マリーナ:破 ⑨ 見えるもの、在るもの

 城下へ降りる許可を得られたのは、兄さん達にお願いしたその次の休日で、手回しの早さに感心と感謝の念を覚えた。未だに見慣れない王城周辺の景色から、馬車での送迎を断って朝から歩き、城下の見慣れた風景に辿り着く頃には日はほとんど中天に昇っていた。


 急いだわけではなく、むしろどちらかと言えば緩やかな空気の変化を噛み締めながらゆっくり歩いてきたとはいえ、それだけ離れた場所に自分は身を移したのだな、と今まで漠然としていた距離を改めて噛み締めた。


「……あ、そっか」


 見慣れた町並みに足を踏み入れて、私が最初に向かったのは両親と暮らしたあの家だったのだけど。

 いつものように中へ入ろうとしたところで、家の扉が見慣れない色に塗られているのに気付き、数度まばたきをして、ようやくこの家に新たな住人がいるだろうことに気がついた。


 この家を離れて約二ヶ月。私の代わりにツェレッシュ家の使用人数名がこの家に残した私の持ち物を回収しに来ていたのも私がいなくなってから数日程度で、その後のことについては私は何も知らなかったしそのままにして欲しいとも誰かに譲るとも言っていない。眼の前の新しい生活に馴染むことに精一杯で置いてきたものを振り返る余裕がなかった、というのが真実なのだけど、いずれにせよふた月も無人の家を放置するほどこの町に人がいないわけがなかったのだ。


「そんなことにも気づかないくらい、いっぱいいっぱいだったかぁ……」


 悲しいとか切ないとか、そんな感情が沸き起こるかと思っていたけれど、実際に自分の顔に浮かんだ表情は苦笑いだった。そんな当たり前のことに気づかなかった自分が、悲壮を通り越して滑稽だった。

 ノックしてみようか、と躊躇いながらも見慣れない色の扉に拳をかざした時、扉脇の窓が開け放たれているのに気がついた。家の中の物音が隠す様子もなく聞こえてくる。

 聞くともなしに耳に届いた声に、手が止まった。


「おかあさーん」


「はーい、どうしたの」


「あのねあのね、マリアがね」


「うあー!」


「あらあら。ちょっと待ってて、いま行くわ」


「はーやーくー」


 寂しいとか、羨ましいとか、予感した感情はやはり沸いてこなくて、変わりに頭に浮かんだのはティーのことだった。聞こえてきた声はティーより幼いものだったけれど、私にとってのティーはこの穏やかな声の母親のように見守ってあげたい存在に違いなくて、そのことが寂しさよりもずっと大きな温かさを抱かせた。


「……なんだ私、結構大丈夫じゃない」


 ノックしようとした手を下ろして、私はもう一度だけその家を見上げた。よく見れば扉以外にも窓の一部が新しくなっていたり、花壇に見慣れない花が植わっていたり(そもそも私たちが暮らしていた時はそこは花壇ではなく小さな家庭菜園だった)、少しずつだけど明確な変化が見て取れて。


 ふた月前のあの日まで当たり前に私の家だった場所はもう無く、いまここにあるのは見も知りもしない、けれど王族になった私が目を向けるべきごく普通の、幸せな家だ。

 覚悟していた喪失感はなく、むしろ胸につかえていた何かがストンと落ちるべき場所に落ちたような、そんな感覚があった。


 私の帰る場所は、もうここじゃない。その確信を胸に抱いて、私はその見知らぬ家に背を向けた。



* * *



 止まることを知らないとでも言うように流れ続ける雑踏から少し外れて道の端に寄り、向かい側の店先に掲げられた看板を見上げる。木製の看板には「カロス」という店名とともに酒瓶と肉の盛られた皿の絵が彫り込まれており、通りに面したそれなりに大きな酒場であることが見て取れた。


「……こんな店構えだったっけ」


 先程見てきた家と違い、どこかが違うという明確な違和感があるわけじゃない。ただなんとなく、目の前の店の佇まいが記憶の中のそれと上手く重ならず、不思議な違和感が付きまとった。


