4章
悪役令嬢、追想する
世の中は複雑に出来ているようで、実際のところ突き詰めればシンプルだ。
どんなことにも原因と結果があり、あらゆる物事は誰かにとっての是か非かによって決定され、その結果誰かが幸福を得て誰かが不幸になる。
上か下か、右か左か。要するにそれと同じことで、突き詰めればあらゆる選択は二択になり、未来と過去は因果で示される。常に二つ。考え方はシンプルならシンプルなほどいい。
幸か不幸かを選ぶなら誰だって幸を選ぶ。私もその例に漏れない。好きなものや望むものを手にしたいから、そのために必要なことを是か非かに選り分けて選択していく。簡単なことだ。
私がエルトファンベリア家の令嬢であればあるほど、父は私を褒めてくれた。周囲も私を認め、礼を尽くし、贈り物をした。
私が少しでもお転婆だったり、なにか出来ないことがあって家に相応しくないと思われると、父は私がどれだけ泣いて叫んでも出来るまで口を利いてくれず、周囲の誰もが「エルトファンベリアに生まれながら」と陰で私を蔑んだ。
どちらがより望ましい「私」なのか、なんて。そんなのは誰が見たって明らかだった。だから私は選択した。エルトファンベリアの令嬢であることを。誰よりもその地位に相応しく、誰よりもエルトファンベリアらしく在ることを自分に課した。
出来ないことがあれば人目を忍んで努力し、出来る姿だけを人前に見せ続けた。水面下で藻掻く自分を高慢な言動で必死に押し隠して、誰の目にもつかない場所にしまいこんだ。
私にとって「出来ない私」は自らを不幸に引きずり込もうとする悪魔のような存在で、私自身にとってさえ「出来ない私」は疎ましい存在になっていった。どうして私という人間の中に、エルトファンベリアの人間に相応しくないそんな不出来な存在がいるのかと声を荒げたくなった。努力が実を結ばず形にならず結果に残らなかった時、何度自分の首を絞めたくなったかわからない。
――――私は幸せになりたい。
シンプルな世の中で私は私に出来る最善を選んできたはずだ。是非とは言い換えれば出来るか出来ないかであり、出来ないよりは出来る方がいいに決まっている。だから常に「出来る」方を、出来るようにすることを選んできた私の人生に間違いはない。そのはず、なのに。
どうして私は今、こんなにも幸せを遠くに感じるのだろう。
* * *
その少女を初めて見た時に抱いた印象は、決して悪いものではなかった。容貌美しく所作に品あり、少々地味な出で立ちではあったが身にまとう服飾のセンスも良く、上品でありながら親しみやすく、けれど他者との間に一線を引き容易には踏み込ませない。
誰もがその人格と品格を認め、それでいながら敵も味方も必要以上に増やさない、いわば貴族としては珍しい「慎ましさ」にも似た雰囲気を持つ、そんな令嬢だった。
ただ、似ている、とは欠片も思わなかった。
むしろ、ああこの人物とは相容れないな、とそう確信したくらいだった。
それほどまでに、エルザベラ・フォルクハイルという人間は私にとって徹頭徹尾「ライバル」であったのだと思う。
いつの間にか同世代の令嬢たちの中で抜きん出た存在と扱われるようになった私が、初めて対等以上の存在と認識したのが彼女であり、その器用さは私に無いものだった。
例えば華やかさや、令嬢として求められる技術で競うならば私が勝てる自信はあった。
一方で会話を自分に有利に運ぶ技や、観察眼では彼女に軍配が上がるだろう。私が気づかない細やかな変化や出来事に彼女はよく気づき、それを一つのきっかけとして相手との関係を運ぶ術に長けていた。
誰をも敵視しない彼女だったが、意見を言わない訳ではない。
私が他の令嬢たちや時には年嵩の大人たちに棘を放てば、その私に噛み付いてくるのは彼女だった。彼女だけだった、というのが正確だろう。
「また貴女はそうやって。少しはお控えになられた方が、ご自身のためにも良いのではありませんか」
「貴女こそ、私に噛み付いている暇があったら下々のお友達との時間をお作りになったらよいのではありませんこと? どうやら貴女は私のように高貴な者より下々のご友人との関係の方が大事なようですから」
