EX04-8:変転
二日目には言葉遣いに加えて礼法の基本を。三日目にはテーブルマナーを。四日目には少し趣向を変えて簡単な世界史の講義を。
一つ一つを完全に身に着けさせるのが目的ではない。ただ、私もエルザも研鑽を通して自己を育ててきたのだから、新たなものに触れ、学び、磨くことは重要だと思った。
自己を磨く時間は自分だけのもの。ルナリアにとってはおそらく初めての、自分のためだけの時間。
「……クレア様、あの、ひとつ、お聞きしてもよろしいですか?」
「なんですの?」
四日目の講義を終え、リムと二人で持ち込んだ教材を片付けているととてとてと歩み寄ってきたルナリアが遠慮がちに口を開いた。喜びを表情に出さないよう顔に力を入れながら、なんでもないですよ、という顔で振り返る。彼女が自分から質問してくるのは初めてで、少しでも積極的になってくれたのならこれほど嬉しいことはない。
「あの、クレア様は、どうして私に、私を、えっと……」
どうして自分にこんな風に構っているのか、それが聞きたいのだろう。それは察したけれど、私は敢えて、彼女が自分の言葉で続けるまで待った。自分の意志を言葉にして伝える。疑問を口にする。私の言葉が介在しない形でそれが出来れば、それはもうルナリアの自我がきちんと動き出した証だから。
「私を、私のこと、ええと……どうして、私にいろんなことを、教えてくださる、んですか?」
慣れない言葉遣いをひとつひとつ確かめるように上目遣いでこちらの表情を窺いながら、それでもルナリアはきちんと言い切った。自分の気持を、しっかりと自分の言葉で。
「よくできました」
「ぇ、あ、あの、え?」
私が微笑んで頭を撫でると戸惑った様子でオロオロと視線を彷徨わせる。でも、もう震えたり、縮こまったりしない。私が彼女の頭を撫でるのは褒める時。それを理解したから、もうこれはルナリアにとって意味のわからない触れ合いではなくなっている。
「どうして私が貴女にものを教えるか、でしたわね」
「は、はい」
「簡単に言えば、貴女が私に似ていたから。少し補足をするなら、私が好きな人にしてもらったことを、今度は他の誰かにしてあげたくなったから」
つまり、私のワガママですわね、と付け加えると「え、ぇ?」と目をぱちくりさせて首をひねる。ワガママで他人の世話を焼く、というのが彼女にはまだピンとこないのかもしれない。
誰かに何かをしてあげたい、なんて。あの頃の私も微塵も思わなかった。
私は「私」という鎧を磨き続けるのに精一杯で、誰かを気にかける余裕なんて無くて。
エルザは、そんな鎧の内側にある私自身でさえ気づかなかった私を見つけて、認めてくれた。
だから、今度は私が、この子を見つけてあげたい。誰かに従うだけの鎧で身を固めて、ルナリア自身でさえ見失ってしまった彼女自身。それはきっと、もうその喉元までせり上がってきているはずなのだ。
「私は貴女に自分の人生を考えろと言いましたわね。けれど貴女が生きてきて知っていることはあまりに少ないことも事実です。ですから、私は貴女に考えるための素地を作っているのですわ」
「……え、っと、そうすればクレア様のためになるのですか?」
「いいえ、これは貴女のためです。……まぁ、広義の意味で私のためとも言えますが」
「違うのです、か?」
「ええ、違います。根本から違います。ルナリア、貴女、私の望む通りの答えを出そうとしていますわね?」
「え……それは、あの、はい」
「違うのです。私が満足する答えがあるとすれば、それは貴女が心の底から望む本当の気持ちだけですわ。私の機嫌を窺うような答え、それこそ私がもっとも厭うものだと理解なさい」
「は、はい…………はい」
条件反射的に頷いてから、なにかを噛み締めるように、自分自身に向けたように、小さくもう一度顎を引いた。
――この様子なら、もう必要以上に世話を焼かなくてもいいのかもしれませんわね。
「ひと段落つきましたか?」
その時、ちょうど片付けを終えたリムが荷物を「よいしょーっ」と豪快に背負ったのとほぼ同時に扉が開いてポフルがひょいと顔をのぞかせた。
「ちょうど終わったところですわ。そろそろ夕食の時間でしたわね。それでは、私達はこれで」
「あ、ま、待ってください」
夕食時まで居座るつもりはないと部屋を出ようとうした私達を慌てたポフルが扉の前に立ちふさがって引き止める。
「なにか?」
