マリーナ:序 ⑤ 鳥かごの意味
「こら、そう口を汚すな。ちょっ、おい待て、一度食べる手を止めろ、拭けないだろう」
「んー、んん」
「口のものを飲み込んでから話せといつもいつも――」
「……いつもなんですか」
私が笑いを堪えきれずに言うと、斜向いに座って上品な仕草で朝食を口に運んでいたカトレアさんがけろっとした様子で「そりゃもう」と頷く。
「ザルツ、早く食べなくていいの?」
「だがカトレア、見ろティーのこの食べっぷりを。このままにしておいたら一度の食事で前掛けを何枚取り替えるハメになるか」
「はいはい、お兄ちゃんは大変ですねー」
「少しは手伝え! 姉としてマナーを教えるのもお前の役割だろうが」
「いやぁ、あたしのも大概付け焼き刃だし?」
言いながらわざとらしく優雅な仕草でゆったりと食事を続けるカトレアさんに、ザルツバークさんの眉間がひくひくと歪む。貴族のテーブルマナーに何の造詣もない私でも、カトレアさんのそれがすっかり堂に入ったものであるのはよくわかった。
「くそっ、この忙しい時に! おいティー、わかっているな? 俺は忙しいんだ。とにかく綺麗に食べられるようになってくれ、この通りだ」
「んむ?」
とうとう幼い女の子に泣き落としを掛け始めたザルツバークさんに、当のティーさんはよくわからないという顔で首を傾げた。そうしながらもほっぺをパンパンに膨らませてもきゅもきゅと朝食を咀嚼している。
「だぁっ、くそ、おいマリーナ」
「は、はい!」
「貴族のマナーとかはひとまずいい。こいつが服を汚さずに飯が食えるように見てやってくれ」
「え、あ、はい」
「頼むぞ」
言うが早いか、ザルツバークさん自身もマナーなどクソ食らえと言わんばかりの勢いで残りの朝食をかっ込むと、背もたれに引っ掛けていた上着を羽織ってさっさと食堂を出ていった。忙しい、というのは本当らしい。
残された私たちが互いになんとなく無言で目を合わせていると、ティーさんが先程までのもきゅもきゅごっくんをやめてナイフとフォークをテーブルに戻した。
「……ザルツは行っちゃったね」
「んー……」
カトレアさんの言葉に短く頷くティーさん。そして少しだけザルツさんが去った椅子を見つめたあと、一度下ろした手を上げて再びナイフとフォークを取り上げた。そして、先程までの無作法が嘘のように丁寧な所作でゆっくり一口ずつ食事を口に運び始めたのである。
「え、あれ」
「びっくりでしょ?」
思わず目を見開いてティーさんの手元を見ていた私に、カトレアさんが笑いながら言う。
「ほんとはちゃんと出来てるの。この家に来た時からね。知らないのはザルツだけだよ」
食事を用意してくれる厨房の使用人たちや、配膳を担当する侍女たちも知っていることらしい。ツェレッシュ家総ぐるみで当主には内緒なのだそうだ。
「でも、どうして?」
「どっちのことかな。ティーが問題なく食事のマナーを身に着けていることか、それをザルツに隠していることか」
「それは、もちろん両方ですよ」
わざと遠回りして話を一度整理したカトレアさんに内心首を傾げつつも素直に尋ねる。すると優雅ながらも食事に夢中だと思っていたティーさんがここぞとばかりに声を上げた。
「だって、ザルツ寂しがるから」
「え、ザルツバークさんが?」
「うん。ティーはね、ザルツが寂しがるから、仕方なく出来ないフリしてあげてるんだよ?」
「仕方なくって……」
笑っていいところなのか判断に困ってカトレアさんを見ると、彼女は肩を震わせて声を上げずに笑っていた。笑っていいところだったらしい。
「く、くく……そうよね、ザルツが可哀想だもんね」
「うん、ザルツかわいそう」
カトレアさんが笑いを押し殺して言うとティーさんが笑顔で頷く。事情はわからないけど本人が聞いたら泣くか怒るかどちらだろうと思いながら私も遠慮がちに笑った。ティーさんが何かとザルツさんを哀れんでいるのは、なんというかこの家ではお約束のようなものらしい。
「ま、詳しいことはまたあとでね」
それだけ言って食事を再開しようとするカトレアさんに、一緒に笑っていたはずのティーさんが食いつく。
「だめ。リーナはご飯のあともティーと遊ぶの!」
「え? あー、いやー……」
カトレアさんがそう言えば、という顔で私とティーさんを見比べる。また今度と約束したのは確かだが、それを条件に朝食のためと遊びを中断されたティーさんは食後にはすぐまた再開できると思っていたらしい。
私も暇であればティーさんの望み通り遊ぶのは一向に構わないのだけど、カトレアさんの様子からも私にあれこれ説明する時間を取りたいのだろうことはわかるし、私だってこの家に誰が住んでいるかも満足に知らないままではいられない。
