EX03:命の終わりに、また会う日まで
「なん、ですのこれは」
耳障りなぶるぶるごろごろという地鳴りめいた音によって不愉快な朝を迎えた私はぱちぱちと目をしばたかせ、自分が目覚めた部屋をぐるりと見回し、自分が身につけている見慣れない服――見慣れないが、柄や作りのシンプルさからおそらく寝衣と察しはついた――を見下ろして、ようやく絞り出せた言葉がそれだった。
部屋は妙にこじんまりとして手狭で、しかし壁紙や調度品はパッと見ただけでも職人技と思われるような技術の結晶に見えた。意匠は細かく繊細で、それでいてこの狭い部屋にも圧迫感を感じさせないように主張しすぎず、機能美のようなものも感じられる。それだけの技術とセンスをつぎ込んで作られているにもかかわらず材質が持つ高級感はなく、ますます誰がどんな意図で作り上げたものなのかわからなくなる。
「それになんです、この狭苦しいベッドは……」
部屋は狭いながらも機能的に見えたが、クレアが身を起こしたベッドは幅が狭いだけでなくやたらと天蓋が低く、上体を起こすだけで頭を打ち付けそうになる。脚が低いのは庶民のベッドに似ているが、彼らはそもそもベッドに天蓋を取り付けない。寝心地は悪くないのだが、いかんせん目を覚めて目の前に無骨な天蓋が大映しになるのは目覚めの質を落とすのに一役買っているとしか思えない。
「んんー……」
ぎしっ。
「な、なんです!」
睨みつけていた天蓋がぎしりと音を立てて思わずクレアはびくっと身をすくめた。どうやら崩れ落ちてくるわけではなさそうだと、思わず閉じてしまった目をこわごわ開けてみるが、妙な音の割に天蓋に異常は見当たらない。
というか、今の声は。
「……エルザ?」
こんな異常な状況とはいえ、起き抜けの恋人が漏らす耳慣れた声を聞き間違うはずがない。そんな確信を持って、クレアは恐る恐るベッドを這い出す。
「これは……」
驚きとともに納得をもってクレアは妙に低かった天蓋の意味を理解する。ベッドの端には簡素な階段のようなものが取り付けられていて、天蓋だと思っていた場所には人一人が横になれるスペースと転落防止用と思われる低い柵がぐるりととりつけられている。
なるほど二段ベッドというやつだ、とクレアはあまり詳しくない庶民の知識から導き出した答えに自分で頷いた。リムのいた孤児院で見た覚えがある。ベッドひとつ分のスペースで二人が眠れる、庶民の知恵だと感心したのを覚えていた。
ということは。
簡素な作りの急な階段を上って覗き込むと案の定。無邪気な顔ですやすやと寝息を立てる恋人の姿があった。
「エルザ」
起こすでもなく名前を呼んで、こんな不可解な状況にもかかわらずほんのりと安堵する。見たこともない部屋に見たこともないモノで溢れていて、なぜ自分がここにいるのかわからない。それでも彼女と一緒ならどうとでもなる、とそんな根拠のない安心感に包まれてすっかりと動揺は収まっていた。
「エルザ」
声が聞きたくて、少し大きめの声で名前を呼ぶと「んん、くれあ……」ともぞもぞした後にゆっくりとエルザが身を起こした。
「くぁ……あ?」
ひと目をはばからない大あくびの途中でぴたりとエルザが停止する。ベッド端の階段あたりからひょっこりと顔を出していた私と、そして見慣れない部屋をぐるりと見回して、もう一度視線が私に戻ってくる。そして。
「あ、あれ、なんでクレアが私の部屋にいるの……?」
そんな衝撃的な言葉を、ぽろりとこぼした。
* * *
「……信じられませんわ」
「私も何がどうなってるのか……」
しきりに首を捻りながら通学路を物珍しそうに隅々まで見回して眉根を寄せるクレアと並んで歩きながら、私は私で未だにこの状況に頭がぐるぐると混乱の渦を巻いていた。
私とクレアが目を覚ましたのは私の部屋だ。といっても見慣れたフォルクハイル邸の一室ではなく、前世の「私」が生まれ育った、地球の、日本の、一般的な中流家庭の子供部屋である。部屋の調度品などは全部私の記憶にあるままで、ただベッドだけは二段に増設されていた。
淡い水色でチェック柄の、現代風のパジャマを身に着けたクレアはそれはそれでとても愛くるしかったのだけど、さすがに興奮している場合じゃないと家の中をあちこち確認して回ったところ、リビングに用意された二人分の朝食と、両親は揃って早出している旨の書き置きを見つけた。
