EX02:しるし 侍女の場合(アニー×エルザ)

アニエルです。

浮気二股それらに準じる要素を含みますので、苦手な方は回避推奨。



* * *



「……すぅ、すぅ」


「ふむ」


 さて、どうしたものか。


 帰りの馬車の中ですっかり安心しきった様子で寝入ってしまったお嬢様を起こさないよう慎重に自室のベッドに寝かせるまではもう慣れたものだ。


 クレアラート様とごたごたしていた頃には連日遅くまで一人対策会議をしていたこともあったが、あれは事の重要さと彼女の集中力、気力の為せる技だ。お嬢様は基本、よく眠る。当然、昔から彼女に仕えている私は彼女をベッドに寝かせ、軽く体を拭いて寝衣に着替えさせるくらいはお手の物である。屋敷の他の者たちも、旦那様や奥様もそのことを知っているので、私がお嬢様を抱えあげて部屋に運んでいるのを見ても「手伝おうか?」などと無粋なことを言ってはこない。


 よって、私は今、無防備なお嬢様と、彼女の部屋に二人きりで、しかも着替えさせる義務、大義名分がある。


「……ふむ」


 さて、どうしたものか。


 状況を整理してみても、根本的な部分の思考は前進しなかった。


 どうするも何も、どうしようもないのだ。私は、お嬢様にとっては特別な侍女かもしれないが、どんなに特別でも侍女は侍女だ。それ以上の存在ではない。時折、彼女が少しだけ弱っている時に姉のように振る舞うことが私に赦される目いっぱいのわがままだ。それはわかっている。重々承知しているし、仕方のないことだと納得もしている。お嬢様自身が私をお望みにならない限り、私の手で彼女の目を私に向けるなんて、そんな身勝手は出来ない。


 けれど。


「……一度は愛の告白をしてきた相手と二人きりだというのに、これは無防備が過ぎます」


 信頼の証だと思えば嬉しくもあるのだけど、それがもどかしくもある。


 お嬢様が私の気持ちに応える義務はない。侍女だなんだという話は置いておくとしても、彼女の愛情は彼女のものだ。私の向ける気持ちに応えられず、クレアラート様へ向いていることを、私がどうこう言うのはおかしな話だ。


 ただ、それでも。


「もう少し、意識してくださってもよいのではないかと、私は愚考する次第なのですが」


 誰に聞こえるわけでもないのにそうぼやきながらも、私の手はいつものように手際よくお嬢様の制服を脱がしていく。下着姿になったお嬢様を、用意した手ぬぐいをぬるま湯に浸して、足先からゆっくりと拭いていくと、お嬢様が小さく身じろぎした。


「んん」


 もぞり、と寝返りを打つので私はパッと手を離す。動きを阻害すると目を覚ましてしまうかもしれないからだ。代わりに、彼女が自分から動く時以外はどこに触れてもほとんど彼女は目覚めない。

 ……どこに触れても。


「ふむ」


 いけない、どうも今日は思考がそちらに流れ気味だ。いや、ここしばらく、クレアラート様との婚約にまつわるあれやこれやでお嬢様も忙しかったから、こうして昼間から微睡むようなことはあまりなかったのだ。


 それが一段落したと思ったら学院の講義をサボってクレアラート様といちゃいちゃと……っと、いけない。いけませんよアニエス、主人の恋愛に嫉妬など侍女のすることでは。


「んー……」


「……いえ、でもさすがにこれは怒っていいのでは?」


 再び寝返りを打ったお嬢様の首周りについている大量のキスマークに思わずピクリと頬を引きつらせてしまった。下着姿、つまり最低限の衣服しか身に着けていないからこそお嬢様の肌の美しさがよくわかる。だからこそ、余計にそのきめ細かな美しい肌に点々とつけられた赤い吸い痕が際立って見えた。


 クレアラート様への怒りはそれほど沸いてこない。どうせ始めたのはお嬢様の方だろうし、歯止めが効かなかったのもお嬢様に違いない。それにそもそも、クレアラート様は私のお嬢様への気持ちだって知らないだろうし、私に見せつける意図はないはずだ。


 まぁ、そんな意図はお嬢様にも無いだろうが、こうして眠ってしまえば私が着替えさせることになるのは自明の理。必然的に私はその痕を見せつけられる羽目になる。

 あんなに思いの丈をぶつけて、お互いに震えながら抱き合った。その私への仕打ちが、これか。


「……ふむ」


 うん、私、怒っていい。


「お嬢様には少々デリカシーというものを学んでいただかなくてはいけませんね」


「ん、やぁ……」


 都合よく、お嬢様がまた寝返りを打った。眠りは深い割に、寝相が落ち着かないのを知っている私は彼女の腕を拭いていた手をまたパッと離す。

 身体を横向きに、少し縮こまるようにして身体を丸めたお嬢様の背中があらわになる。背骨と肩甲骨が作り出す陰影が、今の私にはひどく色っぽく見えた。


 ゆっくりと、細心の注意を払って広いベッドに肩肘をついてお嬢様の無防備な背中に顔を寄せる。甘い香りが鼻先をくすぐって私の理性を吹き飛ばそうとするのをどうにか抑え込んで、当初の目的通りの仕返しをすることだけに集中する。


