前夜
Side:Hero
可能な限りの準備は整えた、と思う。
侍女たちを下がらせ、執務室のものより一回り小さい私室の事務机に向かいながら、この一週間に俺と、共同戦線を張る仲間たちがしてきた準備を振り返る。
わざと目につく場所で俺とマリーが逢瀬を重ね、それを根拠とした噂を侍女たちが立てる。学院側から最初の接触を受けたドールスが教諭を牽制し、俺の友人たちには真相の一部を明かし協力を求めた。
一週間という限られた時間、それぞれパーティーの参加者としての準備もある中ではよくやったと思う。最終日の今日には既に噂は学院全体に拡散されたと見ていいだろうし、俺が声をかけた面々だけでなく、ドールスやエルザベラ嬢のツテでも味方を作ることが出来た。
計画の打ち合わせをしていた時間を除けば一週間に満たない期間での成果としては上出来だろう。
……それでも不安になるのは、何も積み重ねた準備に自信が持てないからではない。これはきっと、どれほど入念な準備を行ったとしても振り払えない類の不安に違いない。
久しく味わっていなかった緊張と焦燥と高揚が絡み合う感情に、どうにも気が高ぶって落ち着かない。この感覚は、婚約者との顔合わせだと突然に告げられた日の茶会以来かもしれない。
自然、その時のことを想起する。
緊張を隠すのは得意だったが、自分と同世代で自分と同じように感情を制御し、表情を繕える人間をまだ見たことがなかった当時の俺にとって、クレア――あの頃は当たり前に呼んでいた愛称だ――との出会いは衝撃だった。完璧な所作、完璧な言葉遣い、それでいながら媚びる笑顔どころか微笑み一つ見せず、一切の感情を表出させない、一つ年下の少女。令嬢としてあまりに出来すぎているが故に、どこか人形のようだったその少女を、俺は驚きとともに受け入れ、そして、いまにして思えばきっと、とても気に入っていた。
ああ、自分と同じだ、と。
与えられた義務と役割のために生きることに疑問を挟まない人間。生まれた瞬間に定められた運命を決して拒絶しない、責務を生きる理由に出来てしまう人間。彼女とならきっと、理想的な王と王妃であれる、そう思った。
これは推測に過ぎないが、おそらくクレアの方も同じような感想を抱いたのではないかと思う。自分の役目を果たすためのパートナーとして、これ以上無いほどに最適な相手だと思った。能力の問題ではなく生まれながらに持ち合わせた性質の問題として、感情よりも義務を優先できる相手なら信用できると思った。
それがどれほど悲しい間違いか、互いにまるで気づかないまま俺達は正式に婚約を結んだ。
月日は流れても、俺達の関係はまるで変わらなかった。穏やかに、緩やかに、衝突がない代わりに欠片の歩み寄りもないまま。義務だけで繋がった関係の無味簡素さにまるで意識を向けないまま。
そうして俺が、次いでクレアが社交界に足を踏み入れ、やがて俺はマリーと、クレアはエルザベラ嬢と出会う。……その先は、もはや思い出すまでもない。
俺は間違いを受け入れた。何より俺自身がそうしたいと、そうすべきだと思った。俺たちは時に、義務よりも感情に従ってもいいと思った。
だがクレアはそれを受け入れなかった。その点については、俺は本当に婚約者失格だった。婚約者という立場にありながら、彼女が義務に忠実なのをいいことに彼女の在り方にまるで気づいていなかった。
まさか自分が心から欲するものを眼前に差し出されてさえ、背負い続けてきた名前と義務を捨てないとは思わなかった。そんな俺の愚かな盲目さが現状に繋がっているというのなら、咎を負うのは彼女ではなく俺であるべきだ。
いつぞやエルザベラ嬢に突き付けられた言葉を思い出す。
『貴方は惨めにもクレアに捨てられるのよ』
彼女は正しい。俺が彼女を捨てるのは間違っている。捨てられるべきは、役目を果たそうと必死だった婚約者の覚悟を軽んじてしまった俺の方だ。
ならばこそ、明日の計画に失敗は許されない。
