三令嬢はすれ違う

「……はぁ」


「マリーナ様」


「あ、エルザベラ様……」


 待ち合わせていた中庭に到着するなり、溜息をついているマリーを見つけて声をかければ、私が近づいていたことに気づいていなかったのか、マリーは少しぼんやりした目で私を見返した。


「すみません、お恥ずかしいところを」


「……そうですね、クレアなら厳しく言うところですが、最近は貴女もお疲れでしょう。私から言えるのは、不用意に油断した姿を晒すことは御身のためになりませんよ、といったところですかね」


 私の返答にマリーは力なく微笑む。精彩を欠いた表情に、少し私の胸も痛んだ。


「それじゃお話を、っ痛!」


 居住まいを正そうと座っていた椅子に手をついたマリーが、思わずといった風に声を上げた。


「マリーナ様!」


 慌てて駆け寄ると、気にしないでともう一方の手で制された。


「す、すみません、気にしないでください。ちょっと料理中に痛めただけで……」


「見せてください」


「あ、ちょっと」


 嫌な予感を覚えた私は、ほとんど反射的に彼女が引いた方の手を取った。無作法だ、などと気にしている余裕もないままに制服の袖をまくり上げれば、そこにはくっきりと残った指の痕があった。大きさからして男のものではなさそうだったが、その代りに指の痕だけでなくご丁寧にくっきりと爪の痕まで残っていて、わずかに血の滲んだ痕跡まで見えた。


「……これのどこが、料理中の怪我なんですか」


「え、と……重い鍋を取り落としそうになって思わず力いっぱい支えた、とか?」


「疑問形な時点で説得力がないことは自覚してらっしゃいますね?」


「うう」


 悪戯が見つかった子供のような反応だったが、実際のところ彼女が悪いわけではないのは百も承知だ。にも関わらず自分が悪いとでも言いたげな振る舞いをする彼女に、むしろ私の方が申し訳なくなった。……本来なら、私は責めるのではなく謝るべきだったのに。


「この怪我は、クレアが?」


「――はい」


 誤魔化しきれないと諦めたのだろう、マリーは居心地悪そうに頷いた。


「朝の厨房外で、私が出てくるのを待ってたみたいです。手をきつく握られて、思わずお弁当を落としてしまいました」


 成長しませんね、と笑う彼女は気丈というべきか健気というべきか。お昼時だというのに手ぶらで待ち合わせ場所にいたのは昼食がダメになったかららしかった。

 口にしたことで空腹を思い出したのか、あるいはただの偶然か、マリーのお腹が小さく「くぅ」と鳴って、彼女の頬にサッと朱が差した。


「……私のものをお分けしますわ」


 アニーが持たせてくれた軽食入りの小さなバスケットを差し出すと、マリーは恥ずかしそうな小声で「ありがとうございます……」と呟いた。遠慮すれば私が不機嫌になるだろうことを察したのだろう。



* * *



「だいぶ直接的になってきましたね」


「他人事みたいに言うんですのね」


「なんだか、不思議な感じなんです。毎日責められて罵られて、こうして怪我もしているのに……会うたびにクレアラート様の方が憔悴しているように見えるんです。なんだか、私の方がいじめているみたいな気がしてしまって」


 苦しそうに眉根を寄せてそう言う彼女は、本当に怪我の方は気にしていないらしかった。どちらかといえば、いま口にしたとおり自分のせいでクレアが苦しんでいることの方が気にかかっているように見える。

 自分にむき出しの敵意をぶつけてくる相手に対してこんな顔が出来るなんてやっぱり主人公は違うな、と思いはしたものの、彼女がこうまで苦悩しながらも事を荒立てないよう気を配っているのは私が協力を頼んでいるからだ。その後ろめたさもあり、なんとなく彼女の表情を直視できなかった。


