マリーナ:破 ⑤ 王子は願い、王女は受け入れる

 年の離れた妹について知っていることは多くない。直接接する機会は数えるほどしかなく、その殆どは叔父であったあの男の立会の下で設けられた場だった。振り返ってみれば、そんな場で彼女の本質になどいかほど触れられようか、という話だが、当時の俺にそんな認識などあるはずもなく、幼くして完璧な作り笑いを身に着けた少女を、薄気味悪く思ったくらいだった。


 その妹、ティセリアの笑顔が本人の望んだものでなく、叔父に強制されたものだったと知ったのは、全てが露見し、国王である父上が大方の裁定を済ませてしまった後だった。


 一連の出来事の顛末を王子として耳に入れておけ、という父の言葉に耳を傾ければ、語られた内容は概要だけは頭に入っていた俺でさえ愕然とするに足るものだった。

 叔父の陰謀は同じ王家の一員として憎むべきものだったが、彼のティセリアへの所業は恨みつらみといった感情を飛び越えた醜悪の一言に尽きる。王族としては言うに及ばず、それ以前に人として、幼い娘に対して行ってよいものではなかった。叔父の行いの仔細を聞いた俺は、それこそ幽閉では生ぬるいのではないかと憤り、父上に抗議した程だった。……もっとも、そこには妹と叔父の間に起きた事に対する怒りだけでなく、幼い頃の自分を重ねた憤りも混じっていたことは否定できない。


 ティセリアの身に降り掛かった事とは比べるべくもなかったが、俺も王家の長子として、普通とは程遠い幼少期を過ごした、と振り返ってみて思う。もちろん、当時の俺にはそれを知る術はなかったのだが。

 俺の周りには、笑顔しか無かった。

 誰もが俺に笑顔を向けた。かろうじて両親だけは親として厳しい顔を見せはしたが、それ以外の誰もが、俺が何をしようと、何を言おうと、笑顔でそれに応じた。まだ幼い俺を相手にへりくだり、些細なことも称賛し、大抵の過ちは笑顔で許された。


 そして俺は、人が笑う意味がわからなくなる。

 楽しくて、嬉しくて笑うのが普通だと理解していても。建前と阿りが幅を利かせる王城内にはそんな正しい意味での笑顔など滅多に無く、俺を取り囲む笑顔は、俺には仮面としか見えなかった。

 そんな俺が、自分に向けられる笑顔を恐ろしいと思うようになるまでそう時間はかからなかった。


 ……今となっては、恨んでも仕方のないことだと諦めもついている。王の長子でありそれなりに優秀だった俺には王位を争うような相手もなく(もっとも、そんな相手がいれば俺か相手のどちらかはツェレッシュ入りを免れなかっただろうが)、幼くして王位継承がほとんど確約されていた俺に取り入ろうと考える人間が跡を絶たなかったのは仕方のないことだ。幼い子ども相手に議論や政策で気に入られようとするのも無理な話であり、柔和な表情を浮かべなるべく優しく接するというのは単純だが自然な方法だ。


 だが、それは俺にとって苦痛であり、それと近いもの、あるいはそれ以上の苦しみを、ティセリアが幼いその身に受けたのだと知れば、憤りの一つも覚える。

 だから俺はそれから程なくして父上に進言し、条件付きの認可を取り付けた。


 ――ツェレッシュ家の解体について、だ。



* * *



「解体、ですか」


 求められた「協力」の内容に思わず目を見張った。


「ツェレッシュ家のことだけではない。現状の王家の継承制度が歪なのは明らかだ。ツェレッシュ家と、そしてティセリアの一件はそれが問題として表出したものだと俺は考えている」


「歪、というのは」


「生まれたばかりの幼子を長子というだけで次期国王と崇め、にも関わらず遠縁の親類やお前のように庶民として暮らす者にまで手を伸ばしてツェレッシュという檻に閉じ込める。そんな盲目的なやり方は、良き王と王家とは言えない」


「……貴方がそれを言いますか」


 思わず恨み節とも思える言葉を返せばユベル様は気まずそうに視線を逸らした。一応、自覚はあるらしい。


「仰ることには同意します。それで解体というのは?」


「あ、ああ。現在の王家の在り方、継承への考えを歪めている一因は、ツェレッシュ家であると思うのだ。ツェレッシュという存在が王家の裏側として存在するからこそ、長子はそれだけで王位を約束され、それ以外の王族には継承者としての地位は初めから無いものとして扱われる」


「それは……そうかもしれません」


 王位継承者である第一王子を除き、幽閉された王弟や幼いティー、ツェレッシュ家のザルツ兄さんやレア姉さんは王家に連なる者でありながらその影響力は驚くほど小さい。

 王位そのものとは無縁だとしても、普通ならその王に進言できる立場として重んじられるはずの王家の面々が伯爵以下の貴族と同等か、場合によってはそれ以下の存在として軽んじられるているのはおかしいと言われればそうなのかもしれないと思える程度には違和感がある。


 ティーが一時、声を失うまで追い詰められた理由の一端は、王位に関係がないと思われたが故に周囲が彼女に無関心だったことにもある。ユベル様が言う「歪み」がそれらを指すものであるなら、私にも理解できるし、納得できるものではあった。

 ……ただ、それを正すということは。


「あの、ユベル様。仰りたいことは理解しました。けれどそれは王家を、ひいてはこの国の安寧を脅かすものでは、ありませんか?」


 そう。そんな歪みを抱えてまで王家が長子による王位継承とツェレッシュ家という囲いによる監視を続けてきたのは、五百年前の内乱の再来を恐れたからだったはず。その仕組みを今になって解体するということは、曲がりなりにも五百年の安寧に貢献してきた制度を根本から覆すということを意味する。


