マリーナ:破 ④ ライバル令嬢は物申し、主人公は問いかける
クレアラート・エルトファンベリア。
エルトファンベリア公爵家の一人娘であり、謁見の間で顔を合わせた黒髪の青年、ユベルクル・ヴァンクリード王子の婚約者。プライドが高く言葉はキツく、けれどその振る舞いは優雅で洗練されていて、常に堂々たる自信に満ち溢れている。
エルザベラ・フォルクハイル。
爵位、規模ではエルトファンベリアに劣るものの、代々その優れた社交性で繋げてきた人脈と影響力で侯爵位にあって頭一つ抜けた地盤を持つフォルクハイル家の長女であり、一族の中でも傑出した社交性を遺憾なく発揮して、社交デビューした最初のシーズンが終わる頃には「社交界の華」の評判を絶対的なものにした、気品溢れる完璧令嬢。
その二人が急接近したと聞いて目をしばたかせた人間は多い。驚くよりもまず、意味がわからない。何がどう転べば、世界の天と地が引っ繰り返るのか。そんな疑問と同じだけの、それまでの過程がどうであったにせよ導き出される結果を受け入れがたい、それほどの衝撃を以て、その噂は国内の貴族たち、特に二人の令嬢と同世代の若い貴族子女たちを中心に広まっていった。
もちろん、私も驚いた人間の一人ではあるのだけれど……それ以上に、納得した、といった方が私の心情に近い。
確かに同じく有力な貴族でありながらよく対立していた二人は、主義も主張も違う、水と油のような関係だったというのはわかる。けれど一方で、そんな風に面と向かって対立関係を結べる人間は、どちらにとっても一人しかいなかったのだ。
最有力貴族の一員でありプライドの塊のようなクレアラート様に公然と意見できるのはエルザベラ様だけで。
一分の隙も見せず誰とも一定の距離を置いていたエルザベラ様に強引に斬り込めるのはクレアラート様だけ。
対立するということは対等ということ。だから私にはそれは、なるべくしてそうなったのだと、そんな風に思えてならなかった。
* * *
『――クレア様を不幸にするバカ王子なんか、私は絶対認めない』
その言葉に驚いたのは、ユベル様だけではなかった。直接それをぶつけられた彼の驚きも大きかっただろうけれど、私はエルザベラ様のその言葉に、ふと想起するものがあったのだ。
「ティー……」
口の中だけで呟いた名前に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
ユベル様は確かにお優しい。ついこの間まで平民だった私を王女として、それどころか直系である彼自身とほとんど対等な王家の一員かのように扱ってくださる。
でも、あの最初の晩、謁見の席で私に放たれた言葉がその優しさを額面通り受け取ることを躊躇わせた。
『ツェレッシュ家に加わる者には覚悟がいる。これからのために』
ユベル様が王子として、あるいは次期国王として、どんな決意を抱いているのかはわからない。けれど彼の求める「覚悟」という言葉が、もし幼いティーにまで求められるとしたら。私の半分にも満たない人生で既に私の想像を絶する経験をしてきたあの子に、これ以上王家が何かを求めるというのなら。
それが、ユベル様の「平等」だというのなら、私はそれを受け入れるのだろうか?
ティーを不幸にする王子を、私は認められるだろうか?
