マリーナ:破 ⑦ 反抗と決意

 恋とは落ちるものだと誰かが言った。


 その言葉の半分は間違いで、半分は正しい、そんな気がする。私の気持ちが恋と呼ばれるものなら、それは落ちると形容するほど衝撃的なものではなかった。ただ、気づいた時には心の端っこに小さな染みがあり、それがじわじわと広がっていくのを止めなくてはいけないのについつい見守ってしまうような、ちょっと後ろめたくも甘いものだった。


「――やはりツェレッシュ家の解体を元老院で議題に上げるのはまだ難しいか」


 口元に手をやりながら真剣に考え込むユベル様に「そうですね」と相づちを打つべきか、あるいは「それでも一部の貴族に話を通して長期的な議題として持ち込めば」と積極的な意見を出すべきか考える頭の片隅では、男の人なのにまつげ長いなぁと考えている自分に内心でちょっと薄ら寒いものを感じる。


 ユベル様と協力関係を結んで、その打ち合わせでしかなかったはずの会合で何がどうなったのか自分でもわからないうちにいたわるように頭を撫でられ泣いてしまったあの日から、こうして直接お会いするたびに自分の内側に渦巻く感情を制御するのが難しくなっている。


 あの不器用な手の温かさが忘れられない、だけではなく。聞けば笑顔を浮かべるのが苦手になった理由がどことはなしにティーの境遇を思わせるとか、そんな彼が初登校の日に中庭で見せた美しい微笑みをもう一度見たいなとか……理由や言い訳が浮かんでは消えていく。

 まぁ、気持ちを制御できないからといってどうなるものでもないのが救いといえば救いだろうか。ユベル様にはクレアラート様という立派な婚約者がいて、私が一人で想いを燻らせているくらいではどうにかなる訳もないのだから。


(……だめだめ。ユベル様は真剣に国と家を憂えているんだもの、私もティーのために、しっかりしなくちゃ)


 大事な義妹の笑顔を思い浮かべて、胸にもやもやとわだかまる感情に蓋をする。感情を抑え込むのは得意ではないけれど、ツェレッシュ家の一員として社交の場でいくらか鍛えられた精神力のおかげか、感情を顔に出さずにこらえることは出来るようになっている。ユベル様に気取られることがないように気をつけなくては。


「…………その、マリー」


「はい?」


「今日も、一口もらっても?」


 話が一段落したところで、ユベル様が遠慮がちに、しかし期待を込めた視線を伴ってそう言ってくる。寝る前のティーとのやり取りではないが、これもまたここ数日のうちにお約束となったお決まりの一言だ。私は苦笑しつつも「どうぞ」と手元の箱を差し出す。


 ユベル様が嬉しそうに目を細めて手を伸ばしたのは、私のお弁当である。

 毎朝学院の厨房の片隅を借りて作っているお弁当。お昼を一緒に食べるようになってから密かにずっと気になっていたのだ、とこちらはいつも先回りするように会合場所に用意されている、お弁当ではなく正しく昼餉といった風情の食事をつつきながらユベル様が言ったのがきっかけだった。


 そうやって場所さえ伝えてあれば食事が用意されているようなとんでもなく高貴なユベル様である。お弁当という物自体も珍しそうだったが、初めて見る庶民の家庭料理に興味津々の様子だった。よろしければ一口どうぞ、と軽い気持ちで差し出したところ「いいのか!」と目を輝かせ、あれもこれも気になると迷った挙げ句に口にした一品を、驚いた顔で咀嚼して。


「……こんな料理があるのか」


 しみじみと、そんな風に呟いていた。ユベル様のお食事には遠く及ばないでしょう、と私が言えばユベル様は首を横に振った。


「こんな風に、料理した人間を感じられる食事は初めてだ。これがマリーの料理だというのは納得だな。とても、真っ直ぐな味だ」


 料理を褒めるにはなかなか珍しい言葉を口にしながらも、それ以来物欲しそうに私のお弁当を見る機会が増えたユベル様の様子からして、気に入ったというのは本当なのだなと思う。私としても、亡き母の味でもある自分の料理を褒められて悪い気はしなかった。

 そんなわけで、最近はお弁当のおかずを少し多めに作り、こうしてユベル様に分けてあげるのが習慣になっていた。


 こうして城下で暮らしていた頃の私の一端を受け入れてもらえるのは、嬉しい。


 今の私は名ばかりとはいえ王女であり、城下に暮らす町娘気分ではいられない。振る舞いも発言も王女としてのものが求められ、しかも学院や社交界ではそのように振る舞ってなお、物珍しさからくる奇異の視線からは逃れられない。

 誰もが遠慮と好奇でもって私を遠巻きにし、私の一挙一動についてヒソヒソと囁き合う。そんな世界に放り込まれて、自分を見失いそうになることが無かったとは言えない。新しい家族は私の立場も理解してくれているが、だからといっていつまでも町娘気分でいて彼らに心配させてもいけない。


 そんな毎日を過ごすうちに、いつしか過去のものとして否定しなくてはいけないと思っていた「ただの町娘の私」を、この国で最も高貴な一人が認めてくださっているというのは、考えてみればなかなか奇妙な状態だった。


