マリーナ:破 ⑥ 友情と敵意と慕情

「……あの、本当によろしいのですか?」


 何度目かになる私の質問に、ユベル様は軽く首を振っていつもと同じ答えを返した。


「問題ないとは言わないが、これも一つの意思表示だ」


「ですが、きちんと言葉でお示しになればクレアラート様もご理解くださるのでは」


「彼女が聡明なのは否定しない。だが、少々頑ななところがあるし、プライドが高い。今の状態で話したとて受け入れてはもらえないだろう。それに彼女自身はともかく、今はまだ俺の考えが公爵の耳に入ってもまずいのだ」


 申し訳なさそうにはしているものの、ユベル様の返答はいつもと変わらず、それを覆すつもりはないらしかった。もちろん私もその意味するところは理解できるのだけど……理由がどうあれ、こうして隠れるようにユベル様と昼食を共にすることに罪悪感は拭えなかった。


 ユベル様と王家ならびにツェレッシュ家の体制改善のための協力を約束してからしばらく。いつの間にやら毎日のように昼食をともにするようになり、その時間は専ら私の勉強時間に費やされていた。

 勉強といっても学院で学ぶようなことではなく、ユベル様という王族の立場から見た現在の体制について話を聞くという形で現状の確認と問題の洗い出し、そして改善のためのアイデア出しをしているのだった。


 話の内容自体はあまり他人に聞かせたいものではなかったから密会のようになってしまうのは致し方ない。けれど婚約者のいる男性と毎日のように密会だなんて、字面だけ見たら完全に私が悪者じゃないか、とげんなりしなかった訳でもない。


 せめてクレアラート様だけにはお話を、とも思ったのだけれど、ユベル様が言う通り、クレアラート様に「やましいところはない」と伝えることはそのままユベル様の理想、今後の展望についても理由の一端として説明しなければならず、旧態然とした慎重派貴族の筆頭であるエルトファンベリア家の耳に入れるにはまだこちらの立場や論理が弱すぎるのも事実だった。


(……でも、気づかれるのも時間の問題よね)


 ユベル様には伝えていないけれど、ついさきほどこの中庭へ向かう途中でクレアラート様とエルザベラ様に出くわした。その場では私の振る舞いについて軽く注意された程度だったけれど、去り際に向けられた視線に込められた疑念はいやでも感じた。疑われているか、ほとんどバレていると思っても間違いじゃないと思う。


 私がそれを黙っているのは、クレアラート様が直接ユベル様を問いただすことは無いんじゃないかな、と思っているからだ。


 二人はその関係こそ「婚約者」ではあるけれど、それぞれの態度からは親しげな様子は感じられない。ユベル様に直接聞いたわけではないが、次期国王と有力貴族の令嬢の婚約だ、そこに政略が無いと考える方が不自然だと思う。であれば、当人たちが婚約そのものは受け入れていても特別に親密ではない、という状況はあり得る。


 クレアラート様が行動を起こすとしたら、おそらく立場の弱い私に対してだろう。なら、私が黙っていさえすればこの件が周囲に広まりはしないはずだ。下手にユベル様の耳に入れてクレアラート様との関係が悪化するくらいなら、私が我慢して済む方がずっといいはず。

 ……大丈夫よ、ええ。私は平気。クレアラート様にキツく当たられるなんて慣れっこだものね。


「マリー?」


「――ぁ、はい、なんでしょうか」


「呆けていたようだったが、どうかしたのか?」


 感情の乏しい瞳にわずかに心配そうな色をのぞかせてユベル様が私を見る。それに対して私はいつものように「なんでもありません」と首を振った。

 気付かれないように、しなくちゃね。


「……そうだマリー。ティセリアは、あの子は元気か?」


 わずかに訝しむような間を置いたものの、ユベル様はそれ以上追求はせずに話題を変えた。王位や政治の話を外れた小休止のような質問に、私も少し気が緩む。


「ええ、いまは問題なく。本当に愛らしい子で、毎日家に帰るのが楽しみです」


 それだけの言葉を口にしただけでも、玄関を開けるなり飛びついてきたティーを抱きしめた時の温もりが蘇った気がして温かいものが胸を満たす。


「昨夜も、もう床に就こうかという時間に私の部屋に来たんですよ」


「ほう?」


 王女として行き過ぎた教育に晒されていた頃のティーしか知らないユベル様は興味深そうに相槌を打つ。


「ご本を読んであげる、って言っていたのですけれど、ふふ。それってあの娘のお決まりのセリフなんです。建前といいますか」


 そうなのだ。本を読んであげると言い、一応そのための厚い本を胸に抱いていたティーだったのだけど、くしくしと眠そうに目をこすり、数秒おきに「くぁ」と可愛い歯を見せてあくびをする様子はまともに本が読める状態でないのは明らかだった。そんな状態の彼女がわざわざ眠気に耐えて私の部屋を訪れた理由が何であるかといえば。


