マリーナ:破 ⑩ 心の価値

 甘く見ていた、のかもしれない。彼女の力を、ではない。彼女の意地とプライドを、だ。


「……ぁ、また」


 喉奥から漏れた声は少し掠れていた。

 少し席を立っている間に私の持ち物にされている「悪戯」。筆記具が破損したり、教材の一部が紛失したり。犯人が誰かは……探すだけ無駄だと思う。同じ教室にいる誰かであり、けれど誰でもない。

 私は昔から人を疑うというのは苦手だったけれど、一方で確信できることをわざわざ疑うこともなかった。理由があろうと直感であろうと、そうだ、と確信できればそれ以上疑う必要なんて無い。


 この一件の犯人がクレアラート様であることを、私は早々に確信していた。

 彼女なら家の力を用いて誰かを動かすなど容易で、学院や教師陣にさえその力は及ぶ。犯人を見つけたとてすぐに代わりの誰かが次の犯人になるだけだろう。あるいは例の噂を耳にした人間が自分の判断で私を攻撃したのかも知れないが、その場合も原因はクレアラート様で、そしてやはり実行犯になり得るのが一人や二人ではないのだから見つけたところで意味はない。


 私は溜息をこぼして壊れた道具を片付け、持ち歩いていた手提げから最低限の筆記具を用意する。軽い舌打ちが聞こえた気がして振り返ったが、周りに着席した誰もが私とは視線を合わせようとしなかった。そのくせ、ひそひそと耳を騒がせる囁き合いは止まない。入学当初からしたら少し落ち着き始めていた私への非難の篭もった噂が、最近ではまた首をもたげていた。


 講義室内ではただ一人、少し離れた席からじっとこちらを見ていたユベル様の目つきだけが険しい。私は軽く首を横に振って「気にしないで欲しい」とだけ示すと、彼の反応を待たずに正面に向き直った。


 クレアラート様が突然こんな方法で私を攻撃し始めた意図は正直わからない。それでも彼女が犯人だとわかったのは、先日偶然に廊下ですれ違った際に、これまでとは明確に異なる強い視線で睨みつけられたからだった。


 それだけか、とユベル様には言われた。犯人と決めつけるには弱いと思うのだろう、私も客観的にはそうだと思う。けれどあの視線を受け止めた当事者であるなら、そこに疑問の余地はなく、もしかして、なんて段階を軽くすっ飛ばして確信に至るはずだ。

 あの視線は明確に敵意を告げていた。言葉はなくとも私には伝わった。


「――貴女を引きずり下ろして差し上げます」


 敵意と、憎悪と、そして焦燥だった。繰り返すけれど理由はわからない。ただクレアラート様がどうしようもなく私を追い落とそうと躍起になるような何かが、彼女に降り掛かったのだろう。

 今のところ、私はこれらの「悪戯」を表沙汰にするつもりはない。ユベル様や兄さんたちに相談すれば手を打ってくれるとは思うけれど、それはクレアラート様に背を向けることだ。


 私は彼女から逃げたくない。

 クレアラート様を見ていれば、ユベル様を取り立てて好いていないことはわかる。それでも貴族同志の婚約に後から現れて割り込むような真似をしていた私が彼女に恨まれるのは当たり前だと思うし、ユベル様への気持ちから逃げないと決めた今となっては尚の事、背を向ける訳にはいかない。


 私は、クレアラート様に認められたいのだ。


 たとえユベル様自身が私を選んでくれたとしても、彼女に認められなければきっと私は納得できない。祝福して欲しいなんて言わない。ただ、クレアラート様の立場に挑もうとする私が、それに相応しくありたいというだけ。彼女と向き合ってその地位を争える人間はきっと、こんなことで背を向けない。だから私も、受け止める。