――否だ。
私がツェレッシュ家にいるのは、陛下に命じられたからではない。きっかけがそうであったとしても、原因が私の血筋にあったとしても、それは私の理由ではない。
私があの家にいるのは、ティーを守るため、そしてこんな私でもその力になれると喜んでくれた兄さんと姉さんのためだ。
あの子が幸せになれないなら、そんなのは違う。
正しいとか、間違っているとか、そんな客観的な話ではない。ティーが幸福に笑える未来とそうでない未来とがあるのなら、あの子が笑えない未来は私にとっては「違う」のだ。
エルザベラ様の憤り、その片鱗が理解できた気がする。クレアラート様を想うが故の彼女の言葉は貴族として、淑女として間違っていたかもしれないが、一人の友人の未来に幸福を願う少女としてはこの上なく正しい。
そして不意に聞こえた言葉に、私は自分の中で何か妙な、ずっと噛み合わなかった歯車がカチリと音を立てて嵌ったような、そんな感覚を覚えた。
「幸福な婚約など、存在するのか?」
どんな思考がその言葉を導き出したのか、それはわからない。だけどユベル様のその呟きは決して先程のエルザベラ様の言を軽んじるものではなく、むしろ受け入れようとしたが故に口からこぼれた疑問のようだった。
「ユベル様。少し、お話をよろしいでしょうか」
居住まいを正してそう問いかけると、ユベル様は思考に沈んでいた顔を上げ、私を見つめる。ややあって軽く周囲に視線を巡らせると「場所を変えよう」と短く言って席を立った。
対話に応じる、と受け取っていいのだろう。
予告なしに立ち上がったユベル様を慌てて追いかける間、私達の間に会話はなかった。私は私の、そしてユベル様はユベル様の思考に没頭していたからなのだが、傍から見れば険悪に見えたかも知れない、と少し反省した。
「ここならば、余計な耳目に晒されることもあるまい」
案内された部屋に私が入ったのを確認し、自身も扉の内に滑り込んだユベル様が、錠前を下ろすと同時にそう告げた。
人気のないこの一角は、確か倉庫のようになっている空き教室が多くある、いわば旧教室棟というべき場所だったと記憶している。この学院に足を踏み入れてまだたった二日だが、扱いに困るものが多く詰め込まれているが故に無用の者は軽々に立ち入るなと教員から事前注意を言い渡されていた場所だった。
そんなところに入っていいのか、と思うと同時にそういえば自分は今王国の王位を継ぐべき人間と密室に二人きりなのだな、と現状を認識する。
「あの、もしかして私は、貞操の心配をしなくてはいけませんか?」
「…………許可なく錠前を落としたのは悪かったが、話がしたいと言ったのはお前だろう」
渋面を浮かべるユベル様に、慌てて「そ、そうですよね! 申し訳ありません」と頭を下げた。
「いや、まぁ、確かに俺も配慮に欠けていた。すまない」
あまりに私が恐縮していたせいか、簡潔にではあるが殿下の方からも謝罪される。頭を上げてくれと言われて私が恐る恐る顔をあげると、ユベル様はやや気まずげに視線を下げた。目を合わせづらい、というようなその様子が、父さんが母さんを怒らせた時の様子に似ていて、微笑ましくなってしまう。
「ふふ」
「なぜ笑う?」
「あ、いえその、両親を思い出しまして」
「?」
それだけでは理解できなかったようで不思議そうに首を傾げるユベル様に「大したことでは」とゆるく首を振っておく。腑に落ちない様子ではあったが、ここへ来た本来の目的を思い出したらしいユベル様もそれ以上追求してはこなかった。
「それで、俺に話というのは?」
「はい。ユベル様に、お聞きしたいことがあるのです」
「聞こう」
頷いて腕を組んだユベル様に、私は先程、エルザベラ様とユベル様それぞれの言葉から浮かんだ懸念をぶつけた。
「ツェレッシュ家の者に、幸福な婚約は許されますか?」
ユベル様が目を見張った。声こそ上げなかったが、その表情だけでも驚愕は伝わってきた。
「……そうだな。法規に照らせば、婚姻においてツェレッシュ家を特例として縛るようなものは定められていない」
随分遠回りの場所から、ユベル様の回答は始まる。ユベル様はそこで言葉を区切って私の反応を窺うような素振りを見せたが、私がじっと次の言葉を待っていると、観念したように溜息を一つこぼして続けた。
