if : 婚姻10年目、あるいは王妃と妹の秘めざる秘め事

※警告※

今回のお話には浮気、不倫に類する内容が含まれます。それらに抵抗のある方は回避することを推奨致します。なお、例に漏れずif回は本編とは何ら関係ありませんので、このエピソードを読み飛ばしても本編を読む上で不都合はございません。


おk?


* * *


 陛下と私の関係は複雑だ。


 元々血を分けた兄妹で、それがちょっとしたゴタゴタの末に元兄妹なだけの赤の他人になり、そして今度は縁戚関係の変化によって義理の兄妹になった。


 よって私、ティセリア・ツェレッシュにとって義理の兄であるユベルクル・ヴァンクリードはこの国の頂点たる国王陛下である前に、複雑な血縁関係で結ばれた「お義兄さま」ということになるわけだ。


 兄妹とはいえ、彼と文字通りの兄と妹として過ごした期間は私が生まれてからのほんの数年間だけで、正直兄としての彼の姿は殆ど記憶にない。そうでなくとも当時の私はあのクソ親父……もとい、便宜上叔父上と呼んでいた男のせいでいつ心が擦り切れるとも知れない毎日を送っていたのだ。ほとんど接点のなかった兄が自分にとってどんな風に映っていたかなんて、覚えているはずもない。


 だいたい十年以上も前のことだし、当時のことは思い出したい記憶でもない。なにか一つを思い出したことが呼び水になって、嫌な記憶を芋づる式に引きずり出すような目に遭うくらいなら忘れたままでいた方がずっと心に優しいと思う。


 ともかくそんな幼少期を過ごした私と歳の離れた義兄さまは、私に二人目の姉が出来たことでもう一度関わりを持つことになった。


 ……あの頃のことは、義兄さまとの過去に比べてとても鮮明に覚えている。もちろん物心ついた私の記憶自体がハッキリしつつあったことも理由ではあるけれど、それより何より、一つ一つの大切な思い出を、私は当時から現在まで、日々反芻しているのだ。


 思い出にほころびや滲みが生まれないように、いつも思い出して、記憶の劣化を予防する。わざわざそうしようと意図しなくたって、私の頭は勝手にリーナ姉さまとの思い出を繰り返し再生したから、姉さまに関わる思い出は他の何よりも多く、鮮明に脳裏に焼き付いている。今だって目を閉じれば、すぐに優しく微笑む姉さまの顔が浮かんでくる。


 姉さまとの記憶はもはや、思い出す、なんて過程を踏むまでもなく私の頭と心に染み付いている。中でも特にハッキリと覚えているのは……私の額にそっと落とされた、柔らかい唇の感触だ。


 あれから十年。私は十六歳になり、リーナ姉さまは二十六歳に、そして王位を継いだ兄さまの妻として王妃になった。


 形としては姉さまがツェレッシュ家を離れて嫁ぐという形式を取ったけれど、二人の図らいで私たちツェレッシュ家は王家の親類として相応の地位を認められ「王妃の生家」としては標準的な、つまり貴族としては王国筆頭のエルトファンベリアに並ぶ格を与えられることになった。


 住居は王城の外れの屋敷から王城の塔をまるごと一本貰うという形に落ち着き、ザルツ兄さま、レア姉さまと私の三人は揃ってお城に移り住んだ。住む場所自体は別にどこでも気にしなかったけれど、リーナ姉さまが家族と離れ離れになりたくないと言ってくれたのは僥倖だった。

 ツェレッシュ家に与えられた塔のすぐ隣に並ぶもう一本の塔には国王夫婦の私室が設けられており、私たちは衛兵の簡単なチェックさえ受ければいつでも会える距離にいられることになったのだ。……まぁ、子供の頃のように寝ている姉さまのベッドに忍び込めないのは残念だけど。



* * *



「リーナ姉さま!」


「ひゃっ」


 私は廊下の死角から飛び出し、姉さまの腰に横から抱きついた。


「も、もうティセリア、急に飛び出してくるなんて危ないじゃない。びっくりしたわ」


 と、口では私を嗜めるようなことを言いつつも、姉さまは頬を緩めて私の頭を優しく撫でてくれる。薄い絹の手袋越しに触れる手の感触がもどかしく、それでいて慈しむような手付きは心地よく、不思議な気持ちになった。