「おん? もしかしてマリーちゃんか?」


 毎日のように通っていたはずの職場に感じる奇妙な感覚に首を傾げていると、不意に横合いから声をかけられた。


「あ、ダリオさん」


「やっぱりマリーちゃんじゃねぇか。急にお城の方に召し抱えられたって聞いて心配してたんだぜ」


「召し抱えられたというか……」


 王族の仲間入りをしました、とは冗談でも言えないなと苦笑いで誤魔化す。

 話しかけてきたのは浅黒い肌のゴツゴツした、けれど身長は私とそう変わらない男性だ。背が低いのに手足が太くたっぷりとした髭をたくわえついでにお腹も出ているのでなんというか、密度が高いというか、塊と形容するのがしっくり来る見た目の彼はダリオ・カロス。名前の通り私の職場でもあった酒場カロスを仕切る夫婦の旦那さんである。


「うん? まぁなんだ、アレだよアレ、元気そうで安心したぜ。親父さんたちがいなくなってからおめぇ、仕事中以外はずぅーっと真っ暗なツラだったからよ。その様子じゃ立ち直れたみてぇじゃねぇか」


「え……私、そんな顔してました?」


「おうよ。お城の奴らが随分勝手だってうちのかかぁもおかんむりだったがよ。そんなスッキリしたツラされちゃあ文句も言えやしねぇよ」


 思わず鏡でもないかと周囲を見回してしまったが、当然ながらそんなものはなく。自分がそんな顔をしている自覚ももちろん無かったのだけど、酒場に出入りする大勢の人の表情を見知っているダリオさんに言われては否定もできない。


「店、寄ってくだろ?」


「あ……いえ、今日は少しだけ、様子を見に来ただけなんです」


「なんだツレねぇじゃねぇのよ」


 もじゃもじゃの顔をぷうっと膨らませて不満を表するいい年したおじさんというシュールな絵にさっきとは違った意味で苦笑すると、なぜかダリオさんは不満げな表情をすっと引っ込め、変わりにニッカと歯を見せて笑った。


「心配いらねぇな。新しいウチはいいところか?」


「え」


 私が驚きに目を見張るとダリオさんはお腹を揺すって笑う。


「お城の偉いさんの事情なんざ俺らには知ったこっちゃねぇけどよ、お前さんがそうやって笑うようになったんだ、そうそう悪ぃトコじゃねーんだろうよ」


「……そうですね。素敵な家族に仲間入りさせてもらいました」


「そいつぁいいやな。今度うちに飲みにくるように誘っといてくれよ。偉いさんなら金払いはいいだろ、がっはっは」


 耳に馴染んだ豪快な笑い声に安心する。

 そんなダリオさんが何の変わりもないのを知れば、さきほどまで感じていた違和感の正体も自ずと見えてくる。お店が変わったわけじゃない。変わったのは私だ。見方が変わり、見ていなかったものに目を向けただけだ。


 ここで働いていた頃の私は、店の中では目一杯笑って、視線を上げていたけれど。朝晩に店を出入りするためにこの通りを歩く時、いつも俯いていた気がする。お店で無理をしていたつもりもなければ、道を歩く時に酷く気落ちしたつもりもなかったけれど、それはきっと無自覚だっただけで、私はこのお店の店構えなんて長らく見上げていなかったんだ。


「……奥さんによろしくお伝えください」


「おう。おめぇの新しい家族にも言っとけよ、マリーちゃん泣かしたら酒場の鬼が調理場から包丁持って会いに行くってなぁ」


「もう、ダメですよそんなこと言っちゃあ」


「なぁに、ちやほやされて育ったお貴族様に腕っぷしじゃあ負けねぇよ」


 むん、とそのごつい腕を見せつけるダリオさんとひとしきり笑い合って、店に戻るダリオさんと軽く手を振って別れた。

 未練めいたものはなく、むしろ晴れ晴れした気持ちでその場をあとにする。

 向き合ってみれば自分の気持は思ったほど複雑でも悲観的でもなく、胸に郷愁はあれども悲しみはなく――うん、うん。こうして一つ一つ向き合っていくのはきっと、別れではなく。