「だが、現実にツェレッシュ家が良縁に恵まれる可能性はかなり低かろう。貴族や王族の婚姻に家の繁栄への意図はどうしたって度外視できない。しかし現状、国内の有力な貴族がツェレッシュ家と縁を結ぶことによるメリットは薄い。というより、デメリットの方が大きいと言ってしまっても過言ではあるまい」
やはりか、と薄々気づいていた事実を肯定されて内心でため息をつく。
そもそも要職にこそ無いが優秀なのは間違いのないザルツ兄さんと、社交的でマナーもきちんと身につけ、容姿も端麗であるレア姉さんの二人が、20歳を過ぎながら揃って婚約者もいないというのがおかしな話だったのだ。
確かにツェレッシュ家に与えられる役職は閑職であるし、貴族としても王家の一端としても影響力は小さい。それでも、例えば財を築きながらも爵位を持たない商家や、緩やかに没落する零細貴族にしてみれば、形だけでも王家の名を得られるというのは本来それなりに大きなメリットになる。だというのに現当主、及び系図上ではその直妹となる若い女性に婚約の話が無いとすれば、それはメリットに勝る大きさのデメリットが有ると考えるのが普通だろう。もっとも、そうした新興豪商や没落貴族から婚姻の申し入れがあったとして、それが「良縁」であるかはまた別の話だが。
「ツェレッシュ家は地位と財力を王家によって厳しく監視されることが慣習となり、王家というにはその力は非常に小さい。それは理解しているな?」
「はい」
頷く。社交の場にはまだ数えるほどしか足を運んでいない私だが、それでも最近はあの最悪なデビューから比べれば幾分落ち着いて、いち令嬢としては比較的真っ当な振る舞いでもってお茶会や夜会に臨めるようになってきた。
そうして自分自身の振る舞いがある程度矯正できてようやく感じられたのは、私だけでなくツェレッシュ家そのものに対する周囲の無関心さだった。
貴族というのは基本的にその地位や財を力にのし上がろうとする上昇志向が強い。そのための基本であり最強の武器となるのが情報であり、貴族たちにとって自分の目が届く範囲のあらゆる貴族階級の動向は重要な意味を持つものであることは疑うべくもない。
現在の地位を良しとし、必要以上の上昇志向を持たない者たちも一定数いるが、それにしたって上を狙う者たちにいつ蹴落とされるかわからず、現在の地位を守るためにはそうした者たちの動向を探っておくのは重要だ。
だけど、ことツェレッシュ家に対して彼らの嗅覚は全くといっていいほど反応を示さない。私に向けられる注目もその大半が「庶民王女」へ向けられる同情や蔑みによるものであり、私という王女が新たに立ったことでツェレッシュ家がどう動くか、或いはどのような可能性が開かれるか、そういったことにはまるで関心が無いようなのだ。
「ツェレッシュ家の婚姻について、これ自体を制限する法規はない。だが……婚姻に伴う制約は貴族にとっては非常に重い」
「制約、ですか」
「ツェレッシュ家には、他家への婿入りも嫁入りも許されていない。つまり、ツェレッシュ家の者と婚姻するということは、その者もまたツェレッシュ家の一員となることを意味する。貴族として大成したいと望むなら、まずそんな選択はすまい」
道理では、あるのだと思う。
ツェレッシュ家は王家の血の乱れを監視する場所。結婚を理由にほいほい他家に渡られては、わざわざ分家を立てて監視している意味がない。そして周囲の貴族にしてみたところで、ほとんど身一つで権威のない家に飲み込まれるだけの婚姻を良縁とは思わないだろう。いかに相手が王族であったとて、結婚したが最後、貴族としての優雅な成功など夢と消えるのだから。
「そんな……」
「そのような身分にお前を押しやったことは済まないと思っている。だが、だからこそ俺は――」
「それじゃあの子は、ティーはどうなるんですか!」
思わず上げた声は何か言いかけたユベル様の言葉を遮り、埃っぽい部屋に反響した。
「……なに?」
「あの子は、ティーはもう十分過ぎるほど王家の痛みを押し付けられてきたはずです! ユベル様も知っているでしょう? なのにあの子の将来にさえ、そんな影を押し付けるのが王家のやり方なのですか!」
勢いのまま溢れ出る言葉に私が乗せている感情は、きっと怒りだ。
私は怒っていた。幼いティーに王家の歪みが産んだ痛みを押し付け、あまつさえその未来の可能性すら握り潰そうとするやり方に。
