マリーナ:破 ① 門出

 時間が経つのは物事の渦中にある時ほど早いもの。

 そういう見方をすればこの一ヶ月ほどの間、私はまさにその渦中にいたのだと思う。時間が過ぎるのは城下で日々悶々と職場と家の往復をしていた頃よりも数段早く、やるべきこともやりたいことも満足のいくまでこなせたとは到底言えないながらも、私は抜け殻のように過ごしていた日々よりもずっと手応えのある毎日を過ごしていた。


「リーナ!」


「おはようございます、ティー」


「おはよう!」


 可愛い義妹の頭をこうして毎朝撫でてあげられるのも、その手応えの大きな理由の一つだと思う。お互いにすっかり遠慮はなくなり、私の腰のあたりに突撃と言っていい勢いで飛びついてくる義妹の受け止め方も慣れたものだ。


「こらティー、飛びつくのは危ないからよせと言っているだろう」


「そんなこと言って、ほんとはザルツもして欲しいんでしょ?」


「ば、バカを言うな。俺はリーナとティーが怪我でもしたらと心配して」


「はいはい、もうアレだよね、ザルツはお兄ちゃんっていうかパパだよね」


「パッ――」


 思わず顔を引き攣らせた兄さんの口はぱくぱくと「そんな歳じゃ」と動いていたけれど、言った方の姉さんは既に興味を失ったのかティーに向かっておいでーと両手を広げており、兄さんの方を見てすらいなかった。


「ええと、あの、元気だしてくださいね、ザルツ兄さん」


「……なぁリーナ、俺はティーくらいの子供がいる歳に見えるのか?」


「ええと、ほら、兄さんは落ち着いて、大人びて見えますから」


「見えるのか……」


 がっくりと項垂れる兄さんの背中をさする。正直私も、いまだにザルツ兄さんが25歳だというのは半分疑っているくらいだ。どこからどう見ても三十路は過ぎたやり手の貫禄が身についている。もちろんそんな貫禄を発揮するのは外でだけだが、外での兄さんしか知らなければレア姉さんと2つしか違わないなんて誰も信じないと思う。私も初めて聞いた時は三回ほど聞き返して兄さんを泣かせそうになった。


「ほらほらティー、リーナは今日は用事があるんだから、いつもみたいにのんびりしていられないのよ」


「うー!」


 不満げに唸るティーを姉さんと二人で宥めつつ家族全員が食卓に着く。


「はいティー、あーん」


「…………」ぷいっ


 いつものように一口大に切り分けた朝食を口元に差し出すと、ティーは不機嫌そうに顔を背けてしまう。あらら、すっかりご機嫌ナナメらしい。ちなみにこうして食べさせるのは兄さんの提案だ。ティーが自分で食べてはどんな料理でも前掛けが五枚じゃ足りない、洗濯だってタダじゃないんだ、とのことで、少なくとももう少し、マナーや作法について聞き分けてくれる年齢になるまではティーの食事は私と姉さんが食べさせてあげるという事になった。……一家ぐるみの当主騙しは、私という協力者を増やして相変わらず続いている。


 姉さん曰く「ザルツはあれで、ティーが自分の手を離れちゃうのが寂しくて仕方ないんだよ、本当はもっと世話を焼きたいんだ」とのこと。始めは半信半疑だった私も、ティーのこととなると途端に表情豊かになる兄さんを眺めているうちに姉さんの言うことが少なくとも的外れではないのだろうなと思うようになっていた。


「ティー。リーナを困らせちゃダメでしょ」


「だってリーナが」


「リーナは今日大事な用事だって、言ってあったじゃない」


 ううー、と怒り泣きの表情を浮かべるティーの頭を撫でながらどう説得したものかと悩む。

 私にも非はあるのだ。今日の予定自体は以前から決まっていたもので、兄さんたちには予め伝えてあった。伝えていたというか、そもそも話を持ってきたのは兄さんだし、参加の是非については姉さんの判断を仰いだので二人は伝えるまでもなく知っていたのだけど。


 ただティーには具体的なことまで伝えていなかった。ぼんやりと来週あたりに一日家を空ける、というような話を前もってしていただけで、それが今日だと彼女がはっきり認識したのは昨夜のことだ。

 ついさっき、朝の挨拶を交わした時にはいつも通りだったから気にし過ぎかと思ったが、やはりいざ今日は遊べないとハッキリ言われてすっかりへそを曲げてしまったようだった。


「あの、ティー?」


「…………」むすっ


「帰ってきたらたくさん遊びましょう、それから――そうだわ、美味しいお菓子を貰ってきてあげる」


 ぴくっ、とティーが反応した。

 物で釣るというのはあまり良いやり方はとは思わないけれど、ティーが高級品から庶民の家庭で作られるようなものまで、およそお菓子と名の付くものに目がないのはこの一ヶ月でよくわかっていることだ。厨房に出入りする侍従たちが仕事の合間につまむ用に作った味の薄いクッキーでさえ、あるとわかると目を輝かせ涎をたらしてキッチンの入口にじっと待機し、使用人の誰かが折れてクッキーを一袋くれるまで待つほどだ。


 ちょうだい、と口に出して言わないのは以前に兄さんが「王族としてあるまじき態度だ」とこっぴどく説教したせいらしいのだが、その後一週間ティーが兄さんを徹底して無視したために当の兄さんが先に根負けして人気店のケーキを持ち帰ったのはこの家ではみんなが知っているティーの武勇伝だ。

 ……その後、最低限のこととはいえ兄さんの言いつけを守って積極的におねだりしないのは、ティーが自分の立場を決して理解していないわけじゃないことの証明でもある。6歳の子供だけれど、壮絶な過去を忘れてしまえるほど彼女の神経は無感覚ではないのだろう。


「お菓子」


「うん、お菓子」


「ちょっとリーナ、それは」


「大丈夫ですよ、ちゃんとバレないように気をつけますから」


 心配そうな姉さんに微笑みを返す。褒められたことでないのは百も承知だし、私個人の問題ではなくバレたらこの家にとってもあまり良いことがないのも、なんとなくわかるようになってきた。とはいえ、今のティーを説得できる材料は他にない。


「私はお菓子を貰ってくる、ティーはいい子で待ってる。約束できるでしょ? できたら、明日は一日ぜんぶ、ティーと遊べるわ」


「ぜんぶ?」


「うん、全部よ。さ、約束できるでしょ?」


「……わかった」


「ありがとう。いい子ね」


 そう言って撫でてあげると、さっきまで不貞腐れていたのが恥ずかしいのか、ちょっと気まずそうに目を逸らしたティーだったが、やがて催促するように「あー」と口を開けた。その口に朝食を差し出すと、今度は素直にぱくっとしてくれた。


「……リーナはお母さんなのね」


「私だってまだ16ですよ!」


 姉さんのしみじみとした呟きに、ちょっと兄さんの気持ちがわかった私だった。

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