番外編

EX01:しるし

 ――クレアは可愛い。


 忍び込んだ空き教室で、前世の学生のように制服のまま床に座り込んで壁に背を預けるクレアを横目に見ながら、目下最大の悩み事が頭をかすめた。


 学院で過ごす一年目も終りが近づいた今日このごろ、前期末のダンスパーティーから引きずっていたあれやこれやらがようやく片付き、残るはいくつかの事後処理と今後の身の振り方について考えることくらい。それだって、陛下やユベルから既に協力の約束を貰っているので「身の振り方」といっても本当に純粋に、私とクレアにとって一番良い形を考えるだけでいい。


 卒業まではまだ二年ある。将来について考えることは多いが、急ぎというわけでもない。ということで私とクレア、ついでにあのパーティーでのいざこざに関わったユベル達の周囲の騒がしさもようやく落ち着きを見せ、私達は相変わらず目立つ立場ながらも、なんとか学生らしい生活リズムに馴染み始めていた。


 いたのだけど。

 クレアが可愛いのである。


「クレアは可愛すぎるわ」


「っぐ、ふっ」


「大丈夫!?」


 隣でお弁当をつついていたクレアが噎せこんだ。口の中身を吹き出すような真似は彼女のプライドによってどうにか阻止されたが、無理に抑えこんだせいで涙目になって咳き込んでいる。しばらく背中を擦ってあげるとようやく落ち着いたのか、何度か深呼吸したクレアが未だ若干涙目のまま私を睨みつけた。


「けほっ……な、何ですの藪から棒に」


「え、何が?」


「何がって、その、わ、私がかわ、可愛い、とか、あの……うぅ」


「可愛い」


「真顔で言わないでください!」


「っていうか私、声に出てた?」


「無意識でしたの!?」


 完全に無意識だった。私が頷くとクレアは呆れたように半目で私を睨んでくる。が、その頬と耳はまだ薄っすらと赤い。


「私は心配なの。こんなに可愛いクレアがどっかの悪い男とか悪い女とかに引っ掛けられないか」


「何を言い出すかと思えば……私には、エルザがいるではありませんの」


 ふいと顔を逸らしながらもチラチラとこちらを窺いながらそんな可愛いことを言うクレア。今までだったら可愛い可愛いと抱きついて頬ずりするところなのだけど、今の私の心配の種はまさにコレなのだ。


「それよ」


「どれですの?」


「その可愛い顔、すっかりトゲの抜けた柔らかい物腰、優しい目つき……それを学院中の獣どもが目撃してるのよ! クレアによからぬことをしようと企む輩がいたらどうするの!」


「……いまのエルザ以上の獣はいない気がするのですけれど」


「私はいいのよ!」


「淑女としてせめて否定してくださいまし」


 などと言いながらやっぱりどこか満更でもなさそうに微笑むクレア。だから! その顔が、獣共をその気にさせるんだってば!

 そう、私の目下の心配とは、私と婚約し、交際を始めたクレアが、密かに学院の中で人気急上昇中だということだった。


「だってクレア、昨日も男子に誘われてたじゃない」


「……どうしてエルザが知っていますの?」


 クレアが胡散臭そうな顔で私を見るが、この件に関しては私は無実なので堂々と理由を述べる。


「リムちゃんから聞いたのよ」


「まったく、あの子は余計な気を回すんですから……」


 クレアはそう言うが、私にとっては全くもって余計ではない。しかもリムちゃんに聞いたところ、ここひと月ほどの間だけでもクレアに何らかの形で誘いをかけた男子(および少数ながら女子も)は一人や二人ではないらしいのだ。


 クレアに私という公認の恋人がいることは、もちろん学院内、どころか生徒たちを通じて王都内の貴族にとってはもはや常識レベルで浸透している。けれど、恋人や婚約者がいるからといって言い寄ってくる者がいなくなるかといえばそんなことはないのが貴族社会である。


 もともと政略結婚の多い貴族の恋愛事情というのは結構なレベルで爛れている。結婚や婚約は家同士のもの、と割り切って愛人を囲ったり、夫婦ともに別の恋人がいるのを互いに黙認したりするのはそう珍しい話ではない。もちろんそれらの多くは恋愛関係になかった二人が家の都合だけで結婚した、或いは結婚後に夫婦仲が冷めた場合のことであるからあれだけ劇的な告白を披露した私達には当てはまらないと考えるのが大多数ではある。


 が、愛人や二人目の恋人、婚約者とは別の交際相手がいることが珍しくもなんともない、という価値観はなかなか厄介なのだ。


 私とクレアの関係自体は認識していても「それはそれ、結婚前に一度くらい遊んでおいてもいいんじゃない?」などと思う人間が全くいないかといえば、悲しいかないないとは言えないのが貴族というものだった。