「エルザベラ様が気にすることはありませんよ?」


「……お見通しですのね。いつの間にそんなに目ざとくなられましたの?」


 見透かされた気恥ずかしさからか、つい言葉がそっけないものになる。けれどマリーは単にそんな対応を気にしていないのか、あるいは町娘時代の経験からなにも気にしていないのか、彼女はむしろどことなく気持ちのいい様子でくすりと笑った。


「別に、人の気持がなんでもわかるなんて、そんなことじゃないですよ。ただ、私なら気にしちゃうかもしれないな、って思っただけです」


「お人好しですのね」


「でも、エルザベラ様だって否定なさらないじゃないですか」


 ……どうも、買いかぶられているらしいと感じる。私は別に、人の痛みに敏感で、敵対する人間の痛みにまで悲しい顔が出来る人間じゃないんだけどな。むしろ自分ではその真逆だと思っている。自分にとってどうでもいい相手のことは、サッパリ切り捨ててしまえるような、そんな人間だと思っている。


 私は主人公じゃない。手を伸ばせる範囲は人並みに凡庸で、それならその目いっぱいをクレアのために使いたいと思ってしまうような、そんなどこにでもいる我が儘令嬢だ。


「これ以上は、お互いにとっていい話にはなりませんわ」


「そうですね」


 マリーはもう一度くすりと笑いを漏らすと、すっと表情を引き締めた。


「クレアラート様ですが――」


 彼女の言葉に私も真剣に耳を傾ける。

 この会合はあの朝、私とマリーの間で交わした約束の一つだった。定例会のようなもので、クレアに避けられている私では知ることが出来ないクレアの様子を、ある意味いまの彼女を最も間近で見られるマリーを介して教えてもらうための場だった。


 いじめや嫌がらせの内容をつぶさに思い出すことになる時間はマリーにとってもキツいものがあるはずだったが、彼女はそれを感じさせない淡々とした、けれど真剣な調子でクレアの様子を語ってくれた。


 遠目に見ていることしか出来ずにいる私にもわかるくらい、最近のクレアはやつれている。決して弱みを見せまいとする彼女は決して視線を下げず、ひどい顔色も化粧で隠していて、彼女と親しい人間でなければ変化には気づかないだろうが……いつも彼女を目で追っていた私にはその変化はあからさまと思えるほど明白で、矢面に立っているマリーも同じように感じているようだった。


「顔色をいくら取り繕ってもわかりますよ。声にいつもの張りがありませんし、目はどこか虚ろというか……私を見ているようで、もっと別のなにかを見ているようで」


「なにかって」


「そこまでは。ただ、彼女の目は私を傷つけたいというよりも、そうすることで何かを繋ぎ止めようと必死な感じがしました」


「殿下でしょうか?」


 そうだろう、と半ば確信を持って言ったが、マリーは首を傾げた。


「どうでしょう。確かに最近のユベル様は、クレアラート様と以前にもまして距離を置いていらっしゃいますけど、クレアラート様が気にしているのがそのことかどうかは」


「他に貴女を攻撃する理由がありますか?」


 クレアがマリーを蹴落として守れるものが在るとすればそれはユベルの婚約者という地位だけだ。それ以外にマリーと衝突して得るものがあるとは思えない。


「……無くはない、と思いますよ」


 先程に続き、予想とはズレた反応が返ってきて、叩こうとした手が空振ったような感覚を覚える。


「クレアラート様が私にキツく当たるのは確かに、ユベル様の婚約者としてだと思います。でも、婚約者の地位を守りたいのか、と言われれば違う気がするんです」


「どうしてそう思うんです?」


「勘です」


「……そうですか」


 即答されて私はそれ以上の追求を諦めた。

 確かにマリーの言う通り、あるいはクレアの目的は婚約者そのものではなくそれよりも先にあるのかもしれない。しれないが、それが何であるかを知る方法は今の私たちには存在しない。