「マリー、か?」


「へ」


 まるで予期しなかった、けれど聞き覚えのある声に呼び止められて振り返った。そこには。


「ユベル、様」


 まさかまさか、そのまさかだった。



* * *



「…………」


「…………」


 小さな教会に人気はなく、私たちを迎え入れた神父さまもどこかへ引っ込んでしまい、静かな空間には並んで祈りを捧げる私とユベル様のかすかな息遣いだけが漂っては消えていく。

 どちらからともなく祈りのために合わせた両手が解かれると私たちは立ち上がり、教会の高い窓を見上げる。


「何か、この城下へ戻って見えたものはあったか?」


「そうですね、自分のことが少し、見えたような気がします」


 視線は交わさず、差し込む光を見上げながらそんな言葉をやり取りし、私は短く成果を報告した。

 教会へ向かう道すがら、私たちはそれぞれ今日ここにいる理由については説明しあった。ユベル様はクレアラート様、エルザベラ様にナエラディオ家のドーラセント様とご一緒に城下を巡っていたらしい。だぶるでーと、というものらしいのだけれど、あいにく連れ立って歩く男女のルールに疎い私にはよくわからなかった。


 クレアラート様を羨む気持ちも少し沸いたけれど、自分のことを見つめ直していくらか気の落ち着いていた私は、それほど心を波立たせること無くその言葉を受け入れることが出来ていた。

 自分の足下が見えるようになったから、だと思う。求めていた感覚は思いの外あっさりと私自身に馴染んでくれた。


「この教会に、お前の両親がいるのだな」


「はい。といってもここの共同墓地はそのまま共同埋葬ですから、王家の方のように立派な、それぞれのお墓があるわけではありませんけれど」


 土葬は教会裏の一角にまとめて行われていて個別の墓標はなく、教会の外にある巨大な墓碑に埋葬されている人々の家の名が刻まれているだけだ。ルクレ家の名前はお祖母ちゃんの頃から刻まれているが、あるのは家の名だけで両親の名前が直接刻まれているわけではなかった。

 だから、というわけでも無かったけれど、私はその墓碑に祈る気にはなれず、どこか遠くにいる両親を想い、教会の中で祈ることを選んだのだった。


「マリー、お前が望むなら王家の墓地に場所を用意することも出来るぞ。屍者を掘り返す訳にはいくまいが、墓標を立て、祈りの場を作るくらいなら」


「ありがとうございます。でも結構ですよ。父さんも母さんも、堅苦しいのは嫌いでしたし」


 王家のお墓なんて居心地悪くて縮こまってしまいそうです、と私が笑うと、それまではひどく気遣わしげに眉根を寄せていたユベル様の表情が緩んだ。


「その様子なら、今日この町へ降りた意味は十分にあったようだな」


「はい、とても」


 私の返事に満足気に頷くと、ユベル様からよければ視察に同行して欲しいと提案された。既に今日の目的地を巡り終えていた私は今日くらいは、と頷いた。……ほんの少し、クレアラート様への意趣返しの気持ちがなかったといえば嘘になるけど。


 そんな自分の気持をいくらか前向きに受け入れられるようになったのは、今日という一日が「私」を確固たるものにしてくれたからだろう。

 ユベル様への気持ちに向き合おうと思い、そしてそのために、まずはクレアラート様に向き合おうと思う。

 隣を歩き何くれと無く話しかけてくれるユベル様と他愛のない言葉をかわしながら、私は自分の気持ちを受け入れる。


 今までのようにそれを仕舞い込むようなことはもうしない。向き合うということは、自分の痛みからも、誰かの痛みからも目を逸らさないことだと思う。毎日通っていたお店の看板さえ見えていなかった私が、今は失くしてしまった過去の生活を振り返って笑えている。


 失った過去から逃げるのをやめたように、眼の前に横たわる問題と、その先にある不安から目を逸らすのをやめれば。それは不安であるはずなのに、見えないはずなのに、まるで実態のある「壁」であるかのように触れられる気がする。

 無いものより、在るものの方がずっと良い。向き合って、触れて、時にぶつかれるから。


 ――クレアラート様。私は今度こそ、貴女と向き合える気がしているんです。

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