走り書きのメモには『紅麗愛ちゃんは転校初日なんだから、ちゃんと案内してあげなさい』との追伸まで。ゴテゴテした文字列に何事かと思ったが、どうやら「くれあ」の当て字らしい。
つまり何がどうしてこうなっているのかは置いておくとして、この世界での私は前世の私そのままで、そんな私の家に「転校生」の紅麗愛ちゃんが居候している、という状況らしい。いやいや「らしい」って、どんな状況よそれ。
とはいえ、あちらの世界に転生して十数年経とうとも完全に抜けきらなかった小市民根性からか、登校時間が迫っているとなれば状況の不可解さは脇においてひとまず学校へ向かってしまうのはもう日本人の性だと思う。
幸いクレアの分の制服も通学カバンも私の部屋にあったので、揃いの制服に袖を通してともかく学校へ向かっているのだった。
車や自転車が脇を通るたびに逐一びくっとなって私のブレザーの裾をつまんでくるクレアは最高に可愛かったけれど、悶えてばかりもいられない。
「……え、エルザは本当に、こんな世界で暮らしていましたの……?」
「やー、うん……そうなんだけど」
ちなみに私もクレアも、容姿はあちらの世界そのままなので、日本の片田舎を歩いていると非常によく目立つ。クレアの盛り盛りぐるぐるの美しいブロンド髪はもちろん、エルザベラの赤みがかった茶髪もかなり浮いていた。が、その辺はどんなご都合主義が働いているのかすれ違う人々からはこれといって奇異の視線は感じない。一応、ただの女子高生として溶け込めてはいるようだった。
「恵瑠〜!」
「見渡す限り人工物、それも木や煉瓦には見えない建物ばかりですわね」
「そうだね。私も久しぶりに見るから、なんだか現実味がないなぁ」
「えーるー!」
「確認ですけれど、あの車……自動車でしたっけ? あれは人力でもなければ見えない馬に引かせているわけでもありませんのね?」
「見えない馬はあっちの世界でもおかしな話だと思うけど……」
「恵瑠ってばー」
「見たことも聞いたこともない電気とやらよりはまだ納得できると思うのですけれど」
「そういうものかなぁ」
「恵瑠!」
「わひゃっ!」
がっと背後から両肩を鷲掴みされて思わず飛び上がった。
「何者ですか!」
ほとんど条件反射のように鞄を放り出したクレアが私を掴んだ手を払いのけて、私を庇うように割って入った。
「な、何者って、え、あれ、ええっと……?」
改めて聞くとどことなく覚えのある声だった。クレアに遅れて振り返った私の目に映ったのは、ボーイッシュなショートカットと対照的なタレ目が個性的な、見慣れた/懐かしい顔だった。
「いくちゃん……?」
「や、なんで疑問系だし?」
言いながらそちらも疑問形で私とクレアを交互に見比べるのはいくちゃん、私――すっかり忘れていたけど恵瑠という名前の女子高生――の幼馴染で同級生の郁乃ちゃんだった。
「ひ、っさしぶりぃー!」
自分の名前に聞き覚えがなさすぎて聞き流していたけれど、改めて友人の顔を見たらなんだかストンと当時の感覚が戻ってきて、思わず飛びついてしまった。
「わ、ぷ! なになに、どしたの、久しぶりってただの土日ぶりじゃん」
「でも久しぶりなの! うわ、うわぁ、本物! 本物のいくちゃんだ! すげー!」
「何もすごくないってば」
言いながらも苦笑いでよしよしと頭を撫でられる。彼女は知らなくても、私にとっては十数年ぶりの再会なのだ。あ、やばい、ちょっと泣きそう。
「あー、恵瑠さん? 2日ぶり感動の再会も結構だけどさ、お隣のお嬢さんがめっちゃ睨んでくるのなんとかしてくれないかな?」
「え?」
振り返るとむっすぅっとわかりやすく不機嫌になったクレアと目が合った。お、おう、美人は怒ると迫力が段違いじゃん……もともとキツめの顔立ちのクレアは余計に。まぁ元々悪役令嬢なんだからそりゃ迫力はあって当たり前だけど。
「あの、クレア? 違うよ、これはほら、もう会えないと思ってた友達とまた会えて、思わずってやつでね」
「……別に、何も言っていませんけど」
あああ拗ねてる、これは拗ねてる! でもそんなクレアも可愛い!