 そんな「貴族の常識」の真っ只中にあって、最近のクレアの人気は驚くほど高い。


 元々その美貌は王国随一と讃えられていたクレアだが、そのキツイ性格に加え「エルトファンベリアの箱入り娘」という立場から気安く声をかけられる相手ではなかった。それがあのダンスパーティーと私との婚約を経て、相変わらず気位は高いながらも性格はすっかり丸くなり、陛下公認とはいえエルトファンベリア本家の意向を無視した婚約破棄と直後の婚約によって本家の一人娘として家に守られる立場ではなくなった。


 気難しい高嶺の花だった彼女が、手の届くかもしれない場所まで降りてきた、そう思われるのも無理からぬ事ではあるのだ。


「心配なさらなくとも、全てお断りしていますわ」


「断って引き下がってくれる相手ばかりじゃないかもしれないでしょう!」


 くわっと噛み付くとクレアが露骨に面倒臭そうな顔をしてため息をつく。むぅ、どうやらまだ事の重大さが伝わっていないらしい。

 どう言ってクレアに今以上の警戒を促そうかと難儀していると、不満げに口を尖らせたクレアがぼそっと呟いた。


「……というか、それを言うならエルザだって」


「私?」


 クレアの口から漏れた私の名前に目をしばたかせると、クレアは不機嫌そうにフンと鼻を鳴らした。


「私という相手がいるというのに、エルザに近づこうとする輩が多すぎますわ。今日も昼食に誘われていたではありませんの」


「……クラス違うのになんで知ってるの?」


「エルトファンベリアの目に、学院で見えない場所はありませんわ」


 ちょっと得意げだった。


「というか、お昼誘われただけだよ? しかも女の子だったし」


「私だって女ですわ。それともエルザは、女の私の愛は殿方に劣るとでも仰いますの?」


「そんな訳無いでしょ、私のクレアへの愛は誰にも負けない自信があるもの」


「では相手が女性だからといってその気がないとは言えませんわね?」


「それはそうだけど……でも考えすぎじゃない? クレアと違って私は今までと何か変わったわけでもないし」


「貴女、私に散々可愛いと言っておいて、ご自分がどのように見られているかまるで理解していませんのね」


「どうって……」


「ダンスパーティー以来、エルザの人気は急上昇中ですのよ。特に女生徒たちの間で」


「へ?」


 初耳の情報に思わず口を開けてクレアを見返してしまう。


「人気が出る要素あったっけ……」


「ありまくりですわ」


「ありまくりなの?」


「ええ。そこらの殿方より情熱的な告白、恋人を庇って陛下に喧嘩を売る胆力、男性顔負けの洗練されたリードを見せたダンス。一度貴女と踊りたいと想っている女性は十や二十ではききませんのよ?」


 ……知らなかった。

 改めてそう私の言動を列挙されると前世の価値観でいうところのイケメン女子的な振る舞いをしていたようにも見える。女子目線だと同性でも異性でもない絶妙な枠に入る存在、に近いかもしれない。


「でも心配いらないわ。私はクレアひとすじだもの、誰に言い寄られたってクレアが心配することはないでしょう?」


「……貴女、さっき自分が私に言ったことまるっと忘れていませんこと?」


「だってクレアは可愛いから心配で」


「そっくりそのままお返ししますわ」


 むむ、私のことはいいのだ。どうせクレア以外眼中にないのだから、目移りなんてしようもない。それより、クレアにたかる虫どもをどうやって追い払うか考えないといけないのに。


「……そうだ!」


 私の閃きになぜか警戒するように身を引くクレア。失礼な、素晴らしい名案を閃いたというのに。


「――ね、クレア」


「な、なんですの?」


 後ろ手をついて私から距離をとろうとするクレアの肩をしっかり掴んでぐいっと身を寄せる。あとほんの数センチでキスができる距離まで顔を寄せると、クレアがぎゅっときつく目を瞑った。その艶めく唇に吸い寄せられそうになる――けれど、私の目的はそこではなく。


「ん、ちゅむ」


「っあぁ!?」


 顔を寄せるだけで甘やかな香りの吐息を吐き出す唇よりもずっと下、クレアの白い首筋に深々と口づけると、クレアの口から驚きと、そしてどこか色を漂わす声がこぼれた。


「んん、ちゅぅ」


「やっ、ちょっ、える、ざ」


 口づけた首筋を強く吸い上げるとクレアの身体がびくりと跳ねる。肩を掴んでいた手を下へ滑らせて両腕を抑え込み、ほとんど反射的に私から逃れようとするクレアの身体をしっかりと縫い止めた。


「ちゅずっ、ぢゅぅ」


「やぁっ、えるざ、音、が」


「ん、ふむ、ちゅ」


 音を立ててクレアの肌を吸い立てる。そのたびにクレアの全身がびくびくと跳ね、吸い付いている喉が震えた。クレアの細い喉の奥のこりこりした感触がつぶさに唇に伝わってきて、私はその形を確かめるように口づけたまま舌先でもクレアの喉に触れる。