 自己満足だとしてもシンプルでいい。いつかクレアラート様が私をライバルと認めてくれるまで、私は絶対に逃げないのだと、それだけは決めていた。



* * *



 そのクレアラート様から直接呼び出されたのは、悪戯が始まってしばらく経った頃、私にとっては傷つくよりも慣れの方が大きくなり始めた頃だった。

 同行を申し出てくれたユベル様には申し訳なかったが、私は一人で指定された教室へ向かうことに決めていた。ユベル様は万一彼女が人を使って私に気概を加えようとしていたなら一人では危険だと心配していたけれど、私は恐らく、彼女も一人で現れるだろうと思っていた。


 私に呼び出しを告げに来たまだ幼い侍女さんに必ず一人で行きます、と宣言するとちょっと困ったようなホッとしたような顔をされたけど、さてあれはどういう意味だったのか。


「すぅ――っはぁ」


 指定された部屋の前で一度大きく深呼吸して、私はそっと扉を開いた。


「……来ましたわね」


 部屋の中には、クレアラート様がお一人で、壁にもたれるようにして立っていた。私の姿を認めると彼女はどこか疲れたような表情を引き締めて目に険を込め、いつもの令嬢然とした顔つきになる。


「一人で来たことは褒めて差し上げます。私が人を集めて貴女を攻撃するとは思いませんでしたの?」


「……考えなかったわけじゃないですよ。でも、それでもきっと私は一人で来ました。こんな時に人を頼るようじゃ、貴女のお眼鏡に適いませんでしょう」


 私がそう言って微笑むと、クレアラート様は苛立たしげにフンと鼻を鳴らした。


「随分と、ふてぶてしい態度になりましたわね。殿下を後ろ盾に得て強気になりましたの? それなら態度を改めたほうがよろしくてよ。エルトファンベリアは、王家といえどもそう易易と手を出せる家ではございませんの」


「殿下は関係ありませんよ。ただ私は私として、きちんとクレアラート様と向き合おうと決めただけです」


「――っ」


 ギリ、と彼女が奥歯を噛む。流暢に出てくる言葉に私自身も驚いていた。この間まで目を合わせて話をすることさえ恐ろしかったのに、その頃と何かが大きく変わったというわけでもないのに。

 ただ向き合いたい、逃げ出さない、そう覚悟を決めて。

 その先に掴みたいものが在ると思えた今となっては、怯えて視線を合わせないことこそ不義理だと思えた。


 彼女に認められるために自分を偽るのではなく。

 彼女に認めて欲しいそのままの私で自然に振る舞う。

 それが、今の私が思う最大限の誠意の示し方だ。


「まぁ、いいでしょう。今はその態度を咎め立てするつもりはありませんわ。それで、呼び出された理由はおわかりですわね?」


「……殿下のこと、でしょうか」


「ええ。殿下にまとわりつくのをおやめなさい。貴女ごときがこの国の頂点に立つお方に並ぼうなどとそんな不相応が許されるとお思いなら、貴族社会について認識を改めていただかなくてはなりませんもの」


「嫌です」


「なんですって?」


「私は、私の意思で殿下の隣にいます。私を隣に置いてくださっているのは殿下のご意思です」


「……思い上がりもその辺りになさいませんと、恥をかくだけでは済みませんことよ」


「私はそれを恥とは思いません。自分を偽ることこそ、私にとっては恥なのです」


「っ、貴族のしきたりも知らず、よくよくそのような口がきけますわね!」


 とうとうクレアラート様が声を荒げる。けれども私は以前のように萎縮しない。むしろ心の何処かで喜んでさえいた。こんな形でも、クレアラート様と本音で向き合えていると感じたからだ。


「殿下の婚約者は私です。これは私と殿下の意思ではなくエルトファンベリアとヴァンクリードの意思と識りなさい! たかだか分家に引き上げられた小娘ごときに、この王国の繁栄のために取り決められた婚約を覆せるものですか!」


「家も、国も、私には理由にならないのですクレアラート様。私は私の心に従っています。ですからこの気持が砕かれるのは、殿下が私をお認めにならなかったその時だけです。そうなれば、私はもちろん身を引きます」