「それに外ではちゃんと呼んでって、何度も言っているのに」


「だって私にとって姉さまはずっとリーナ姉さまなんですもの。姉さまも私のこと、いつものようにティーって呼んでくださればいいのに」


「ティセリアったら」


 仕方ない子ね、と口元を軽く手で隠して小さく笑う様子はすっかり一流の貴婦人然としていて、彼女が生まれてから十六年間城下でどこにでもいる町娘として暮らしてきたと言ったところで誰も信じないだろうと思うくらい、その所作は滑らかだった。


「それにしても偶然ね。今日はどうしてここに?」


「ザルツ兄さまのところへ行く前に荷物を置きにきましたの。そうしたら遠くに姉さまが見えたから、驚かそうと思って……あの、迷惑、でした?」


「そうねぇ、急に飛び出してくるのは危ないからダメよ。貴女が怪我をするかもしれないんだから」


「うー」


「でも、こうして偶然ティセリアと会えるのは嬉しいわ」


「姉さま!」


 実に甘い裁定によって無罪を勝ち取った私は改めて姉さまに抱きつく。すぅー……うん、今日も姉さまは素敵な香りがするわ!


 ちなみに私は嘘は言っていないけれどここで姉さまと会ったのは別に偶然でも運命でもない。王妃の一日の予定はお付きの侍女や人の出入りを管理する衛兵には事前に伝わっており、彼らからちょーっと情報を分けて貰えばこの通り、私がいても不自然でない場所で、偶然を装って姉さまに会うことはそうそう難しくない。王城に住めてよかった!


「……コホン」


 と、不意に苛立たしげな咳払いが私と姉さまの幸せな時間に割り込んできた。


「ああごめんなさい、ユベル。忘れてたわけじゃないのよ? ティセリアと会えたのが嬉しくてつい、ね?」


「あらユベル義兄さま、いましたの」


「初めからいたんだがな」


 おっと割り込んだのは私だった。でも自重しませんとも。


 姉さまに向けていた笑顔を即座に引っ込めた私がジト目でそちらを見れば、抱き合う私達の隣に所在なさげに佇むユベル義兄さまがいた。姉さまは突然の私の登場で本当に意識していなかったみたいだけど、もちろん私は最初からわざと無視していた。お邪魔虫には当然の対応でしょ。


「……ティセリア、元気そうだな」


「おかげさまで」


 姉さまに抱きついたままの姿勢で、つまり密着している姉さまからは私の表情が見えない角度で、私は「んべっ」と舌を出す。一国の国王にこんな態度を取る人はいないのだろう、義兄さまが頬をヒクつかせて乾いた笑いを漏らした。


 別段、私は義兄さまを嫌っているわけではない。リーナ姉さまと紆余曲折あって婚約したあとも、ツェレッシュ家とも懇意にして地位向上に努めてくれたし、一方でエルトファンベリアを筆頭とする古参貴族とも上手く付き合って国を安定させている優秀な義兄は、国民として、貴族として、あるいは妹としても誇らしいくらいだ。


 でも、例えどれほど彼が立派な王であっても、私からリーナ姉さまを取り上げたのが誰か、考えるまでもなく明白なその答えを、私は一日たりとも忘れていない。そんな私にこの義兄に対して愛想よく、なんて言われても無理な話だ。無理というか「嫌よ」って即答できる。


「ティセリアはいつまで経ってもユベルには他人行儀ね」


「姉さま、ですから私のことはティーと」


「ダメよ。こういうのは日頃から気をつけておかないと、つい口に出てしまうものなんだから」


「……義兄さまのことは、ユベルって呼ぶくせに」


 私の呟きに姉さまの頬にさっと朱が差す。「いや」とか「それは」とかもごもご口の中で何か言っていたけれど、多分無意識だったのだろう。恥ずかしがる姉さまも、そんな姉さまを微笑ましいものを見る目で見守る義兄さまも、なんだか不愉快だ。