「俺たちは似合わない理想を追いかける仲間だ。地位や立場は、この場には似つかわしいものではあるまい」


 ユベル様はそう言って、事あるごとに恐縮し町娘の癖が抜けない私をまた不器用に撫でてくれる。

 お弁当を分け合うことと、少しだけ髪を乱されること。お約束になったそれが、心に出来た甘い染みを広げるたび、恋に落ちるという言葉の、半分の正しさを思う。

 ――この深みから這い上がるのは、ひどく難しい。



* * *



 覆水盆に返らず、というのは確か遠い異国のことわざだったか。盛大にひっくり返ってしまったバスケットを慌てて抱え起こしたところでその中身を元通りにはできない。当たり前のことだというのに、私はその場に座り込んだまますぐには動けなかった。

 バスケットが宙を舞うきっかけとなったもう一人、クレアラート様は既に立ち去っており、人気のない廊下には私だけがぽつんと取り残されていた。


「どうしよう」


 台無しになったお弁当という現実を前にしてやや現実逃避気味の頭を緩慢ながらも働かせようとして、自分の口から勝手に漏れた呻くような声に更に頭を抱えたい気持ちになった。


 珍しくユベル様の分を自分の分とは別に用意した日に限ってこんなめぐり合わせ、というのも運が悪いと嘆きたくなるが、それについては元々、今日は少し先約があるからと事前に聞かされているので問題にはならないと思う。お弁当は朝の私がちょっと気分が乗って追加で作ってしまったもので、ユベル様の先約については同じく今日の朝に告げられた。昼休みは一時間はあるので、少し遅めに合流しようという約束に従って、私は中庭へ向かっていたのだ。


 お昼に外せない用事とくれば食事を取りつつだろうことは想像できたのだが、作ってしまったので一応持参したお弁当。台無しになってしまったのはもちろん残念だが、いまの私が半ば自失している理由の大半は別のところにあった。


「クレアラート様には関係ないことですから」


 あまりの緊張でそんな流暢には言えなかったが、それでも自分の口からそんな言葉が出た事自体、私には驚きだった。

 言葉だけではない。あの瞬間、確かに私の胸に沸き起こった感情は激しい熱量を伴ってうねる、これまで一度たりとも感じたことのない感情だった。未知の感覚ではあったけど、半ば無意識にクレアラート様に噛み付くようなことを言った自分を客観的に見れば、その正体は自ずと見えてくる。


 嫉妬、というやつだ。


 ずるい、と思った。私の方がずっとずるいはずなのに。婚約者であるクレアラート様に隠れてユベル様とお会いしている。ユベル様への気持ちを薄々と自覚しながら、その気持を隠して密会に臨み、そのくせお弁当を食べてもらうのを楽しみにしている、そんな私の方が間違っているのは明らかだ。


 それでも思ったのだ。ずるいと。

 私との時間よりも優先されたクレアラート様との会合だとか、お休みの姿を見せるような信頼だとか――クレア様の手にも一人分の昼食を入れるにはいささか大きなバスケットがあったこととか。


 そんな一つ一つに、ずるい、悔しい、私だって、と醜くも対抗心を燃やす自分を諌められず、それどころかいつものように投げつけられた鋭い言葉に思わず噛み付いてしまうなんて。


「……なにやってるの、私」


 ユベル様のことはお慕いしている。本人にそれを告げるつもりは微塵もなくとも、その気持ち自体はもう私の中では認めたものだ。自分を誤魔化し続けるには限界がある。

 だけどその気持ちが、あんな些細なことで破裂するくらいに張り詰めていたなんて、自分でも思いもよらなかった。

 好きだけどそれだけ。その先には何もなくて、いつか先細って消えていく感情だと、そう思っていたのに。


 私が初めて知った恋という感情は、甘いばかりで幸福なんて運んでくれない。それどころか、その染みが気づかぬ間に心の大事なところまで染み込んで、知らず知らずに引き返せないところまで沈み込んでいると、今になって気付かされる。


 ダメだ、こんなの。

 誰も幸せにならない。ユベル様も、クレアラート様も、ツェレッシュ家のみんなも、そして何より私も。誰一人として、ユベル様とクレアラート様の婚約に私が割り込むことを望む人なんていない。感情を優先すれば幸せになれるなんて、そんなのはそれこそ理想論だ。

 私とユベル様には既に、無理を押してでも達すると約束した理想が在る。ツェレッシュ家を、王家を変え、やがては国すらも変えようとする綺麗事。それを汚さず、守り、果たしたいと願うなら、他の「理想」に目移りしている場合じゃない。


「……真っ直ぐ立ちなさい、マリー」


 母さんが口癖のように言っていた言葉だ。それを声に出して自分を奮い立たせる。

 自分に恥じないように生きなさいと母さんは教えてくれた。いつも背筋を伸ばして凛と立っていた母さんは言葉だけでなく行動で示してくれた。恥じるところがなければ立ち姿は自然と美しくなり、真っ直ぐに立っていようと思うなら恥じて視線を伏せるようなことは出来なくなる。


 バスケットを抱えて立ち上がる。必死に背筋を伸ばし、俯きそうになる顔をなんとか上向ける。

 真っ直ぐに立つことが辛い。いつの間にか私は、ユベル様に気持ちを隠し、クレアラート様に隠れて婚約者を好いて、そんな自分を誇れなくなっていたのだと気づく。


「なんとか、しなくちゃ」


 このままじゃいけない、と思うと同時に。

 今はせめて立ち姿だけは母のように美しくあろうと、背筋を伸ばした。

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