悪役令嬢、振り払う

「クレア」


「……殿下」


 思わぬ人物に呼び止められて、私は声のした方へ訝しむ視線を向けた。

 ツカツカと足音を立てて歩み寄ってくる殿下の纏う空気は剣呑なものを多分に含んでいて穏やかな雰囲気とは無縁だったが、私は恐怖や怯えよりも奇妙な新鮮さを覚えていた。思い返せば、彼がこれほどハッキリと私に対して何らかの感情を強く示したのは初めてかもしれない。

 関係が希薄というか、薄く引き伸ばした平坦なものだったから。言葉や感情に尖ったものや激しい波はなく、穏やかな関係だった。


 それがここしばらく、距離を置かれているのは感じていた。元々普段から親しく接していたという訳ではないけれど、最近は輪をかけて接触を拒まれている。

 学院ですれ違う際に挨拶をすれば、これまでは軽く社交辞令を交わすくらいはしていたところを「ああ」の一言で済まされ。何度かあった夜会でも形式的なエスコートはするものの、ダブルデートの時に感じた気安さはどこへやら、二人でいる限りは決して口を開かない。


 それ自体は、私にとって別段どうということはない。むしろ互いに煩わしい気遣いを取り払ったと思えば気が楽でさえある。ただ、それが今のこのタイミングであるということが、私に一抹の不安を抱かせていたのも確かだ。


 ユベルクル殿下とマリーナ王女の接近。


 少し前から信憑性を度外視した噂として囁かれていたそれが、ここ最近ではいくらかの説得力を持って再度広まりつつある。ただの噂であるのなら根も葉もない、と切って捨てれば済む話だが、完全に事実無根では無いことは私だって察していた。


 殿下が私を避けるのは、私への悪感情というよりも周囲への意思表示だろう。すなわち、ユベルクル・ヴァンクリードとクレアラート・エルトファンベリアは婚約者ではあるが、親密な関係ではない、と表明しているのだ。考えの不一致か、あるいは別に寵姫がいるのかと、殿下の態度は次なる噂や憶測を呼び、その根底にある私達の不仲説は説ではなく事実であると拡大解釈されるようになっていく。


 そんなに、あの女がいいのだろうか。


 怒りよりも呆れを覚える。人柄や容姿に対する好みはそれぞれだからとやかく言うつもりはないが、この婚約は惚れた腫れたなどという軽率な考えによるものでないことは互いに了承しているはずだった。王家と有力貴族、その関係性を悪化させてまで選ぶ価値がマリーナという人間にあるかと言われれば、私の個人的な感情を差し引いても「ないない」と顔の前で手を振れる。

 しかし現実には、どうもそちらに傾倒しているらしい婚約者を、私は何とか繋ぎ止めなくてはならず……この剣呑な空気は、私にとって良い展開にはならなそうだと、私は小さくため息をついた。


「どうかなさいましたか? わざわざお声がけいただくなんて」


「……マリーに怪我を負わせたそうだな」


 愛称ですか。少なくとも表向きいち令嬢であり友人でしかない相手を当たり前のようにそう呼ぶのは、何も彼が愚かだからではないのだろう。それくらい、声を荒げこそしないが勢い込んで衆目の前で私を問い詰めようとするくらい、彼にとっては一大事だったようだ。


「不幸な事故ですわ。お引き止めしようと手を取ったのは褒められたことではなかったかもしれませんが、それだけです。マリーナ様も気になさっていないのでは?」


「……よくも、そうあっさりと言えたものだ」


 いっそ感心するぞ、と嘯く殿下には無言で微笑みを返す。私が事故と言い張れば、当事者であるマリーナのいないこの場でそれ以上キツく追及することは難しくなるはずだ。それに、なにも嘘というわけではない。少し痛めつけてやろうとキツく手首を握りはしたが、痕が残ったのは予想外だった。どちらかといえば、手にしていた弁当らしきバスケットを取り落とさせることの方が本来の目的だった節もある。そういう意味では怪我と呼べるほどの痕を残したのは想定外であり、事故と呼んでも差し支えないはずだ。