「えっと、ティー? 遊びたいのはわかるけど、マリーナちゃんにはうちのこととか色々教えてあげなくちゃいけないし」
「だったら、ティーが教えてあげる!」
「そうきたかー」
あちゃーとばかりに目元を覆うカトレアさん。もちろん家族構成や生活圏の部屋について聞くだけならティーさんに教わるのもカトレアさんに教わるのも、そこまで大きな違いはないだろう。ティーさんも立派なこの屋敷の一員なのだし。
ただ、なんとなくだけど話がそれだけで済まない予感はしていた。
まだ幼いティーさんでは知らないこともあるだろう。家の中のことだけでなく、外のことも含め、ツェレッシュ家の新たな一員となる以上は知っておかなくてはならないことは多いはずだ。
それに――幼い彼女の耳には、入れたくない話も。
「ええと、さ。ほら、ザルツの仕事部屋とかも案内するし、あそこ、ティーは入れないでしょ?」
「お部屋の場所は知ってるもん」
「いやけど、そう、この家は広いし、ずっと歩いて回るのはティーも大変だし」
「平気。疲れたらリーナがおんぶしてくれる」
「え」
「してくれるよね?」
潤んだ瞳でじっと見つめられて思わず頷くと、ティーさんはその表情をすぐさま切り替え、ほら見ろ文句あるか、とでも言いたげにカトレアさんを見返す。しばらくあーとかうーとか唸っていたカトレアさんだったが、結局諦めのため息をつくと一言。
「……とりあえず、お昼までだけね」
どうやらこの家の人達、ティーさんにはすこぶる甘いらしかった。……私を含めて、だけど。
* * *
結果から言えば、ティーさんの同行はそれほど問題にはならなかった。
「すぅ……すぅ……」
「元々体力の無い子だからね」
私の背中で寝息を立てるティーさんを見ながら、カトレアさんがそう言った。一時間ほどかけ、少しせかせかした調子でひとまず屋敷内を一巡した頃、朝からひとしきりはしゃぎ通しだった反動か、ティーさんはぱったりとスイッチが切れたように眠ってしまったのだ。ちょうど邸内の説明を一通り終えたところだったのもあって、私とカトレアさんはひとまずティーさんをベッドで寝かせようと彼女の部屋に向かっていた。
「今日は早起きの日だったからね。そろそろ眠くなる頃だとは思ってたよ」
到着したティーさんの部屋の戸を開けながらのカトレアさんの言葉に首をひねる。
「早起きの日、ですか?」
「うん」
ぬいぐるみだらけのベッドに手早くスペースを確保したカトレアさんに続いてベッドに歩み寄り、見た目以上に軽く思えるティーさんの体をそっと横たえる。眠りは深いのか「んぅ」とわずかに身じろぎしただけで、目を覚ます気配はなかった。
場所を変えて話そう、というカトレアさんの提案に頷いて、私たちは朝食を摂った食堂へ移動する。途中で行き合った侍女にカトレアさんが軽く指示を飛ばすと、食堂に着いて数分と待たずにお茶の用意が整えられる。人を使う、ということに関しては、カトレアさんも間違いなく貴族、王族の一人なんだなぁと思った。
「どうかな、この家には馴染めそう?」
紅茶に一度口をつけて一呼吸置いて、カトレアさんはそう切り出した。
「どうでしょう……皆さん良い人たちで、その辺りは心配していませんけど」
それは間違いない。カトレアさんやティーさんは言わずもがなだが、ザルツバークさんも昨夜や今朝の様子から地位や権力を笠に着て横柄に振る舞うタイプじゃないのはわかるし、屋敷の中で見かける使用人さんたちも皆精力的に仕事に励みながら新参者の私にもにこやかに対応してくれる。人、という点に関しては、この家に対してそれほど心配はしていない。
ただ、不安なことや、気になることは今朝までの間でもいくつもあった。たとえば。
「でも、食事のマナーとか、そういうのはちょっと」
「まぁその辺りは、急に慣れろって言っても難しいわよね」
もともと城下で育った私には「汚く食べない」という最低限のマナーはあっても「美しく食べる」という技術は皆無だ。カトレアさんや、落ち着いていた時のザルツバークさん、彼が退席したあとのティーさんの優雅な食事ぶりを見て、正直それが自分に出来るものなのか不安になったのは間違いない。
形だけを真似ることは少し練習すれば出来るかもしれないが、それが自然にできるくらいに身につくまでにはそれなりの時間が必要だと思う。人は慣れるものだというけれど、そういう意味では私は城下の食事に当たり前に慣れ過ぎている。もっと豪快で、大雑把な「作法」で食事する人が大勢詰めかける酒場で数年も働けば、酒の入った人たちの食後のテーブルなんて汚くて当然と覚えるものだ。それをいきなり、テーブルどころか皿の上すら綺麗にしなくてはいけないと言われて、わかりましたとすぐ実行できるほど私は器用ではないのだ。
