EX04-9:すべきことを

 世界が広がっていく、というのは大げさ過ぎるだろうか。


 けれどクレア様がわたしに何かを教えてくれる時、いつもわたしは見えている世界が広がったような、そんな気持ちがしていた。


 それはあの人が与えてくれる一つ一つがはじめてのものばかりだから、というだけじゃない。いつだってあの人はわたしに「自分で考えなさい」と、何度もそれを繰り返し言い聞かせた。そう言われてはじめて、わたしは自分では何も考えていなかったんだと思い知った。


 でも、仕方ないじゃないか、とも思っていた。


 だって誰もわたしの考えなんて聞いてくれなかった。考えて、自分の答えを出して動くなんて、怒られこそすれ褒められなんて絶対にしなかった。

 どうすればいいのか、なんて考えれば考えるほどわたしは嫌われてひとりぼっちになって。だったらわたしは何も考えないで、わたしを必要だと言う人に従っていればよかった。そうすればどんなに酷い目に遭っても、他人から見たらどんなに不幸のどん底に見えたとしても。


 世界に一人だけは、わたしを必要としてくれる人がいたから。


 そんな風に誰でもいい誰かの特別になりたいなんて、クレア様みたいに恵まれて育った貴族のひとにはわからないと思ってた。でも、ご飯を食べながら教えてくれた彼女の人生は、確かにいろんなものに恵まれていて、でも、わたしと同じものが欠けていたらしい。


「私にあったのはエルトファンベリアの娘という商品価値だけ。私という人間を見て、求めた人はいませんでしたわ」


 同じだった。求められる自分にだけ価値があって、自分の気持ちとか思いとか、そういうのには意味も価値もないんだって思ってたわたしと、それはよく似ていた。


 でも、それはいま、わたしの目に見える彼女とは違っている。わたしを導こうとしてくれる彼女は、誰が見てもお人形じゃない、自分の意志でそこに立っているつよい人に見えた。


「強い、かどうかはわかりません。でも、そんな風に張り詰めて、自分の世界を閉じてしまった私を見つけて、明るい場所へ手を引いてくれた人がいたのですわ。だから私は彼女のパートナーに相応しい人間でいようと思いますのよ。名前や肩書きではなく、私自身が今度は、あの人を支えられるように」


 そう言って少しだけ顔を赤くして微笑むクレア様に、わたしが抱いた気持ちはきっと憧れだった。

 だから、とそれを理由にするのはずるいだろうか。でも、そうとしか言いようがない。


「長い付き合いでしょ? こんな場所に放り込むなんて私達のいままでの関係が勿体無いって思い直したのよ」


 白々しい笑顔でわたしに手を差し出した彼女について行こうと思ったのは、お人形の自分に戻りたかったからじゃない。


 わたしはこの人から、逃げちゃいけない気がしたから。



* * *



「どうして止めなかったんですの!」


「す、すみません、でも、あの」


「あたしらに止める権利はねぇよ。向こうは元々保護者だったんだ、家に戻るのを拒む権利はない」


「だからって、あの子を追い詰めた人間の元へ送り返すなんて」


「……奥様、少し落ち着きましょう」


 アニエスになだめられて、私は荒い息をついてひとまず言葉を収める。とはいえ、苛立ちまで収まりがつくわけではもちろんない。


 思えば今日は朝から調子が悪かったのだ。いつもなら私が起き出すより前に雑事を終えているリムが今日に限って「寝坊しましたぁ!」と悲鳴を上げて屋敷を駆けずり回っていたのが始まり。早く片付けたい案件があるとかでエルザは既に出かけていて顔も見れず、早朝の一件以外は暇だというエルザに置いていかれたアニエスが忙しいリムに代わって孤児院への同行を申し出た。


 一つ一つはおかしな話ではないけれど、積み重なるといつもとの違いにイライラするし、どうにも調子が出ない。これも虫の知らせと言うならわかりにくい報告になんの意味があるというのか。


「……せめて我が家に連絡の一つくらいくださってもよかったんじゃありませんの?」


「き、急な話でしたから……」


「待てとは言ったんだ。けど荷造りするほどの荷物もねえし、あの女いますぐにでも連れて帰るって聞かねぇしよ」


「ルナリアの意思はどうなりますの! 本人の意思を無視して強引に連れ出したなら誘拐で訴え出れば――」


「あの子が、いいって言ったんです」


「……は?」


 ポフルの言葉に思わず目を見開いた。


「あの子が、って」


「ルンちゃんが嫌がれば、わたし達もそれを理由に先延ばしには出来たかもしれませんが」


「……あいつ一言『いいよ』って」


 申し訳無さそうなポフルと、どこか腑に落ちない様子のデクルを前に、私は調子の出ない頭をどうにか回転させる。

 今のルナリアは、もうちゃんと自分の意思を持ってる。考えることを放棄していないはず。そしてかつての彼女が置かれていた状況が、まともではなかったことも理解しているはずだ。


 そんなあの子がかつての環境に自ら戻ろうとする理由なんて、あるだろうか。

 相手を刺激したくなかった? でも、ポフルたちがいて、あの子一人だったわけじゃない。抗えたはずだし、逃げられたはずだ。


 逃げられるのに、ついて行った? それはつまり、彼女は間違いなく自分の意思でもう一度……。


「奥様」


「なんですの?」


「旦那様にご相談なさっては?」


「いいえ、この件でエルザの手を煩わせることはありません。私が直接確かめれば済む話ですわ」


「ですが――」


「ち、直接って、花街へ行くつもりですか?」


 何か言いかけた様子のアニエスを遮って、ポフルが驚いた声を上げる。


「他にどこへ行くって言うんですの。連れて行かれたのは今朝早くなのでしょう? なら、今から向かえばほぼ確実に会えるはずですわね」


「で、でも、あそこはその、治安もあまりよくないですし」


「そもそもいま真っ昼間だぜ、あそこの住人は寝静まってるぞ」


「あの子の心をボロボロにした女の睡眠に、私が気を使う義理なんてありませんわよ」


「……奥様の安全についてはご心配なく。私は奥様の護衛も兼ねていますので」


 アニエスが少し呆れの混じった声でそう言うと、双子は不安げな顔を見合わせてから曖昧に頷いた。


「その女の名前と、店はわかっていますの?」


「お店まではちょっと、私達も馴染みのない地域ですから」


「名前は知ってる。エレメラ・リベラ。本名か源氏名かは知らねーけど、あの街じゃそこそこ名前の売れた女らしいから、住人に聞けばわかると思うぜ」


「わかりましたわ。行きますわよアニエス」


「あの、旦那様に一度ご報告を……」


「必要ありません。これは、私とルナリアの問題です」


「……失礼いたしました」


 そうだ、エルザだって朝早くから自分の仕事をしている。私も、私のすべきことをするだけだ。


「……無事でいなさいな、ルナリア」

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