「……私への配慮に欠けた言動の数々に対する、仕返しです」


 ちゅう、と。

 丸まった背中にうっすらとせり出した背骨にかぶせるように口づけて、強めに吸い上げる。お嬢様の口から「んっ」と声が漏れてまた吹き飛びそうになった理性を必死につなぎとめて、なんとかその「一口」に留めた。……我慢できた方だろう。


 身を引いて自分の口づけの痕を確かめる。美しい背中の中央付近、薄く浮き出た背骨に重なったその痕はきっと誰にも、お嬢様自身にも気づかれないまま、消えてしまうだろう。強めにつけたから、明日までは残るかもしれないが、彼女の背中なんて着替えを手伝う私くらいしか目にしない。だから、誰に迷惑がかかることもないはずだ。


 それでも、私だけが知っている痕が、ひっそりと彼女の背中にあることが、私の心を少しだけ慰める。

 これでいい。別に私は、お嬢様の恋路の邪魔をしたいわけじゃないのだ。


「私にも、印のひとつくらいつける権利はありますよね」


 誰にも知られない、私だけの自己満足だ。それでいい。私に赦される最大限の最低限を、せめて享受したいだけだ。



* * *



「アニー、私の背中になにかしたでしょう?」


「は?」


 翌朝、いつものように着替えを手伝っていると不意にお嬢様にそう声をかけられて私は思わず固まった。


「……なんです、急に」


「誤魔化すのが下手ね」


 ……まぁ、最初の声を上げてしまった時点で自白したも同然だ。


「別に、お嬢様が気になさることでは」


「私になにかしたのに?」


「……それは、まぁ」


 言葉に詰まる。そりゃ気にするだろう、という冷静な私と、でも誰にも迷惑はかからないはずだし、と未だに言い訳を繰り返すわがままな私が同時に心に蠢く。


「どうしてお気づきに?」


「長い付き合いだもの、貴女が私の背中を妙に気にしてるのに気づかないわけがないでしょう」


「気にしていましたか?」


「ええ、私を起こしに来た時からずっと」


「…………」


 無意識だった。そんなに気にしていただろうか。確かに、彼女の寝衣の下に私しか知らない赤い痕が色づいていることを意識してはいたが、侍女としての仕事はいつもと変わりなくこなしていたし、気取られるような不自然な動きをしたつもりはなかったのだけど。


「背中に何かあるのかしら、とは思ったわ。でも、私にとってマイナスになることだったら貴女が何も言わずに放っておくはずがないでしょう? そうでなくても何か違和感があったり、不思議に思ったらアニーは迷わず私に確認してくるわ。それをしないってことは、アニー自身が何かしたってこと」


 あたってるでしょ? と微笑まれて、私への信頼を前提としたその推理に顔が熱くなる。同時に、くだらない嫉妬で自分が主にしたことを恥じた。


「……申し訳ありません、その、昨日お嬢様がお休みの間に、キスマークを」


 私が正直に白状すると、お嬢様は一瞬ぽかんと口を開けて驚いてから、気恥ずかしそうに少し赤みの差した頬をぽりぽりとひっかいた。


「……その、見える場所、じゃないのよね?」


「はい、背中に一箇所だけですから。服を脱いで背中をお見せにならなければ気づかれないかと」


 この主人が私に本気で怒ったことはない。ないが、今度ばかりはさすがに――と身を硬くした私だったのだが。


「――じゃあ、いいわ」


「え?」


「ちょっと恥ずかしいけど、気にしないことにするわ」


「怒らない、のですか?」


「……だって」


 言葉通り恥ずかしそうにまだ赤みの引かない頬をぱたぱたと手で仰ぎながらお嬢様は口を尖らせる。


「私が無理を言って、アニーには残ってもらってるわけだし、ね?」


 これくらいはまぁ……とぼそぼそ言われて目が点になる。


「無理、とは?」


「だ、だって告白して振られた相手に変わらず仕えるのとか、大変だろうし、でも私、アニーなしでちゃんとやっていける自信ないから、アニーに甘えちゃってるし……だ、だからその、アニーがしたいならそれくらいは、私に怒る権利もないっていうか」