ぷいっと顔を背けてしまったクレアの前にぐるりと回り込むようにして覗き込むと、ぐりんと反対側に首をそむけられる。すごく拗ねてる! 可愛い!
「えーっと、あたし、なんか邪魔しちゃった?」
「あ、ううん、ちょっと私が感極まっちゃったっていうか、ほら、アレがアレでちょっと」
「いや、なんもわからんしそれ」
そう言ってくすくす笑ういくちゃんとの距離感が懐かしい。あちらの世界に転生してからは常に「令嬢」としての振る舞いを求められていたから、こんな風に気安く対等に話せる相手との会話は懐かしさを通り越してもはや新鮮だった。
「……浮気者」
ぼそっと呟かれた低い声に、私が振り返るより早く。
「んっ」
「んむ!?」
突然クレアに思いっきりキスされた。
「ちょ、むっ、くれ、んん、まっ、んむぅ!」
「はむ、ん、っふ、ふぅ」
呆気にとられるいくちゃんになんとか説明しようとクレアを押し返してもかつてないほどガッチリと押さえつけられて生半な力ではびくともしない。押し付けられる唇と近すぎるクレアの匂いに「あ、もういいかな……」とか理性を溶かされはじめた頃、ようやくクレアは私から唇を離し、いくちゃんに向き直った。
「エルザは私のものですから」
「……え、あ、うん。うん?」
やめてえええいくちゃんドン引きしてるううう……。
* * *
「ほへー、婚約者。こんな美人さんが恵瑠のねぇ。っていうか、婚約者って。今どきそんなの、一般家庭でもあるんだねぇ」
「うちはアレだけど、クレアの家はうちみたいな小市民じゃないから……」
「にしても、婚約して同じ部屋で暮らし始めたなんて、恵瑠ってばいつの間にそんなヤり手に……」
「なんか響きに邪なものを感じるんだけど……」
「気のせいだって、ねぇクレア」
「……貴女、ずいぶん馴れ馴れしいですわね」
「あれ、そういうの気にする? やー、ごめんなさいね、恵瑠もあたしもデリカシー無いってよく言われるからさ。諦めてん♪」
「てん……?」
「ちょっと、私を巻き込まないでよ」
軽薄な調子でからから笑うイクノ様……いや、エルザ曰くこちらでは様付けは仰々し過ぎるらしいからイクノさん? ともかく彼女は最初こそ戸惑っていたものの、ほんの曲がり角を2つ曲がる程度の時間ですっかり順応して、私とエルザの「婚約者」という関係にもあっさり馴染んでいた。
彼女自身が「今どきそんなの」なんて言っていた割に、そこに戸惑いや抵抗を示さないのでこちらが拍子抜けする。あまつさえあっさりと私を愛称で呼び捨てにしてくるなんて……さすがはエルザの友達、と素直に称賛していいものか悩ましい。
ただ、エルザと彼女の距離感を眺めていて気づいたこともある。それはエルザもイクノさん自身も言っていたが、二人の関係は確かに「友達」であるらしい、ということだ。
始めはエルザが抱きついたり、イクノさんがごく自然に頭を撫でたり、そんな距離感を見て「そこは私の場所なのに!」と憤慨したのだが、イクノさんが私達の関係に馴染むように、私もその距離感に馴染み始めていた。
確かに二人の距離は近いし、エルザの表情は柔らかくリラックスしたもので、親愛があるのは間違いないけれど。
(あの顔は、違いますわね)
私を見る時のエルザの、嬉しそうな、少し切なそうな、あの甘い顔ではない。どんなに距離が近づいても少しも赤くならないし、距離の近さをまるで意識していないみたいだった。それほどの親密さなのだと、それはそれで少々モヤモヤするものはあったけれど。
それでもエルザの中で、彼女と私の間には明確に異なる関係が定義されているのだと実感してひと安心、すると共に先程の振る舞いがひどく恥ずかしいものに思えてきた。
いや、それを言うならもうこれまでのすべてが恥ずかしい。
エルザの中で恋愛感情を向ける相手と、友情を向ける相手とではこんなに態度が違うのだ。それが私たちの生きる貴族社会では異質な感覚だったとしても、こんなに表情の端々から違いがにじみ出ているというのに……のに!
