悪役令嬢、刻み込む

「――離してください」


 硬い声でそう言われて、思わず身を引きそうになるのをこらえて、クレアの腕を掴む手にぎゅっと力を込めた。


「嫌よ、いま離したら、クレアはまた逃げてしまうでしょう?」


「逃げたことなどございませんわ」


「嘘、だってここ最近ずっと」


「私には!」


 私の言葉を強く遮ってクレアが声を張る。背後から様子をうかがっていたユベルと割り込むべきか判断しかねてオロオロしていたマリーも、そして遠巻きにこちらの様子を窺っていた野次馬たちも、クレアの強い声音に静まり返った。


 その場に居合わせた人間の数からは不自然なほどの静寂の中、私とクレアの間の緊張が伝染したように、誰もが呼吸の音さえ抑えようとしているみたいだった。


「……私には、貴女にお話することなどございませんわ」


「私は、貴女に話したいことがたくさんあるわ。大事なことも、他愛ないことも、クレアと全部話したい。話せないことまで無理に話せとは言わないわ、だからせめて――」


「くどいですわ」


「――っ」


 せめて友人としての会話くらいは、と。その希望を最後まで言い切ることさえ、今のクレアは許してくれない。


「ああ、いえ。一つだけ、貴女に聞いておくべきことがありましたわね、エルザベラ・フォルクハイル様」


「……なにかしら、クレア」


 他人であると告げる呼びかけに、友人として応じることで抗う。クレアはわずかに眉をひそめたが、その呼びかけについてはそれ以上追及してこなかった。


「風の噂に耳にしたのですけれど、貴女、私と殿下の婚約に異論があるとか?」


「異論、というか」


 婚約そのものに、良いとか悪いとか、そんなことを言うつもりはない。クレアが心底からそれを望み、それがクレアの幸せになるなら応援しただろう。

 けれど私は、この婚約がクレアの幸福になるとは到底思えない。ただの推測じゃない。ゲームでのクレアとユベルを知っていて、主人公であるマリーが介入する以前から、二人が互いの将来に家族という幸福を諦めきっていた事を知っている。


 これまでは、それでもクレアが望む幸福の形にこの婚約が不可欠ならば、と応援してきたけれど。今はもう、無理だ。


「異論は、あるわ」


「……そう。一応、聞かせて頂けますかしら?」


「欲しくないものを、傷ついてまで手に入れなければならないほど、その義務は大切? 私には、それが貴女の心を守る以上に大切だとは思えないわ」


「心ですか。フン、以前にも貴女はそんなことを仰っていましたわね」


「そうよクレア、だからもうこんなこと」


「その心とやらを信じた結果が王女への鞍替えでは、何の説得力もありませんわね」


「く、鞍替え? 違うわクレア、私は貴女のために」


「言い訳は結構です。これ以上、交わす言葉は持ち合わせていませんわ」


 ……届かない。私がどれほど想いを込めても、今のクレアに私の言葉は届かない。憎々しげに、私の肩越しのマリーを睨むクレア。ちらりと背後を窺えば、マリーも退くことなくクレアを見返していた。


「……渡しません。絶対に」


 クレアが何か呟いたが、それは私やマリーに向けられたものではなかったのか、ハッキリとは聞き取れなかった。


「クレア、お願いだから逃げないで、私の話を」


「もう結構ですわ」


「待ってよ」


 慌ててもう一度クレアの腕を掴む。前回と同じように強引に振り払われないよう力を込めて握る私に何か言おうと口を開きかけたクレアだったが。


「クレアラート様」


 張りのある声で名を呼ばれたクレアはピタリと動きを止めた。


「本当に守りたいものに背を向けては、いけません」


「っ! あ、貴女に何がわかるというのですか!」


 マリーの言葉に激しく噛み付くクレアに驚く。私にはマリーの言葉の意味がよくわからなかったが、クレア自身には思い当たる節があったらしい。

 本当に守りたいもの? 確かにクレアがこうまでユベルの婚約者の地位に固執するのは少し前までの、それこそあのデートの頃の彼女からは想像しにくい。とはいえ王族からの婚約破棄となれば家名にも疵がつくわけで、それを恐れたが故の行動であれば一応筋は通る、と思っていたのだけど。


 マリーの口ぶりでは、それらとは別にクレアにとって「守りたい」何かがあるということで。ユベルの婚約者であろうとする理由は、その何かにあるのだろうか。そしてマリーは、それが何だか知っている、のだろうか?


「ご自分に嘘をつかないでください。貴女が守りたいのは、手放したくないのは」


「黙りなさい!」


 クレアの金切り声が静まり返った廊下に反響する。


「クレ――」


「不愉快ですわ。これで失礼させて頂きます」


 困惑する私の隙を突いてクレアは私の手から逃れると、今度こそ振り返らずに立ち去ってしまった。


「…………クレア、どうして」


 私の手から文字通り逃げ出していった温もりに、急速に指先が冷えていくのを感じて、私は彼女が消えていった廊下の角を見つめることしかできなかった。



* * *



「……っ、ぐす」


 よく我慢した、方だと思う。

 角を曲がった先に人気がないのだけを確認して、私はずるずると壁に背を預けてその場に崩れ落ちた。じわりと滲んだ涙を、もう堪えることはできない。人目が無いなら、堪える理由もない。


「エルザぁ……」


 ぐっと、制服の内側に忍ばせた硬い感触を握り込みながら、せめて声を漏らさないように唇を噛む。今はこれだけが、私の支えだ。


 エルザの手を振り払いたくなんてなかった。その手に縋り付いてしまいたい誘惑に、この短い時間で何度駆られたことだろう。


 それでも、今はまだ、そうすることはできない。

 彼女が私よりもあの女に付くというのなら、そのことに価値を見出し、私よりもあの王女を王妃に相応しいと推すのなら。私の価値が、我が家の価値が、それを上回ることを証明してみせる。

 もう二度と、私の隣を離れるなんて考えないように。


「いっ」


 人目がないのをいいことにぐしぐしと乱暴に涙を拭った腕に鈍い痛みが走って、なんだろうかと制服の袖をまくると、そこにはうっすらと赤くアザのようなものができていた。


「これ、は」


 思い当たる原因は一つ、先程のやり取りの中で二度、エルザに腕を掴まれたことだ。

 私が悪意を持ってマリーナの腕につけた傷跡ほど酷いものではなかったが、見間違いで済まされるようなものではない。ハッキリそれと分かる程度には、そのアザは私の白い腕に浮き出ていた。


「…………っ、ぐ」


 ぐぐっとその跡をもう一方の手で強く握り込む。痛みに声が漏れ、顔をしかめたが、歯を食いしばって耐え、その分もっと指を深く沈ませた。

 指を離せば、そこには先程よりも鮮やかに赤く腫れた私の腕があった。

 よかった。これならしばらくは残るだろう。アザが薄まれば、何度でも自分の手で上書きしよう。エルザがつけてくれた傷を、失くさないように。


 エルザと私がまだ繋がっていると思える証は、消せない。


 赤く腫れた腕を口元に押し付け、傷だけが理由ではない熱を唇で感じ、エルザに触れた残り香でもないものかと鼻から大きく息を吸って。


 虚しいと震える心を、意識の外へ追い出した。

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