 もじもじと気まずそうにしながらそんなことを言う主人に、私は正直ムラッときた自分を抑えていつもの無表情を保つのに必死だった。


 そもそも、いち使用人の感情なんて貴族令嬢が気遣うようなことじゃないのだ。私の直接の雇い主は旦那様だが、彼女はその娘だ。気に入らない使用人を追い出すよう旦那様に進言する力くらいはあるし、粗相をしたり、そりの合わない使用人をクビにしたり、そこまでいかずとも部署替えするくらいは珍しい話でも何でも無い。


 だからお嬢様が私を使いたいならそうすればいいし、嫌なら違う侍女を入れればいい。選ぶのはいつだってお嬢様の方で、彼女はそれが当たり前に出来る立場なのだ。

 だというのに、彼女は私が気持ちを押し殺して仕えていることに申し訳なさを滲ませている。


「……ほんっとに、そういうところがずるいんです、お嬢様は」


「うぇ!? な、なに、またなんかやらかした? ご、ごめんアニー、だからあの、どうか出て行かないで!」


 私を捨てるも捨てないもお嬢様の自由だというのに、彼女の方が捨てられまいと必死な様子で私にすがりついてくる。

 ……こんな顔をされては、なんだか嫉妬していた私の器が小さいみたいじゃないか。本当にこの人はずるくて、そしてどうしようもなく、愛しい主だ。


「いけませんよお嬢様」


「え?」


「そんな風に言われては、私がお嬢様にとって特別な人間のように錯覚してしまいます」


 それはよくないのだ。ただの侍女をそんな風に言うのは、お互いのためにならない。使える者にとって主は唯一無二の存在だが、主にとっての従者はそうではない。そのことは、彼女が貴族である以上は忘れてはならない。だというのにこの主人はきょとんと目をまんまるにして、こんなことを言うのだ。


「だって、アニーは私の特別な人だもの」


「……いえ、私はただの侍女です。くだらない嫉妬でキスマークなど、追い出されても仕方のないことをしでかしたダメな侍女です」


「そんなことない。ダメなんかじゃないし、そもそもアニーは大事な家族よ。追い出せるわけないわ。むしろこんなことで出ていくなんて絶対認めないから!」


 ふんすと鼻息荒くお叱りモードになるお嬢様。それからまたハッと何かに気付いたように遠慮がちな上目遣いに戻る。


「いや、その、今のは私がアニーを縛るつもりとかじゃなくて、その、もちろんアニーが自分の意思で出ていくっていうなら、無理に引き止める権利は私にはないわ、無いけど、その」


 それでも、と。


「私は、これからもずっと、アニーには一緒にいて欲しいと、思ってる、から」


「……お嬢様、本当に私を振った自覚、あるんですか?」


「うぐっ」


 私がジト目を向けるとお嬢様が気まずそうに目を逸らす。まったく、この人は。


「私の気持ちは変わりませんよ」


「それは、でも、私にはクレアがいて」


「お嬢様を好きな気持ちも、お嬢様にお仕えする気持ちも、何も変わりません。言いませんでしたか? お嬢様が私を捨てない限り、私はお嬢様のものだと」


「……うん、聞いたけど」


「ただし!」


 私が強めに言うとびくっとお嬢様が不安げに肩をすくめる。その頬に手を添え、吐息のかかる距離まで顔を寄せると、お嬢様が緊張に顔を強張らせた。


「あまり私を甘やかすと、キスマークくらいじゃ済まないかもしれませんよ?」


 ひぁ、と可愛い悲鳴を漏らした主人の頬にちゅっと一瞬のキスをして、私は彼女の制服の着付けに戻った。


「はい、できましたよ。そろそろ出ないと間に合わないのでは?」


「……アニーのバカ」


「では、私をクビにしますか?」


「やだ」


 そう言うとお嬢様はぱたたっと慌ただしく戸口へ駆けていく。学院には私も付いていくのだけど、今は並んで歩くのが恥ずかしいらしい。と、扉に手をかけたところでぴたりと動きを止めたお嬢様がおずおずと小さくこちらを振り返った。


「……クレアには内緒だから。あと、私からは絶対しないから」


 それだけ言うと逃げるように出ていってしまった。

 クレアラート様に内緒、というのはまぁ、わかる。けれど「私からはしない」というのは、もしかして。


「……私からならいい、なんて都合のいい解釈、させないでくださいよ」


 深読みしすぎているのだろうか。でも、それを口にした時の恥ずかしそうなお嬢様の表情が忘れられない。

 まったく、どうやら私が惚れた相手は想像以上に厄介な人らしい、と。わかりきっていたはずのことを、再確認させられた私だった。

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