「ひぁぁ!?」


 再び上がるクレアの嬌声に私の心臓が高鳴る。もっと聞きたい、もっと私の口で、クレアの声を引き出したい。クレアの香りで霞んだ思考が、ひたすらに眼の前の彼女の首を吸い上げろと私を突き動かす。


「――っ、いい加減になさい!」


「ああ、もうちょっと……」


 クレアの喉に夢中になりすぎて緩んでいた私の腕を逃れたクレアが飛び退くように私から身を引いた。思わず追いすがるように手を伸ばすと、その手をがしっと掴まれる。


「ひ、日の高いうちから、いきなり何をするんですの!」


「……クレアに、ちゃんと私のだって印をつけようと思って」


 先程まで私が吸い付いていたクレアの首元にはハッキリと赤い痕がついている。……前世では当たり前に知っていた行為だけど、この世界にもキスマークって言葉はあるのかしら?


「印って……」


 クレア自身には見えない位置だったが、先程までの私の行為と視線で、なんとなく自分の首筋に付けられた痕がわかったのだろう。クレアは上気した顔のまま、若干涙目になりつつ首元を押さえる。


「こんな……っ、恥ずかしくて人前に出られないではありませんの!」


「大丈夫、むしろどんどんみんなに見せつけてあげて。クレアに集まる悪い虫を追い払うためにつけたんだから」


「っ、まったく、まったく! もうっ!」


 動揺と羞恥の行き場がないのか、クレアは未だ真っ赤な顔のままばしばしと私を叩いてくる。ちっとも痛くないどころかじゃれてるみたいで幸せである。


「――っこの」


 勢いに任せてクレアが私の首筋に顔を寄せる。負けず嫌いの彼女の反撃を予感して、私は敢えて抵抗せず受け入れる。私には虫よけは必要ないと思うけれど、クレアが自発的にキスマークつけてくれるならもちろん拒否する理由なんて――。


「ぃひっ!?」


 首筋にじくりと痛みとも痺れともつかない感覚が走って思わず閉じた口から声が漏れた。ぱっと身を引いたクレアがにんまりと笑えば、口の端にちらりと犬歯がのぞく。ほんの一瞬の接触だったにも関わらず、尾を引く甘い痺れに、クレアの触れた首筋からじわじわと熱が全身に広がるような錯覚を覚えた。


「お返しですわ」


「……クレア、もしかして噛んだ?」


「印には違いありません」


 痺れるような感触の残る首元に軽く触れれば、クレアのキレイな歯並びを想起させる規則正しい凹凸が指先に感じられた。


「これに懲りたら少しは自重というものを覚えて――」


 クレアが言い終える前にがしっとまた両腕を掴む。今度は逃げられないよう、さっきよりもしっかり。


「……え、と。エルザ」


「じゃあ、今度は私の番だよね?」


「いえあの、わ、私の印はさっきもうつけられましたし」


「うん、印はもうつけたよ」


「で、でしたら、もう必要ありませんわよ、ね?」


「印はもういいの。クレアに噛まれたの、すっごい気持ちよかったから今度のはそのお返し」


「いえ、私はそういうのは結構で、ひゃっ!」


 少し強めにクレアの首筋に歯を突き立てればクレアから反射の悲鳴が漏れる。犬歯を食い込ませる感覚は吸血鬼にでもなったようで、私は歯を立てたまま先程よりも強く口全体でクレアの肌を吸い上げる。唇だけで触れるより大きく開いた口からは、クレアの肌を吸うたびにじゅずるる、と音が漏れた。そのたびにクレアが「んぁ」「ひぐ」と可愛い声を上げるのがたまらなく愛おしくて、私は飽きることなくクレアに吸い付いた。


「やぁ、エルザ、いけません、こんな、こんなの」


「じゅずずっ、んふ、ふむっ……っは、どう? きもちい?」


「っ、それは……」


「じゃあ、もっとするね?」


「まだ何も言って、ひゃあ!」


「んふ、ひもひいい?」


「こんなの、こんな、ことでなんて、んっひ!?」


 ……このあと、午後の講義をまるごとサボって首筋を吸い合っていた私達を発見したアニーにこっぴどく説教されることになるなんて、私達には知る由も無かったわけで。

 お互いの匂いと味に酔いしれた私達は、時間も忘れて互いの首筋を貪ったのだった。


 ちなみに、翌日、未だ残るキスマークだらけのまま登校した私達を見て以来、軽薄に私達に声を掛ける者は減ったのだが……今度は二人一緒にいるたびに何かを期待する視線を感じるようになったのだけど、それはまた別の話――よね?

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