「ご用件はそれだけですの? では、誤解が解けましたら私はこれで――」


「待て」


 物理的に引き止められたわけではなかったが、ほとんど条件反射で私の身体は動きを止めた。王族の言葉に逆らうのは、良識ある家の娘なら決してしないことだ。


『バカ王子』


 ……こんな時に何を思い出しているんだ、と自分の頭に浮かんだ言葉を振り払う。王子の言葉に歯向かうどころか、そんな恐れ知らずな発言をぶちかました彼女とは、もうしばらく口をきいていない。それどころか視線すら合わせていなかった。

 なんだか、彼女と並んで講義を受けていたのが、遠い昔のように感じられた。


「……まだ私に御用ですの?」


「マリーには近づくな。これ以上は俺も、学生である以上に学院を運営する王家の一員として、介入せざるを得なくなる」


「まぁ、そのような……ですけれど、私とマリーナ様の間には本当に取り立ててお話するようなことはありませんでしたのよ? それなのに、私を一方的に遠ざけるおつもりですか?」


「怪我を負わせた事実がある」


「ですからそれは事故だと申し上げましたわ。必要なら、正式に謝罪も致します」


 謝罪くらい、何の痛手にもならない。頭を下げる屈辱を呑み下すだけで彼女への攻撃を継続できるなら安いものだ。なにしろこれは私と彼女の根比べ。音を上げて、学院を去った者が婚約者の座を諦めることになるのだから。


 あの女さえ追い出してしまえば、殿下の婚約者として相応の地位に到れるのは私以外にいなくなる。そうなれば、あとは自然と元の鞘に収まるだろう。そもそもこの婚約は、私なんかとは違う、我が家の総意として示されたものなのだ。他家の介入など、そうそう許しはしない。


「謝罪、か」


 私の考えを全てとは言わずとも見透かしているのだろう。殿下が歯噛みしつつ私を睨んだ。ああ、これはもう完全に敵視されているわね、と。振り切った敵意にいっそ清々しさすら覚えた。


「それでも不足ですか? ですが何度も申し上げている通りあれは不慮の事故ですの。マリーナ様にもご理解頂いているはずですわ」


「そうだな。少なくともお前を責めるようなことは言っていなかった」


「では、問題ございませんね?」


「……ああ」


 そう応えた殿下の視線は、先程までの敵意のこもった刺々しいものから、冷静にこちらを観察するような、どこか肌寒さを感じる冷ややかなものに変わっていた。


「今回は不問とする。……だが覚えておけ。まだ愚行を重ねるつもりなら、それはお前と家の名に残る瑕疵となるぞ」


「ご心配なく。我が家はそんな小さな疵ひとつで傾くほど弱くはございませんわ」


「お前は――」


「クレア!」


 振り向いた。思わず、それはやはり条件反射で。意識するよりも先に、その声の主を探していた。


 見つけた。


 その姿を視界に留めて、勝手に溢れ出そうとする涙をこらえる。ダメだ。いまはダメだ。今日まで何度も繰り返してきた言葉を声に出さないまま自分の内側で言い聞かせる。

 泣いてはダメ。話しかけてはダメ。これ以上目を合わせてはダメ。

 取り戻すんだ。今度こそ絶対に失くさないように。そうすれば、きっと。


「ユベル様! クレアラート様!」


 その女の隣ではなく、私の隣に。

 離れがたく絡みつこうとする視線を無理やり引き剥がして、私は殿下への礼もそこそこに身を翻した。


「待って!」


 がしっと、痛いくらいの力強さで手首を掴まれて。つんのめるようになった身体をぐっと引かれて。文句の一つも言ってやろうと振り向いて――後悔した。


「やっと、こっち向いてくれた」


 ああどうして。私の隣にいない貴女が、私を見てそんな風に笑うのだろう。

 全てを収めるまではと決めたはずの決意が、簡単に揺らいでしまう。それくらいにその笑顔は私にとって強烈な光だ。


 眩しすぎて、堪えたはずの涙がまた滲んでくる。

 それでも。


「――離してください」


 今はまだ、その時じゃない。

 掴まれた手を、私は強引に振り払った。

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