 姉さまは人目のあるところや公式の場では義兄さまを「陛下」と呼んでいるけれど、オフの時にはわざわざそんな他人行儀に呼ぶ必要はない。特にいま私達のいる王城の居住区は出入りする人間も限られており、多少気を抜いた姿を見られるくらい誰も気にしない。まぁ、だからこそ私も人目を気にせずこうして姉さまにくっついていられるわけなのだけど。


「ほ、ほらティセリア、そろそろザルツ兄さまのところへ行かなくていいの?」


「……はぁ。わかりました。可愛い姉さんに免じて今日のところは誤魔化されてあげます」


「あぅ」


 私に全部見抜かれていると察した姉さまが呻く。図星を突かれて肩を落とす様子すら愛らしく見えるんだから、姉さまは本当にずるい。私より十も年上なのに、子供の相手をしているような微笑ましさを感じさせる。


「義兄上によろしく伝えておいてくれ」


「嫌です。ご自分で兄さまに仰っては?」


「……俺はあいつに恨まれているんだ」


 社交辞令的な挨拶を突っぱねると義兄さまは渋面を浮かべた。もちろん知ってて言ったのだけど。

 ザルツ兄さまも私とは違った意味で義兄さまに厳しい。本人は絶対に認めないけれど、あれはどこからどう見ても「長年のライバル家に娘を取られた父親」の反応だった。心底義兄さまを嫌っているわけじゃないのは見てればわかるけれど、事あるごとに問題にならない範囲でちくちくと義兄さまを小突く兄さまの目は「妹を不幸にしたら殺す」と如実に物語っていた。そんなプレッシャーを隠そうともしないものだから、義兄さまも苦手意識があるらしい。ふふん、いい気味ね。


「ティセリア、あんまり陛下に冷たくしちゃダメよ」


「姉さまが言うなら」


「もう」


 苦笑いを浮かべつつ、ようやく腰から剥がれた私を姉さまはもう一度そっと撫でると義兄さまと連れ立って立ち去――りかけたので慌ててその袖を引いた。危ない、忘れるところだった。


「あの、姉さま!」


「どうしたの?」


「その、今夜、なのですけど」


 じわり、と緊張が滲み体が強ばる。私の緊張を察したのか、姉さまが「落ち着いて」と私の手を取って優しく両手で包んでくれた。その温もりに後押しされて、私は今日の待ち伏せの一番の目的を口にする。


「今夜、姉さまの部屋にお邪魔してもよろしいですか?」


 姉さまは拍子抜けしたと言わんばかりにキョトンとしたあと「なぁに、そんなこと?」と笑って。


「もちろん、いいに決まってるわ。待っているわね」


 と、おひさまみたいなぽかぽかの笑顔で言ってくれた。


「約束ですよ!」


「ええ、約束」


 私達は頷きあって、今度こそ別れた。

 ……姉さまたちが去った廊下に一人で立ち、高揚と興奮に支配された頭の一角に、それでもどこか冷たく冷静な自分を感じる。


 こんなやり取りもきっと今日までだ、と寂寥とともに自分を戒める。

 私と姉さまがこんな風にいられるのは、私たちが姉妹だから。その関係に混じり合う不純物が無いから、こんな風に穏やかに、幼い頃と変わらずにいられる。そうとわかっていて、それでも今のままでいたくないと叫ぶもう一人の自分に、妹の自分は道を譲った。


 そう、私は今夜、姉さまに告白するつもりだった。



* * *



 いつもなら指示を先回りする勢いで行っているザルツ兄さまの手伝いも今日はちっとも身が入らず、それどころか気づけば姉さまのことを考えながら手が勝手に適当な仕事をしていて、兄さまに怒られてしまった。

 五回目のミスでとうとう兄さまはうんざりした溜息をつき「今日はもういいから部屋で休め」と執務室を追い出されてしまった。


 そこから先も記憶が曖昧で、どうやって部屋まで戻ったのか、夕食は何だったのか、時計の長針が数周する間部屋で何をしていたのか、どれもちっとも思い出せない。


 気づけば時計の針は一般的には外出に適さない時間帯を示し、私は時折夜番の衛兵とすれ違うだけの廊下をふらふらと姉さまの部屋へ向かって歩いていた。

 国王夫婦の居住区画には夫婦で過ごす部屋以外に国王と王妃それぞれに私室が用意されており、そちらにもベッドや事務机など一通りの家具は揃っている。私は迷わず王妃の私室の方へ向かった。