「……全く貴女は。いつも申し上げていることですが、私は地位や立場を問わず皆様のお人柄とお付き合いさせて頂いているだけですわ」
「私とあの者たちを対等に扱うとは、私への侮辱と受け取ってよろしいのかしら?」
そんなやり取りも、一度や二度ではなかったと思う。良くも悪くも、私たちは互いに無視のできない存在だったのだろう。少なくとも私にとってはエルザベラという少女は他の令嬢たちと並んでいてもまるでそれらを背景に浮き出しているかのように見えるくらいに、私の目には特殊に、特異に、そして特別に映っていた。
* * *
……たとえこの身がお傍にいられない時も、私の心はクレア様の元に。そんな気持ちを込めた――お友だちの印、ですわ。
そう言われた時、私の理性は警鐘を鳴らした。令嬢たらんとする私は、この言葉にどんな裏があるのだろうかとその真意を探ろうとした。
ただその一方で、その言葉に心のどこかが悲鳴に似た軋みを上げたのもきっと、事実だった。
私ですら無自覚だった声を彼女は一体どこまで見透かしていたんだろうか、と時折考える。全てを見通した上で私の心を掴むように動いていた気もするし、何一つ見えていないのにただただ私の心情を推し量り、慮ってくれたのではないかとも思える。
いま振り返ってわかることは、彼女の意図がどうであったにせよ私の心はそんな彼女に救いを求め、そして事実救われていたのだろうということだけだった。
だから、忘れていた。
私に心なんてものがあることで得をする人間なんていないのだということを。
私が私であることを望み、喜ぶ人間などいるはずがないということを。
誰よりも私自身が身に沁みて理解していたはずのことを、忘れていたという事実。それを、私は突き付けられることになるのだ。
* * *
「……どういう意味ですの?」
「で、ですから、エルザベラ様は信用ならないのですわ! あの方はお姉さまの味方ではございませんの!」
「ミリー。私は貴女を友人と思っていますわ。ですが友人なら何を言っても許される、というのは酷い思い上がりだとは思いませんこと?」
「はひっ?」
びくっと肩を跳ね上げたミリーだったが、それで引き下がりはしなかった。その目には、決意にも似た色が宿って見える。あれは……使命感、だろうか。
「お、お姉さまがあの方を特別に思ってらっしゃるのは存じていますわ。ですが、だからこそ私の見たものについてお話ししなければならないと思いましたの!」
「……聞きましょう」
お説教は事情を聞いた後でも出来る、なんて思っていられたのは最初だけ。ミリーが一言告げるたびに、自分の顔から血の気が引き、背筋が冷たくなっていくのを感じた。
「ですから、エルザベラ様はお姉さまが殿下の婚約者でいることを快く思っておられないに違いありませんわ。決して、あの方はお姉さまの味方ではございません!」
「…………嘘、ですわ」
そんなはずがなかった。ミリーの目は真剣で、私に強く意見することに微かに震えているのは、彼女がそれだけの覚悟を持っていま私の前でその報告をしているのだと示している。付き合いの長い彼女のことはわかっている。下らない嘘のために、これほど真剣な目が出来る人間ではない。
それが意味するところは一つ。
彼女の報告に、嘘など一つもないということ。
「信じませんわ、エルザが、そんな」
それなのに。まだエルザの心に縋りたいと思う私を打ち消せない。あんなにも私を理解してくれていると思っていた彼女が、私の令嬢としての最大の価値を否定するなら。
彼女が否定した私を、私はどうやって肯定できる?
じわりと滲む黒い絶望に、冷静な私が語りかける。
だから言ったはずだ、と。友情を示されたあの時、理性が鳴らした警鐘になぜ耳を傾けなかったのか、と。心などという不確かなものに従って、自分の令嬢としての価値を貶めた。そんな私は、もはや「出来る」私とは程遠い。私の望んだ私を、いつの間にか放り出していたのだと。
ああやはり、心を預けられる友人など、所詮は――。
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