「あ、その……よろしければ、夕食を召し上がっていきませんか?」
「折角の申し出ですが、ここへ出向いているのは私の個人的な都合ですわ。私達の分を用意するくらいなら、子どもたちに一口でも多く食べさせてあげなさいな」
「うぐ、それはその、ありがたいお気遣いなんですけど、ええと……」
ポフルの視線がうろうろと自信なさげに泳いで、私の顔と私の背後とを何度か行き来する。もしや、と思って振り返るとルナリアがどこか不安げに私とポフルのやり取りを見守っていた。
「……もしかして、ルナリアが言い出したんですの?」
「え、あ、いやその」
「正直に仰いなさいな。なにもこんなことでエルザに支援を断らせたりしませんわよ」
「そ、そんな心配はしてませんって! ……ごめんなさいね、ルンちゃん」
ポフルはそう一言詫びると、私とリムを夕食に誘った理由を説明してくれた。と言っても、何も複雑なことはなく、ルナリア自身が昨夜の夕食後にぽつりとクレアたちの身の上が知りたいと漏らしたので、お喋りの席を設けたかった、というだけの話だった。
「初めから素直に言えばよかったではありませんの」
私が呆れの息と共にそう吐き出すと小さくなったルナリアとポフルが揃って「ごめんなさい……」と頭を下げた。
「その、ルンちゃんがクレアラート様のことをもっと知りたい、お喋りしたいと言ったのですけど、いきなりプライベートなことをお聞きするのもなーと思いまして……」
「それで食事ですの?」
「食事の席でなら、少し砕けた話もしやすいかなー、なんて……」
「貴族の食事はマナーの席ですわ。そのように気を抜いてはいられません」
「あぅ」
涙目になるポフル。……とはいえ、あのルナリアが自分の希望を言ったのなら、保護者としてそれを叶えてあげたいという気持ちは理解できる。ポフルとデクルは私やエルザが貴族であることも気にしていたようで、リムやアニエスと接するより態度が硬いのも事実。なんとか「お喋り」の場を整えようとしたのはまぁ、わからないでもなかった。
「ま、いいですわ。ルナリア、今日だけはどんな質問でも許します。私の身の上なんて面白い話ではありませんけれど、貴女が知りたいと言うならお話ししましょう」
「あ、ありがとうございます!」
ルナリアは思わずといった様子で私の腰に抱きついてきた。慌ててパッと離れようとする彼女を私の方から抱きすくめると、離れようとした手がおずおずと私の背中に回される。
「いいですか、ルナリア。貴女が望み、真っ直ぐであれば、必ず誰かが応えてくれます。誰もがそうではないかもしれませんが、必ず、誰かが」
「は、はい」
「誰かに否定されたから間違っているのではありません。誰かが肯定するから正しいのでもありません。貴女が正しいと信じたものが正しいのです。ですからいつでも自分に問いなさい。正しいのか、間違っているのか。好きなのか、嫌いなのか。貴女が決めなさい」
「……私が、決めてもいいん、ですか?」
「貴女にしか決められないのですわ」
私の後をついてくるばかりだった手のかかる幼馴染が教えてくれたことだ。間違えないために出来るのは、きちんと自分で選ぶことだけ。
「さぁ、それでは食事に致しましょう」
「三人とも、こっちですよー」
「やー、わたしもお腹ペコペコですー」
「リム、今日は子どもたちの分まで物欲しそうに見るんじゃありませんわよ」
「そ、そんな目してました!?」
賑々しく食事へ向かう私達の最後尾を歩いていたルナリアが、そっと私の小指の先を掴んだ。
見れば「だめ?」と言いたげにじっとこちらを見上げている。私は一度その手をほどくと、改めてしっかりと手をつなぎ直した。
「席につくまで、ですわよ?」
「はい!」
ルナリアが笑うのを、初めて見た気がした。
* * *
ルナリアの笑顔を見て、気が緩んでいた――と、いう訳でもないだろうけれど。
まさかそれほど突然に事態が急変するなんて私には、否、きっとルナリア自身にさえまるで想像できなかっただろう。想像がつかなかったからというのは何の言い訳にもならない。
それでも、あまりに予想外で、そして起きてみれば有り得ると頷けてしまう事態だった。
翌日、ルナリアの姿は院から消えていた。
彼女をあっさりと捨てたはずの女に、再び引き取られるという悪夢のような形で。
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