「それなのに私はエルザに想われていないと信じ込んであんな……あんな……うう」
出会いから婚約宣言をしたあのダンスパーティーまでの出来事が脳内を駆け巡る。マリーナ様に嫉妬したのも、今となっては恥ずかしさに拍車をかけるばかりだ。
だって知らなかったのだ。エルザが友人に向けるのがどんな顔で、恋人に向けるのがどんな顔かなんて知りようがなかった。だからあの時の私にとっては、エルザが私に向けている感情が何であったかなんてわからなくて……。
「……おーい、クレアさんや」
「っ、な、なんですの。というか近いですわ!」
「やーん」
不意打ち気味に顔を覗き込まれて突き飛ばす勢いでイクノさんを押し返したが、彼女はそのおっとりした顔立ちに反してしっかりとその場に踏みとどまり「おっとー」と間の抜けた声を上げただけだだった。
「いや、学校ついたけど」
「え?」
言われて顔を上げると、目の前にある背の低い門の奥に、私達と同じ制服の学生が次々吸い込まれていくところだった。
「うーん時間ぎれかぁ。ほんとはもっとクレアと話してみたかったんだけどなあ」
「別に……同じ場所にいるのですから、いくらでも時間は――」
「いないよ」
ぴしっと、世界に亀裂が入る音がした。
「……え?」
「あ、あれ、ちょっといくちゃん?」
私に続いて、隣のエルザも戸惑いの声を上げる。
イクノさんは校門の向こう側。私とエルザは外側にいる。いつの間に、と思う間もなくまたぴしっと音がして、今度は私達の足元が、ちょうど校門を縁取るようにあちらとこちらを隔てて亀裂を走らせる。
「な、何事です、これは……?」
「いくちゃん!」
「いないじゃん、あたしらは同じ場所にはさ」
地面の亀裂をちらりと一瞥して、ふうと諦観混じりのため息をつくイクノさんは落ち着き払っている。目の前でパラパラと崩れ落ちていく世界と動揺を欠片も見せない彼女とのコントラストが、一気に目の前の世界の現実感を拭い去ってしまう。
「大事な幼馴染が急に死んじゃってさ、あの世で幸せにやってるかなぁって思ったりもしたけど。当たり前だけど確かめる方法なんてなくてさ」
「っ、それは」
「まぁ恵瑠のことだから、どんな場所でもそれなりに幸せにやってるんだろうなって、そう、思ってたんだけどさ」
ぴし、ぴしっと細い亀裂が私達の足元に迫ってくる。為す術なく後ずさるしか無い私達を見て、イクノさんは満足げに笑う。
「この目で見れて、やっと安心したよ。よかった、ちゃんと幸せそうで」
「イクノ、さん」
ほんの少し、微笑む表情の口の端に寂しさを浮かべつつ、それでも笑顔のまま、イクノさんは続ける。
「恵瑠……いや、そっちではエルザだっけ」
「恵瑠でいいよっ、いくちゃんにとって私は、恵瑠でしょ!」
大きく広がっていく私達の間の亀裂。巨大な地割れのようになったそれによって引き離されながら、向こう側に向けてエルザは叫ぶ。けれどその必死な声に、イクノさんは苦笑いで首を振った。
「なーに言ってんのよ、ダメでしょそれじゃあ。ちゃんと今のあんたがいる場所を大事にしなきゃ。隣の子が悲しむよ」
「でも、私にとっていくちゃんはずっと幼馴染で、親友で!」
「あたしにとってもそうだよ。でも、お互い今が大事でしょ」
私は何も言えない。なんとなく、理屈ではなく感覚で、この「場所」が理解できてしまったからかもしれない。
ここはきっと、エルザのための世界であり、イクノさんのための世界だ。同じ世界に生まれて、別の世界を生きることになってしまった二人が、最後にちゃんと向き合うための場所だ。
私はこの世界では添え物で、何かを言う権利は――。
「クレア」
名前を呼ばれて、その少女を見返す。
「任せるからね」
「……承りましたわ」
「あは、二つ返事。いい婚約者じゃん、エルザ」
「っ、当たり前、じゃん。私が選んだ人、なんだから」
涙ぐみながらもエルザが笑う。
「ん。あんたらが一緒にいられるなら、あたしが心配することはなーんもないや」
「……ぐず」
エルザが鼻を啜る声がした。正直、朝の慌ただしい中でされた説明だけで彼女の言う「前世」というものを私がきちんと理解出来たとは思っていない。それでも、ここが彼女の生まれた場所で、その場所でずっと彼女と一緒に育ってきた少女が、私に彼女を任せると言ってくれたのなら、私の言うべきことは一つしか無い。
「私の名誉にかけて、貴女の親友を必ず幸せにすると誓いますわ。ですから貴女も、どうぞ憂いなく、ご自分の世界で目一杯、生きてください」