「それが甘いと言っているのです! 貴女の心ですって? そんなもの、家にとって何の価値もありませんわ。価値の無いものに人は靡きません。ツェレッシュなどという無力で矮小な家の娘に、誰が手を貸すものですか。エルトファンベリアを甘く見るのも大概になさい!」


「お待ち下さい、ですから私は家ではなく、これは私とクレアラート様の問題であると」


「私の心など問題になりませんわ!」


「!」


 ほとんど悲鳴のように放たれたその一言に、私は思わず反論をやめてしまった。激高するクレアラート様とは反対に、私の頭はスッと冴えていく。


 彼女は言った、マリーナの心などなんの価値もないと。

 彼女は言った、クレアラートの心など問題にさえならないと。


 私は今の今まで、クレアラート様は自分のものに横合いから手を伸ばされたことが気に入らないのだと思っていた。それが何であるかは関係なく、彼女が自分に並び立つ貴族令嬢として決して認められない私のような人間が、彼女の持ち物に手を出した、と。そういう意味合いでの怒りだと思っていた。


 でも、違う。これもまた確信だった。

 発言を振り返れば彼女は婚約は家の意思だと言った。それどころか自分の意思ではないとまで明言した。私の心も、自分の心も問題にならないと言った。それは、つまり。


「クレアラート様、貴女は」


「なんですのその目は。貴女ごときがどうして私を、そんな憐れむような目で――!」


 ああ、ティー。貴女のことだけを思えないお姉ちゃんを許してね。眼の前にいる少女が、大切な貴女にどうしようもなく重なってしまうことを、今だけは許して。

 だってわかってしまったのだ。クレアラート様は、クレアラートという私より一つ年下のただの女の子は、血筋と家のために心を奪われかけていたティーにそっくりだって。敵視する私の心情と、自分自身の心を、等しく無価値と切り捨ててしまうほどに、家という毒に侵されているんだって。


「……クレアラート様、貴女が本当に守りたいものは、婚約者ではないのではありませんか?」


「なんですの急に。話を逸らそうとしても無駄ですわよ。これは私の善意での忠告であって、対等な話し合いの場などと勘違いされては困ります。我が家と王家を同時に敵に回すような愚を犯すなと、私はこうして貴女に忠告を差し上げていますのよ」


「クレアラート様こそ、考え直してください! 貴女がこんなことをするのは、エルザベラ様だって望んでは――っ!」


 ぱんっ、と。乾いた音が教室に反響し、静寂が訪れる。

 咄嗟に頬を押さえた私と、右手を振り抜いた姿勢のまま怒りに燃えた瞳で私を睨みつけるクレアラート様。

 頬を張られたのだ、と気付きながらも身動きが取れず、先程までとはまるで比較にならないほどの憎悪を瞳に込めた彼女を見返すしか無い。

 怒りにわなわなと震える唇で、彼女は一言一言、ゆっくりと告げる。


「貴女が、その名を、呼ぶな」


 令嬢の仮面を取り払った等身大の「クレアラート」が、初めて本物の怒りを顕にする。


「私から、奪おうとした、貴女が」


 奪おうとした? 私が? 疑問は浮かぶけれど、口にはできない。もう一度叩かれるのが怖いわけじゃない。いま私が不用意な言葉を口にすれば、張り詰めた彼女が壊れてしまう気がした。

 乱れた荒い息を整えるまで私を睨み続けた彼女はやがて、スッと私に背を向けると、落ち着きを取り戻した声で、けれど怒りにはわずかの翳りも見せずに言い放った。


「奪わせませんわ。何があろうと、絶対に」


 それだけを告げて、彼女は振り返ることなく部屋を出ていった。

 残された私は切れた緊張の糸に倣ってふらふらとその場に座り込み、彼女が出ていった扉を見つめることしかできない。


「…………クレアラート様。貴女が本当に守りたいものは、なんですか?」


 答えのわかりきった疑問が口をついて出たのは、きっと。

 彼女自身がそれを見失っているような気がしたからだ。



* * *



 数日後の朝。

 校門で待ち構えていたエルザベラ様からの「誘い」に、私は迷わず頷くのだった。

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