわたしが彼女の怒りを恐れていないことに対する驚きか、それとも予想だにしなかった誘いを訝ってか、あるいはそもそも、わたしが彼女に謝罪と質問以外の言葉を向けたことへの衝撃だろうか。
「わたしに言葉遣いを教えてくれた人が言ってたんです。自分で考えて、自分で決めるんだって。求められるだけの自分じゃなくて、自分が求めてもいいんだって」
「…………」
「いろんなものを見ましょう。いろんなことを考えましょう。わたしも、エレメラ様もこの街で生まれて、この街で育ちました。だからわたしたちはあまりにも知らないんです」
そうだ。知らない。少しの間この街の外に出たわたしだって「知らないことがある」ってことくらいしか知らない。それを知っただけで、こんなにも今までの暮らしが小さく見える。だったらもっといろんなことを知り、見て、考えれば。
わたしと、わたしによく似たこの人だって、笑えるかもしれないんだ。
「――言いたいことはそれだけ?」
「っ」
冷たい声に思わず後ずさった。伝わらなかった? 届かなかった? 理解されなかった? いずれにしろこれは、この声は。
「三枚。それで許してあげるわ」
「え、エレメラ様」
「四枚」
「…………、はい」
自分の手が震えているのを感じる。それでもわたしはポケットのナイフを取り出した。一般的なものより小さなナイフは、わたしが唯一、目の前の人物から直接与えられたもの。わたしの手にちょうどいい大きさのそれを、彼女はわたしのために与えた。
「見ていてあげるわ。ほら、どうぞ?」
そう言ってエレメラ様は口の端を吊り上げる。院で思わず同じようにしてしまった痕をなぞるようにナイフを寝かせ、力を込める。
「…………っつ、ぐ」
ぶつぶつと繊維を断つ感触にナイフを握った右手がざわざわする。もちろん、そんな感覚に寒気を覚えるまでもなく左腕の痛みでカッと視界が明滅する。
「一枚」
腕の関節から手首まで、ゆっくりと薄く肌を削いだ私を見下ろして、エレメラ様が数える。肉が露出し、赤黒い血の斑点ができた私の腕を冷めた目で見つめている。
「さ、次よ」
「……ぅ、ぐ」
泣くな。逃げるな。そう自分に言い聞かせる。まだ何も伝えられていない。わたしの言葉は届いていない。だったら届くまで、わたしは何度だってこうして身を削る。
「ぃ、ぎっ、あ」
痛い。痛いという感覚すらも見失うくらい左腕が熱くて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。涙は勝手に溢れてわたしの視界を奪う。削っている自分の腕が見えないのはいいことなのだろうか。
それでも、きっとこうするために、わたしはかえってきたんだ。
クレア様が自分に似たわたしを救いたいと言ってくれたように。わたしも、この人を。もうひとりのわたしを捨てて、わたしの片割れから逃げて、そうやって生きていくのはきっと、こうして傷を負うよりも苦しい生き方だ。
わたしは考えたんだ。
自分で、たくさん、考えた。
戻ってくる必要なんてないのはわかってた。エレメラ様にとってわたしは何の特別でもない、あっさり手放してしまえる程度の存在だってことも理解した。あのわざとらしい笑顔で彼女が院を訪れた時、ポフルさんとデクルさんに「嫌だ」と言えばいいだけだった。こんな風に自分を傷つけることでしか価値を示せない関係なんてまともじゃない。こんな痛みなんて知らなくたって、わたしたちは生きていける。
そんなアタリマエのことをたくさん、たくさん考えて。それでもわたしは。
「エレメラさまを、ここに、のこして、いけません」
「……一体何を気取っているのか知らないけれど、無駄よ。私もあんたも、この街で生まれて、ここでの生き方しか知らないの。外へなんて、行けるわけがない」
「なんどでも、いいます。いっしょに、でましょう。そとに。きいてもらえるまで、わたしの、うでなら、いくらでも、さしだします、から」
きちんと言葉にできているかも怪しい。自分が何を言っているかも半ば朦朧として曖昧で、それでも刃を自分の腕にねじ込みながらわたしはわたしの考えたことを精一杯繰り返す。
「っ、あんたね、私に飼われてる分際でよくもそんなことが言えるわね」
「ちがうんです、わたしっ、たちは、おんなじで、だから、いっしょで、そとでも、やれて」
「五枚よ」
「なんまいでも、いいです。だから、いっしょに」
「六枚!」
「えれめら、さま、いっしょ、わたし、いっしょに、いきて、しあわせ、に」
「無理よ! ここを出るなんて、そんなこと出来るわけない! あんたにそれが出来るなら勝手にしなさいよ! そんな風に私に従わないで、どこにでも行っちゃえばいいでしょ!」
「ええ、ですからこちらで勝手にさせて頂きましたわ」
その声が聞こえたのと同時に、頬を伝い落ちた涙が床を打った。わたしの血と涙の水たまりを、上等な作りの靴がぱしゃりと踏む。
ナイフを握る右手がそっと掴まれ、ナイフを握ったままこわばっていたわたしの指を一本ずつほどいていく。
「間に合った、とは言えませんわね。ごめんなさいルナリア、遅くなりましたわ」
「……クレアさま」
涙で滲んだ視界にも眩しい、深い青色の瞳と輝くようなブロンドの髪。
「よく考えましたわね。偉いですわよ」
優しい手つきでそっと頭を撫でられる。
「ここからは、私たちにお任せなさい」
その言葉を果たしてわたしの頭はきちんと理解していただろうか。痛みで朦朧とした意識の中で、彼女の言葉はとてもハッキリと聞こえて。その意味するところはわからなくても、とても優しい声がわたしを安心させて。
そこでぷっつりと、わたしの意識は途切れた。
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