「そうだな。俺も、そう考え、このことを父上に進言すべきか大いに迷った」


 だが、と目の前の私と同じ年の少年は決意を視線に込めて私を見つめてきた。


「それでも俺は、俺が治める国が誰かの犠牲を強いるのを認めたくないのだ」


 その言葉に、思わず私はユベル様の顔をまじまじと見返してしまった。

 彼の考えは理解できる。自分の心情だけに寄り添うなら一も二もなく頷いてしまいたいとも思う。

 けれど私達は互いに16歳で、この国では成人と認められる年齢だ。そう在りたい、在ってほしいという理想が、必ずしも現実に適さないことは理解しているはずだ。そしてその乖離が、必ずしも悪いことばかりでないことも。


 私が両親を亡くした失意の中で新しい家族と出会ったように、ままならない現実から生まれるものが必ずしも悲劇ではないことを知っている。

 ティーに本当の父親の愛を与えようとした、そんな理想が彼女の人生を狂わせる悲劇に繋がったことも理解している。


 ユベル様の瞳に宿る決意の色は複雑で、それはただ美しい理想だけにとらわれた言葉でないことの証左だ。ままならない現実、不安定な未来。それを見据えてなお、それでも譲れない理想が在るのだと、その目が私に訴えていた。


「……ユベル様」


「なんだ」


「私は、貴族としても、王族としても、一人の人間としても未熟で、本来であれば貴方に意見できるような立場ではありません」


 それでも、と言い募る私をユベル様は口を挟まず見返している。


「それでも貴方が私を王家の末席にあるとお認めくださるなら、私は聞かなくてはなりません」


「申せ」


 王子の顔になって、ユベル様は頷いた。だから私も、覚悟を決める。


「――その理想は、民の安寧を脅かしてまで、叶えなくてはならないものですか?」


 国を左右する王だからこそ、時に感情よりも理性に耳を貸さねばならない。王の理性とはつまり国益であり、国と民を安んじること。そのために王家の歪みを良しとしたのが五百年前の王家だとしたら、その判断は例え残酷でも、国を支える王家としてはきっと正しかった。

 ユベル様の語る理想は、果たしてそんな五百年前の英断を覆すに足るものか。同じ王家の一員だというのなら、私はそれを問わなければならない、と思う。


「そうだな。ツェレッシュ家という仕組みを解体することは、国に争いの火種を生むことになるかもしれない」


「それでも……?」


「ああ、それでもだ」


 立ちふさがるいくつもの問題を、決して見ていない訳ではない。王家に訪れるかも知れない揺らぎも、それが国と民に与えるかも知れない痛みも、決して理解していないわけじゃない。


「確かに、これは俺の我が儘だ。かつての王が安寧を願って下した決断を覆し、その結果誰かが苦しむのかもしれない」


「苦しむのは、民かもしれないのですよ?」


「そうであるのなら俺は誹りを受け止め、罪を背負う。自分で選んだ道が誤っていたのなら、責任は取る」


 それは清々しいまでの傲慢。そして泥臭いほどの純真だった。


 間違っていたら責任を取るなんて、そんなのは実のところ自己満足に等しい。たとえ過ちによって処断という最重刑を下され、それを受け入れたとしても、誰かの身に起きてしまった痛みが無かったことにはならない。

 責任を取るという言葉は、責任を引き受けることで痛みを相殺できるという傲慢な考えだ。けれども、目の前の彼がそれを理解していないとは思えない。わかっていながら、その傲慢を良しとする理由は。


「それでも、見も知らぬ誰かが残した禍根を良しとはしたくない。不確定な未来の犠牲を恐れて、今犠牲になっている誰かを見捨てることはしたくない」


 ――この手が届く場所に歪みがあるのなら、自分の責でもって正したい。そうした結果であるならば、どんなものであったとしても受け止める。


「だからどうか、俺の理想に力を貸して欲しい。犠牲を強いられたティセリアのために、王子たる俺に怒りを向けられるお前の力を」


 そう言って、ユベル様は再び私に頭を下げた。

 傲慢。身勝手。そう断じることは容易くて、事実それは酷く自分本位な振る舞いだと思えた。王族としては疑うべくもない間違いを、私は諌めなくてはいけないのだと思う。


 けれどその真っ直ぐな理想に、少しだけ共感する私がいる。


 大事の前の小事。最大多数の最大幸福。国を背負う立場の王族として、何より重視しなくてはならないはずの基準。けれどならば、そのために切り捨てられる小事は、少数は、顧みられる価値もないのか。

 否だ。否だと、私はそう言いたい。


 だってツェレッシュ家はその少数で、この国のために切り捨てられた家で。

 ザルツ兄さんは成功の夢を奪われた。

 レア姉さんは今よりも少しだけ大きな幸せを願う権利さえ奪われた。

 そしてティーは、決して消えない傷を心に刻まれた。


 その全てを「仕方のないこと」と切り捨てて顧みないこの国を、正しいと認めたくない。その気持は疑うまでもなく、私の中に存在している。

 ……私には、ユベル様の理想を否定できない。たとえそれが王家の一員として間違っているとしても、そうあって欲しいと願う自分に、嘘はつけない。


「――わかりました」


「っ、では」


「はい。ユベル様の理想に私は賛同します。その実現に、微力を尽くします」


「感謝する」


 そう言って差し出された手を、しっかりと握り返す。触れた手が熱いのは私の熱か、ユベル様の熱か、その両方か。

 わかっていることは一つ。

 この手が、胸が熱いのは、いつしか諦めかけていた理想に火が点いた、その証だということだけだ。その心地よい熱が私に与える活力が、私の大切な人たちを救う力になればいい。そう願った。

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