兄さんや姉さんも、きっと納得はしていない。いつか苛立ち紛れに葉巻を踏み潰した兄さんにも、何かを諦めた様に微笑んだ姉さんにも、きっと将来に抱いた憧れがあって、それを阻むのはヴァンクリードとツェレッシュという二つの家で。
「悲劇を繰り返さないために誰かの未来を犠牲にするなんて、そんなのは違います。そんな事になるなら、例え危険が伴うとしても、王家はツェレッシュ家と向き合うべきです」
五百年前の内乱がツェレッシュ家の始まりだと姉さんは語った。確かにそれは想像を絶する悲劇だったのだろう。その過去に学び、禍根を断とうとしたのは自然なことかもしれない。
でも、今を生きる私達にはその負の遺産が重くのしかかっている。
顔も知らない五百年も昔の誰かのせいで、兄さんや姉さんや、ティーの未来が閉ざされるなんて。そんな過去の影に怯える王家のために、私の大事な人達が犠牲になるなんて。
そんなのは、違う、違うの。
「あの人達の未来を奪うのが王家なら、そんな王家なんて――」
「そこまでだ」
決して声を荒げる事はなく、けれどハッキリとユベル様は私の言葉を遮った。沸騰した頭によって半ば無意識に言葉を吐き出していた口が何を口走りそうになったのか、一拍置いて理解した私は加熱していた頭が急速に冷えていくのを感じた。
「も、申し訳ありません、つい、勢いで……あの、罰するなら私だけを」
「いや、謝罪は不要だ。お前の言は正しい。だがそれでも、先程の続きを口にされては俺も王家の者として相応の態度を取らねばならない。すまないが、今はその言葉は胸に仕舞って貰えまいか」
「……それは、王家の行いを受け入れろということでしょうか」
言外にそれは出来かねると不服の色を込めて言うと、ユベル様はゆるゆると首を振った。横に、だ。
「そうではない。言葉を抑えて欲しいのは立場上のことだ。むしろその怒りは、忘れないで欲しい」
それはきっと正しいものだから、というユベル様の言葉に私は驚いてその表情を窺う。いつもの無表情は鳴りを潜め、その表情には痛みとも苦悩ともつかない何かが浮かんでいた。
「俺からも、一つ訊きたい」
「……どうぞ」
難しい表情のままのユベル様に言われて、頷く。
「お前自身は、良いのか?」
「はい?」
質問の意図がわからず首を傾げると、ユベル様は言葉を探すようにゆっくりと問い直す。
「お前が憂えているのはティセリアたち、お前の家族となった者たちのことだろう。だがお前は? 自分自身の幸福は、願わないのか?」
「私、ですか?」
思ってもみない質問に面食らう。何を言っているのだろう、この人は。だって私なんて、私の幸福なんてものは。
「私の幸福は、既に果たされていますから」
「なに?」
「両親を亡くして、私は孤独というものを知りました。誰もいない家に一人暮らすことがとても冷たく、耐え難いものだと知りました。けれど――」
けれど今は。
「そんな私を迎えてくれる、家族がいます」
気難しい顔をしているくせに三人の妹を構いたがるザルツ兄さんがいて。
子供みたいな悪戯をしたかと思えば次の瞬間母のような優しさで包んでくれるレア姉さんがいて。
私の帰りを心待ちにして、玄関扉をくぐるたびに飛びついてくるティーがいる。
それがどんなに得難い幸福であるか、失くしたことがある私にはよく分かる。
「二度と手に入らないと思っていた温もりを、私は新しい家族に貰ったのです。それに勝る幸せなんて、私には考えられません」
「……そう、か」
そうか、ともう一度繰り返したユベル様は、じっと何かを推し量るように私を見つめる。意図が掴めず、けれど今目を逸らせば告げたばかりの言葉を疑われる気がして、それだけは嫌だと見つめ返す。
にらみ合うような沈黙は、張り詰めたものを吐き出すようなユベル様の大きな溜息によって途切れる。
「お前になら、話しても良いか」
「……なんですか、急に」
私の問いには応えず、表情を引き締めたユベル様は続く言葉を告げる。
「マリーナ・ツェレッシュ。お前に協力を頼みたい。王国と、王家と――そしてツェレッシュ家のために」
見たことのない真剣さでユベル様は――次期国王の席を約束された王子は、深々と頭を下げた。
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