「作法については、最低限は私が教えるけど、あとは見て覚えてもらうしか無いかなぁ」
うちは講師を雇うほど余裕もないし、と苦笑が返ってくる。
「まぁさ、事情が事情だし、本格的な社交デビューはもう少し先の予定だから。マナーとか作法については少しずつ覚えてもらえれば大丈夫だよ。うちはそういうの、そこまで厳しくやってないしね」
「そうなんですか? 朝の食事は、皆さんすごく洗練されたように見えましたけど」
「ザルツはまぁ、仕事柄ね。多くはないけど会食とかに参加するし、出来てないと話にならないから。あたしも最初はもっと大雑把にやってたんだけど、出来た方がいいなって思って練習した」
「練習ですか」
「そ。講師をつけるお金が無いのも本当だけどさ、うちはほんとに、マナーとか作法について、うるさく言ったりはしないんだ。でもみんな、結局王族として生きるうちに必要になって、自分で勝手に覚える。講師を雇えない以上、本人が必要だと思った時に勉強しだすのが一番覚えがいい、っていう考えみたい」
だから必要になるまで無理強いはしないよ、とカトレアさんは笑う。厳しい話にも聞こえるけど、納得できる部分もある。昨夜の話ではただでさえこの家に押し込まれた人間は理不尽に晒されているのだ。本人の克己心を促すような教育方針は、家そのものへの風当たりの強さに耐えるために必要なものなのだろう。逆に、そこで折れてしまうような人間では「王族」としては弱すぎるのかもしれない。
「……じゃあ、ティーさんも、テーブルマナーが必要だったのですか?」
「…………」
私の質問に、カトレアさんは目に見えて表情を硬くした。朝に同じ質問をしたときも、ザルツバークさんに秘密にしている理由、の方を出されて躱されてしまった質問だったから、何か言いにくい事を含んでいるのだろうことは予想していた。
カトレアさんの表情は、決して私に隠そうとしている風ではない。ただ、本当にただただ単純に、それを口にすることを好ましく思わない、そんな抵抗を感じさせた。
「……この屋敷の住人は、侍従を除けばあたしたちだけなんだ」
「私たち、というと」
「ザルツとあたし、マリーナちゃんと、ティーだね」
「四人だけ、ですか?」
朝食の席に着いたのもそれだけだったのでもしかしたらとは思っていたけれど、改めて聞かされると屋敷の規模からしても、話に聞く家の成り立ちからしても少なすぎるという印象だった。
「もちろん、ツェレッシュ家と呼ばれる人たちがこれで全員ってわけじゃないけどね。ツェレッシュの屋敷は王国のあちこちに点在していて、各地に少しずつ、親戚が住んでるんだ」
「どうして、わざわざそんなことを?」
そもそもツェレッシュ家は危険因子となる存在を一括りにして監視するためのものではなかっただろうか。わざわざ拠点を増やすようなことを王家が認めているのは不思議だ。
「危険因子を一つにまとめる、っていうのはツェレッシュという名前の役割だからね。貴族の家なら重罪には爵位剥奪やお取り潰しってのがあるけれど、ツェレッシュも同じ、拠点がばらばらなだけで誰かが何かをしでかせば連帯責任。その時点で十分監視は機能してるの」
「じゃあ、拠点を点在させるのは別の理由が?」
「私たちを団結させないためだよ」
「それは……」
思わず息を呑んだ私に、カトレアさんはどこか疲れたような顔で続けた。
ツェレッシュという名で、一族は連帯責任の縛りを受けた。そうなると今度は王家にとって何が一番恐ろしい可能性かといえば、彼ら全員が身の危険を承知で団結してしまうことだ。連帯責任というシステムは単独犯を防ぐ上では非常に強固な縛りとなるが、責任を負うはずの全員が団結した場合には何の力も持たない。
それを防ぐには、互いの意思疎通を困難にし、意思統一が出来ないよう隔絶してしまうのが手っ取り早い。
「そんな」
「内側にいる私たちからしたら、なんでそこまでって憤りたい気持ちにもなるよ。ツェレッシュ家が作られて五百年近く経つけど、その間歴代の当主たちが王家に歯向かおうとしたことなんて一度もない。それなのに、親戚に手紙を出すだけで十は検問を通過しなきゃいけないんだ、うんざりもするよ」
でも、とカトレアさんは力ない声で続けた。
「王国の重鎮たちは未だに恐れてる。五百年前の三王の乱と同じことが起きたら、ってね」
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