「私とティーで本を読むときはいつもベッドに並んで座るのですけれど、あの子の狙いはそれなんですよ」


「狙い、というとつまり、マリーと同じベッドに乗ることが、か?」


「はい。実はちょっと前に、私の部屋に来たあの子がそのまま寝てしまって、朝まで一緒に寝たことがあったのですけど……それ以来気に入られてしまったみたいで。本を読む、っていう建前で部屋まで来てベッドに座って、そのまま寝ちゃうんです。私があの子の寝顔に弱いの、知ってるみたいですね」


 あれでなかなか策士なんですよ、と私が笑うとユベル様もわずかに目元を緩めた。


「あんな可愛い顔でくぅくぅ寝息を立てられたら、わざわざ一人で寝かせる気になんてなりませんよ。そうでなくてもあの子、寝てるのに私の寝衣を掴んで離してくれませんし」


「そうか……そうか」


 一度目は相槌、二度目は後悔と安堵の滲む声だった。


「そんな穏やかな寝顔ができるようになったのだな。それは――うむ、俺と父上、母上はお前たちツェレッシュ家の面々に感謝してもし足りないようだ」


「私は何もしていませんから、感謝は姉さんたちにしてください。ティーが声を取り戻したのも、ゆっくり眠れるようになったのも、二人のおかげですよ」


「そう謙遜するな。ティセリアはまだ幼いが、あの子は賢いし、自分に向けられる感情に敏感だ。そう育てられたからな。その彼女が、そうまでお前に気を許している。それは間違いなくお前自身が、あの子の支えになってくれている何よりの証だ」


「それは嬉しいですし光栄ですけど、そうだとしてもお相子なんですよ」


「どういう意味だ?」


「あの子が私との時間に安らぎを覚えてくれるのと同じ、或いはそれ以上に、私があの子に癒やされて、救われているんです」


 そうだ、あの子の寝顔に弱い、というのもある種の言葉の綾のようなもの。穏やかな寝顔に絆されて我が儘を許してしまう、というよりも。


「――あの子の寝顔に、私が縋っているんですよ」


「縋る?」


「ええ。有り体に言って、私も寂しい、ということです」


 ちょっとした冗談に聞こえたらいい。そのくらいの調子で口にした本音だったのだけど、ユベル様はクスリとも笑わずじっと私を見つめ返してきた。あ、あれ、冗談に聞こえてない? いえ本音は本音なのだけど、あまり重く受け止めて欲しかったわけじゃ――などと内心慌てる私をよそに、ユベル様の真剣な瞳はわずかも逸れることなく私を見据えている。


「城下の暮らしが、恋しいか?」


「…………え?」


 不意の質問に、思わず淑女の振る舞いを忘れそうになった。


「そんな、ことは」


「隠さなくていい。お前を城下に戻してやることはできないが、俺はお前がいまの立場に至った経緯を知っている。本音を口にするくらい、咎めはしない」


 それくらいしか出来ないが、と呻く彼はどこかいつもより大人びて見えた。


 恋しいかと問われれば、恋しいに決まっていた。

 あそこにもう両親はいなくて、私が去って帰る人がいなくなった家はもう我が家とは呼べない。当然ながら働かなければ食事にも困るし、娘一人で生きていくのは不可能じゃなくとも大変なことだ。ツェレッシュ家の特殊性を鑑みたとて、そんな暮らしから少なくとも食事の心配はいらない身分になれたのは幸運だと思う。それでも。


 ふと部屋で一人になると考えてしまうのだ。

 私は今の居場所に相応しくないと。住み慣れ、親しんだ城下町の空気が懐かしいと。たとえ震えるほどの寂しさに見舞われても、あの硬い寝床で眠った日々が恋しいと。


 そんな時私は、ティーの寝顔で自分を奮い立たせる。

 この子を幸せにするために私はこの場所を選んだんだ、と自分に言い聞かせる。郷愁に囚われて目の前の人たちを見失うなと、そう自分という存在を立て直す。

 ザルツ兄さんも、レア姉さんも、ティーも、みな私を家族として愛してくれる。淑女の作法も常識も満足に身についていない私を、ゆっくりでいいと見守ってくれる。


 だからこそ、あの人達に弱っている姿は見せられない。


「俺の理想をお前は聞き入れてくれた。あれが王子として相応しくない本音だということくらい、自覚している。それでも賛同してくれたお前の真摯さに俺も応えたい。だからお前も、俺の前で立場など気にするな」


 弱音なんて口にできない。例えこの場限りであっても、それはツェレッシュ家のみんなの優しさを裏切るものだ。でも、ユベル様が恐る恐る、ぎこちない手付きで、壊れ物を扱うようにそっと頭を撫でてくれた途端、勝手に涙は溢れた。


「――――」


「すまない、無理を強いたな」


「…………っ」


 声は出ない。言葉は出ない。嗚咽を押し殺して、ぐしぐしと制服の袖で涙を拭う。ただ、ユベル様のやさしい手だけは、どうしても振り払えなかった。


「……意地っ張りめ。素直に泣いておけ」


 いつもより少し乱暴な物言いは、言葉遣いに反して随分と優しくて。


「――――ずずっ」


 堪えきれずに鼻をすすった私を、ユベル様は休み時間の終わりまで静かに撫で続けてくれた。

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