 扉の上部に取り付けられた小さな小窓からは内部の明かりがちろちろと揺らめく光が漏れ、こちらの部屋で間違いなかったと私はひとまず安堵の息を吐いた。


 ノックしようと手を上げたところで、ガチャリと扉がひとりでに開き、中から既に寝衣姿のリーナ姉さまがひょっこりと顔をのぞかせた。


「やっぱりティーだった。足音がしたから、もしかしてと思ったの」


「こ、こんばんは姉さま」


「こんばんは。こんな時間だし、誰も見てないから。今は昔みたいにリーナでいいよ」


 入って、と促されて部屋に入る。初めて来るわけでもないのに酷い緊張で身体はガチガチだった。

 中へ入ると姉さま……リーナは応対用のテーブルや椅子に目もくれず、部屋の奥にあるもう一つの扉を開けて私を手招きする。そこが寝室である事を知っている私としては、それほどまでに心を許されていることが誇らしく、同時にこれから私が告げる言葉はその信頼を裏切るものになるのではないかと背筋が冷えた。


 リーナは寝室の一面を占領する勢いで鎮座する大きなベッドに腰を下ろすと、ぽんぽんと軽く隣を叩いて「おいで」と微笑んだ。場所や立場が違おうとも、あの家で兄妹四人で暮らしていた頃と変わらないリーナの様子に嬉しくなって、私は少しだけ笑った。

 でも、ベッドには座らない。隣ではなく、正面から。そう決めていたから。


「……ティー?」


 いつもなら喜んで隣りに座ってくる私がいつまでも立ったままなのを怪訝に思ったのか、リーナが私の顔を覗き見るようにして首を傾けた。


「わ、たし」


 声を出そうとして、喉がカラカラなことに気づいた。上手く言葉が出てこなくて、慌てて唾液で喉を湿らせる。


「落ち着いて。ゆっくりでいいよ」


 何か重要な話をしたがっている、と察してくれたリーナはそう言ってじっと私の言葉を待ってくれる。子供っぽいかと思えばこうして包み込むような大きさを感じさせる、そんなところも昔から変わらない、私の大好きな「リーナお姉ちゃん」だった。


「す、っき」


 好きなの、と言うつもりの言葉が、またも掠れて消えていく。聞き取れなかったのかリーナがまた首をかしげた。

 迷惑かもしれない、と思う。いや間違いなく迷惑だ。リーナには既に義兄さまというパートナーがいて、神前で愛を誓っている。そういう気持ちの部分を置いておくとしたって、王妃という立場は夫婦仲を理由に気軽に返上できるものではない。


 だから私がどんなに必死に言葉を紡いだところで、リーナは私の気持ちに応えられない。リーナが私の告白をどんな気持ちで受け止めたとしても、優しい彼女はその立場故に私の気持ちを拒否せざるを得ないことを心苦しく思うのだろう。

 私の告白は、きっとリーナを傷つける。大切にしてきた妹に裏切られたと、消えない痛みを残すのかも知れない。


 ……そうだったらいいと、思う私もいて。

 私のものにならないならせめて私の言葉で傷つけたいなんて、そんなエゴ丸出しの考えを、どうしても捨てきれない私はきっと悪人だ。


 それでも。この気持ちを知ってほしいと叫ぶ心を、もう私は無視できない。

 十年分の気持ちを、全部吐き出す。そのつもりで、私はここに来たんだ。


「――、っはぁ」


 大きく吸い込んだ息を吐き出して、私はリーナの瞳を見返した。


「聞いて欲しいことがあるの」


「うん」


 リーナは静かに頷いて、私の言葉の続きを待ってくれる。


「私、私ね」


「うん」


「私、十年前からずっと、リーナが好きなの。ずっと、好きだったんだよ」


 言った。

 言えた。

 ……言ってしまった。


 顔ごと視線をそむけたくなる気持ちを必死に奮い立たせて、せめて最後まで逃げ出すまいと必死にリーナを見つめる。彼女は少しだけ目を閉じたけれど、すぐに私の目を見つめ返して――優しく笑った。