責任の所在を明かし、愛情の向かう先を示し、すべてをあるべき、正しい形に戻すために。
* * *
Side:Heroine
「……リーナ、どうしたの?」
「え?」
いつものように私の部屋のベッドでかわいいあくびをしたティーを寝かしつけていると、眠そうに目をこすりながらティーがふわふわした口調で突然そんなことを言い出した。抽象的な質問に首を傾げると、ティーが半分閉じかかった目でぼーっと私の顔を見返しながら繰り返した。
「なんだか、こわい顔、してる」
「え、ええ? 怖い、ですか」
「うん……なんか、ぴんってしてる」
「ぴん……?」
「ぴんって、ぴん……んん」
眠気が限界にきているのかティーはほとんどうわ言のような調子で同じ言葉を繰り返す。そんな状態でも繰り返すからこそ、どうやら本当に今の私が「ぴんってして」見えているらしいことはわかるのだけど……なんだろう、ぴん。
「リーナは、だいじょ、ぶだよ。ぴんって、しなくても……ぅん」
「……ん、わかったよ。ティーがそう言うなら、大丈夫だね」
「んん、だいじょうぶ、だい、んー……」
もぞもぞと何度か寝返りを打ったと思ったら、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。どうやら眠気に屈したらしい。穏やかに寝息を立てる愛らしい妹の額にそっと唇を落としてから、私も緩く彼女を抱くようにして並べた枕とティーの燈色の髪に鼻先を埋める。
ふわりと香るのは髪色と同じ太陽のような匂い。その匂いに気持ちがほぐれていくのを実感してようやく、ティーの言う「ぴん」の意味を理解した。
「緊張、してたのかな」
明日の本番を思えば、張り詰めるなというのも私には難しい話だ。エルザ様やックレアラート様ならこの類の緊張には慣れっこなのかもしれないけれど、私は未だに、お茶会やパーティーの席には毎回緊張してしまう。……いや、今回に限っては、きっとお二人も穏やかではいられないだろうけれど。
ぴん、とティーが形容したように、きっと私は自分のうちにあるものが溢れてしまわないようにと張り詰めていたのだろう。ティーの優しい匂いのおかげで、緩やかにその緊張がほどけたのは有り難い。正直、今夜はゆっくり眠れる気がしなかったから。
明日の本番、果たして私に出来ることがどの程度あるのか正直わからない。明日の舞台で大立ち回りを演じなければならないのはエルザ様とユベル様、そして事情をお伝えできていないクレアラート様の三人だった。
だからといって私が何もしない理由にはならないけれど、実際に事がどのように運ぶかはクレアラート様と、そして会場に集まる学院生の皆さん次第だ。私の取るべき行動、言うべき言葉もそれによって変わるのだろう。だから、ここに至っては事前に用意できるものなんてない。
私は、正しいと思ったことをするしかない。
「大丈夫。きっとクレアラート様を救える。ユベル様も、エルザ様も、アニーさんもリムちゃんも、ドーラセント様も、みんながあの人を助けたいと思っているんだもの」
言い聞かせるように呟いた言葉に、ティーがくすぐったいのか「んん」と身動ぎした。あぶない、起こしちゃ可哀想だし、私も眠らなくちゃ。
「りーな、がんば、て……」
「……あはは。うん、お姉ちゃん、頑張るよ」
寝入りしなに見た私の顔が不安げだったせいか、それとも今の独り言が浅い眠りの中に届いてしまったのか。ティーが私の腕の中で激励の言葉をくれた。
そうだ、こんなことで立ち止まれない。この子の未来を守るために、これから私はもっとたくさんの無理を通さなくちゃいけないのだから。
大切なライバルを救えないなんて、そんな泣き言は言えない。……もう言わない。
「必ず、成功させるわ」
勝負は明日の夕刻。今は英気を養う時だ。
腕の中の暖かさに今だけは甘えて、私は重くなってきたまぶたを閉じた。
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