「うん、そうするよ」
これで、ここでの私の役目はあとひとつだけ。
私はエルザの手をぎゅっと握る。エルザは反対の手で涙をぬぐって、一歩前に出た。
「私、いまちゃんと幸せだから」
「うん」
「クレアと一緒に、もっと幸せになるから」
「うん」
「だから、いくちゃんも幸せになって!」
「……うん」
イクノさんの目尻に、かすかに光るものが見えた気がしたけれど既に私達と彼女の間の亀裂は果てしなく広く、それを確かめる術はない。
「いっぱい幸せになって、たっぷり生きて、それでいつか死んだら、そん時はさ」
ぐっと前に突き出したイクノさんの拳が、二本指を立てる。見慣れないそのサインも、イクノさんの泣き笑いのような表情を見れば自然と親愛の証だと理解できた。
「あの世で会おうぜ、親友。……と、あー親友の、大事な人?」
「もう、最後の最後でしまらないんだから、いくちゃんは」
「私も、貴女とまたお会いする日を楽しみにしていますわ」
私達は手をつないだまま、互いに空いている方の手で彼女と同じように二本指を立てて見せた。イクノさんが満足げに笑った瞬間、私達の足元は崩れて、私とエルザは手をつないだまま暗闇に落下する。
恐怖は、不思議と感じない。
私達は手をつないだまま、遠ざかっていく光を見つめていた。
やがて光は小さな円になり、もっと小さな点になり、そして――。
* * *
「ん」
私にしては珍しく、スッキリと目が覚めて身を起こした。
見慣れた自室のベッドが、妙にちりちりと違和感を抱かせる。違和感の正体を探ろうと周囲を見回して、ふと右手が動かせない事に気づいた。
「……える、ざ」
私の右腕を抱きかかえるようにして、大好きな恋人が寝息を立てていた。
いつもはしっかりとセットされている髪が無造作に下ろされて、ベッドに広がっている。長い髪を梳くようにして撫でていると「んぅ」と小さく鳴いてから、むくっとクレアが身を起こした。
「…………」
私と違っていつでも寝覚めのいいクレアがきょろきょろと部屋を見回す。お泊りは初めてだったから、目覚めた部屋がいつもと違うことを理解するまで少し時間がかかるのかな、なんて思っていると。
「……戻って、きましたのね」
私に聞かせるでもなく自然にこぼれ落ちたつぶやきに目を見張った。
「クレア」
「くぁ……おはようございます、エルザ」
「う、うん、おはよう。あの、もしかして」
「はい、なんですの?」
あまりにいつも通りなクレアを前にすると酷くバカげた質問をしようとしている気がしてわずかに躊躇ったけれど、結局好奇心に負けて口を開いた。
「もしかしてクレアも、いくちゃんと会ってた?」
「……何を言っていますの?」
ああ、やっぱりただの夢か、なんてちょっぴり落胆して、なんでもないわ、と誤魔化そうとした瞬間。
「もしかしても何も、エルザも一緒にいたではありませんの」
「え」
「……なんです?」
さも当然のように言い放ったクレアを思わずぽかんと口を開けて見返すと「みっともないですわよ」と直接顎を押し上げられた。
「夢、じゃなかった……?」
「さて、どうでしょうね。お告げのようなものかもしれませんし、起こった出来事だけを見るなら夢と言ってもいいと思いますけれど」
でも、とクレアは微笑みながら言う。
「大事なのは約束したことを覚えていること。そうではありませんこと?」
……だめだ、私の婚約者、かっこよすぎる。
「あーもう! 好き!」
「ひゃっ、な、なんですの急に! ちょっと、エルザ、やっ、朝から、なんて」
「もー無理、我慢できない! クレアが悪い!」
「私ですの!? 私なんですの!? ちょっと、どこ触って」
クレアが隣りにいて、こんな風に触れて、言葉をかわして、通じ合って、からかったりもできて。
「お嬢様、朝から盛るのはダメ人間への道です」
「ダメでも幸せだからいいのよ」
「ちょっと、エルザ見られて、貴女もエルザを止めなさ、んぁっ!」
「……お邪魔なようですので失礼します」
「待っ、あひっ! エルザ、お願いほんとにちょっと待っ」
「んちゅ、ちゅう」
「どこ吸ってますの!」
私はちゃんと幸せだから。こんなに満たされているから。
だからいくちゃんも、ちゃんと幸せに生きてよね。
いつか、命の終わりにまた会えたら。
幸せな人生の話が、できるように。
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