「私も好きよ、っていうのは、きっと違うのよね」


「うん。もちろん姉としてのリーナも大好き。でも今のはそうじゃなくて、人として、女性として、私はリーナが好きで、リーナが欲しい」


「…………ちょっとだけ、そんな気がしてた」


 リーナの言葉に、今度は私が面食らう。リーナは苦笑を浮かべつつ、そのワケを語った。


「確信はなかったけどね。ティーは昔から私にくっついてばかりで、子供の頃はそれで良かったけど私が婚約しても、結婚しても、ずっと変わらなくて。なんとなく、ただ姉である私に甘えているだけじゃないのかな、って思ってたよ」


 あと身近にそんなお友達もいるし、と付け足すようにこぼした言葉の意味まではわからなかったけれど、どうやら上手く隠せていると思っていた私の態度は、リーナに違和感と疑いを抱かせる程度には不自然だったらしい。


「ごめんなさい」


「どうして謝るの?」


「だって、迷惑でしょ? 私が何を言ったって、リーナの一番は義兄さまだし、ずっと妹のフリしてリーナのこと好きで、そんな嘘つきの私なんて」


「そんな風に言わないで」


「でも」


「言わないで。私の大事な人をそんな風に言う人を、私は好きになれないよ、ティー」


 一瞬言葉の意味が飲み込めなくて、一拍置いてその意味を脳が理解した瞬間、じわりと視界が滲んだ。


「大事って、言ってくれるの?」


「もちろん、ティーは今も昔も、私の大事な人だわ」


「私、わたし、嘘つきなのに」


「こうしてきちんと話してくれたじゃない」


 どれだけ私が嫌われようとしても、逃げ出そうとしても、リーナはそれを受け止めて微笑んでくれる。


「ずるい、ずるいよリーナ。そんなこと言われたら、もっと好きになっちゃう」


「そうかも。私はずるいの。今の立場も、ユベルというパートナーも大事で、それでもティー、あなたのことだって手放したくないの」


 こんなに自分が欲張りだなんて知らなかった、とリーナは少し自嘲を混ぜて微笑んだ。


「ねぇティー。私は王妃で、ユベルの妻なの。彼を愛しているし、この国と民を愛しているわ」


「……うん、知ってる」


「そんな私が、ティーのことを今よりもっと愛したいと言ったら、貴女は私を軽蔑するかしら」


「……え?」


 リーナの表情は真剣だ。絶対に冗談の類じゃない。


「ティーに好きだって言われて、私嬉しかったよ。その気持ちに応えたいと思った。でも今の立場も捨てられないし、ユベルにも民にも顔向けできないことはしちゃいけないと思うの」


 思うのに――と、リーナは瞳を潤ませて。


「それなのに私、いまティーにキスしたいと思っているのよ」


「リーナ――」


 そんなこと言われて、止まれるはずがなかった。

 私はほとんど飛び込むような勢いでベッドに座ったリーナを押し倒して、その勢いとは裏腹にほんの少し、触れるだけの口付けを落とした。いつか彼女が私の額に落としたのと同じほんの一瞬の接触。けれど額ではなく唇と唇で交わされるそれは途轍もない熱と興奮を伴って、私の意識を激しく揺さぶった。


「ごめんリーナ。我慢できない。今だけ、今夜だけだから」


「いいのティー。今だけは、全部忘れて。私も今夜は、全部忘れるから」


 ずるい、とまた頭の片隅で思いながら。

 私は骨の髄まで溶かされるようなリーナの甘さに沈み込んだ。



* * *



「……、んぅ」


「相変わらず、朝には弱いみたいね」


「………………りー、な」


「おはよう」


 目覚めと同時に横合いからかけられた声に咄嗟に反応できず目をしばたかせる。リーナは寝衣のままだったが昔よりだいぶ伸びた髪を後ろで縛って、ベッド脇の小机に向かって何かの書類に目とペンを走らせており、私よりだいぶ早く目を覚ましていたのだとわかった。


「ユベルになんて言おうか、ティーも一緒に考えてね」


「義兄さま、に?」


 未だに状況が飲み込めない私は、寝ぼけ眼をこすりながらリーナの言葉をそのまま復唱する。リーナはそんな私の様子に苦笑して「まさか昨夜のことまで忘れてないよね?」と言った。