 以前のようにクレアと日常的に話せていれば聞く機会もあるかもしれないが、敵視されているマリーと距離を置かれている私では……どうすることもできない。


 ならば少なくとも「クレアの目的」が「ユベルの婚約者であり続けること」とそう遠くないだろう、と決めて手を考えるしかないのだ。立ち止まって考え込むには、もう時間がなさすぎる。

 そう気持ちを切り替え、私はマリーと本格的な作戦会議に入ることにした。



* * *



「あれは……」


 珍しい二人組を見かけて、リメール・ケヴルは思わずお使いの足を止めた。

 彼女の主人であるクレアラートお嬢様の友人であるエルザベラ嬢と、目下のところクレアラートが激しく敵視している相手であるマリーナ王女。使用人であるリムが気軽に話しかけられる相手ではないが、それぞれの立ち位置ゆえにリムも何度か近くで接し、いくらか言葉も交わしたことがある間柄だった。


「――、――」


「……!」


「――――」


 廊下から見える中庭の一角から、さすがに会話の内容までうかがい知る事はできない。幼くして一通りの侍女仕事を身に着けているリムではあるが、さすがに読唇術は専門外だ。


「……でも、なんだか仲良しさんですねぇ」


 エルザベラがマリーナの手を取って真剣な顔で何事か話しかければ、マリーナは気恥ずかしそうに目を逸らし、エルザベラが呆れた様子でため息をつく。

 気安さとは少し違っているがそのやり取りに遠慮や建前が挟まれているようには思えず、親密でなくとも信頼を感じさせる雰囲気だった。


 二人の人柄を見知っているリムは、エルザベラはもちろんのこと、主人の手前があって口にすることはないがマリーナについても悪い印象は持っていなかった。


 単に彼女の言動が悪人に見えなかった、というのもあるが、そもそも主であるクレアラートをよく知るリムにとって、彼女が心底からマリーナを嫌っているわけでないのはよくわかっていた。彼女の主は、嫌いな人間と興味のない人間に対しては徹底的に存在を無視するのだ。突っかかっていくということは、それだけ彼女がマリーナという人間に興味を示しているということの現れだった。


「仲直りの相談でしょうか……?」


 当の主人と、中庭の二人は現在、お世辞にも良好な関係とはいえない状態にある。主の心の内を全て見通せるわけではなかったが、それでもリムは二人と自分の主が完全に互いを嫌い合って衝突、あるいは離別しているとは思えずにいた。


 クレアラートの側がそうであるのと同じく、エルザベラとマリーナもまたクレアラートを嫌ってはいないはずだという確信がリムにはあった。

 根拠を言葉で説明できはしなかったが、仲の良かった主とエルザベラ、よく衝突しながらも嫌い合ってはいなかった主とマリーナをずっと見ていた彼女には、それを疑う気にはどうしてもなれなかったのだ。


「リムではありませんの。そんなところで何をしていますの?」


「ミリエール様」


 主の数少ない友人に声をかけられて、リムは中庭の二人へちらりと目をやってから振り返った。隠すつもりも無かったが、リムが何か言う前にミリエールはその視線の先に目ざとくも気がついていた。


「……あの二人」


 にわかに表情を険しくしたミリエールに、リムは本能的に「失敗したのでは」という不安を覚えた。


「リム、あなたこれからお姉さまのところへ戻るのですよね?」


「は、はい」


「私も一緒に行きますわ」


 使用人の立場で「厄介ごとの気配がするので嫌です」などと言えるはずもなく、リムは首を縦に振った。もちろん、ミリエールも悪い人間ではなくクレアラートを本気で慕っている良き友人だとリムも理解している。ただ。


(なんだか元気すぎるのです……)


 元気すぎるとは、まだ幼いリムなりにミリエールの思い込みの激しさと極端な物言いを指した言葉であり、学院では同僚のような関係にあるアニエスあたりが聞けば「言い得て妙ですね」と頷くような指摘であった。

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