「昨夜……――っ!?」


 甘ったるい香り。柔らかな感触。瑞々しい肌と荒い呼吸。乱れた髪と美しい肢体。

 思い出した瞬間、自分の顔が沸騰したのがわかった。


「ごめ、ごめんなさい、私」


「どうして謝るの。私がティーを誘ったみたいなものなのに」


「うう、リーナの悪女! 女の敵!」


「……や、私も女なんだけど」


 苦笑いするリーナの顔をまともに見れない。やらかしたやらかしたやらかした! ああもう、そんなつもりでこの部屋に来たわけじゃないのに!


「義兄さまに殺される……」


 さすがの私でも王妃に手を出したなんてタダじゃ済まされないのはわかる。滅多に笑わない義兄が嗜虐的な笑みを浮かべる姿を想像して身震いした。


「ねぇティー。私はね、あなたが思っているよりずっと欲張りなの。大事なものを全部、手放さない方法をずっと探していて、何かを切り捨てることなんて出来ないの」


 リーナは立ち上がるとこちらへ歩み寄り、私の頬に手を添えてそっと視線を合わせてきた。


「きっと難しくて、不誠実と後ろ指を指されるかもしれないけれど……それでも私はユベルもティーも失くしたくない。その気持ちを偽ることが一番不誠実だと思うから、私はあなたにもユベルにも、それを隠したくない」


 その告白の、なんと欲深いことか。

 二人の人間を同時に愛するのは、世間では決して褒められた行いではない。王家の在り方の一端に後宮という文化があることも理解しているが、この国では長く設けられなかった制度だから、一夫一妻の在り方を破ろうというなら風当たりは強いはずだ。


 それに、王妃である彼女が国王以外と通じるなんて、あの忌々しい叔父やリーナ自身の祖父がした無責任な行動とどれほどの違いがあるというのだろう。他ならぬ私やリーナが、その身勝手な愛欲の果てに生まれた犠牲者だというのに。


 その過ちを、私たちは繰り返そうとしているんじゃないか。

 そう思った途端冷たい汗が背筋を伝う。けれどリーナはそんな私の不安を全て拭い去るように微笑んだ。


「大丈夫よ。あの人達の二の舞にだけはならないと誓えるわ」


「……なんで、そんなことわかるの」


「だって私は、ちゃんとティーを愛しているもの。どんな逆風の中でもあなたを抱きしめていたいと思える。だから心配しないで」


 ああ、この人は本当に、ずるい。

 ずるくて欲張りで不義理で、真面目で慎み深くて真摯だ。

 そしてそんな彼女が、私は。


「……義兄さまに、一緒に怒られてよ」


「怒られるだけで済むといいわね」


「いきなり不安にさせないでよ――っ、ん」


 思わず叫んだ私の口は、すぐさま降ってきたリーナの唇に塞がれた。唇の隙間から流れ込んでくる息が驚くほど甘くて、昨晩の光景がフラッシュバックし身体が熱くなる。


「まだ朝の支度まで時間はあるけど……もう一回、しちゃおっか?」


「っ、ほんっと、ずるい」


「ええ私はずるいの。ずるい私は嫌い?」


「…………………………大好き」


「私もよ、ティー」


 早朝の爽やかな空気を私達の熱で湿らせて。そのまま唇を、手を、そして身体を重ねる。

 これからどうなるんだろう、なんて漠然とした不安をリーナの熱が溶かしていく。私の熱が、リーナの理性をぐずぐずに溶かせたらいいと口付けを深めて。

 私達は何もかもを忘れて再び互いの心と体に没頭した。


 ――数十分後、侍女が寝室の戸をノックする音に二人揃って凍りつくまでの間だけ、だったけれど。



* * *



 そんな爛れた夜(と朝)を経た私たちが、その後何事もなく平和に暮らしました、なんて言えないけれど。


 関わったみんなが少しずつ傷ついて、互いに傷つけ会って。それでも大事にしたいものを大事にすることを諦めなかったから。


 私たちはいま、幸せに暮らしている。


 あの晩を振り返るたび、私はそんな泥臭い満足感に浸りながら、あの日のようにリーナに口付けをねだるのだった。

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