マリーナ:序 ④ 燈色の少女
「ふわぁ」
ベッドの上に起き上がって伸びとあくびを済ませると、一日が始まるのだと実感する。
昨夜床についたのは夜の頂を回ってからだったが、それでも毎朝酒場の仕込みに合わせて起き出していた体内時計は正確で、まだ空が薄暗いうちに私は目を覚ました。
さて出かける準備をしなくっちゃ、と着替えを探そうとしてようやく、自分が見慣れない場所にいることに気づく。
「……そっか」
一拍置いて、昨夜の出来事が脳内を駆け巡った。私はもう、あの家にも、酒場にも、行くことは無いのだろう。
「…………そっかぁ」
今度は声にため息が混じる。状況を喜ぶべきか悲しむべきか、まだよくわからなかった。
窓の外を見る。いつものことだけどやはりまだ薄暗い。使用人さんたちはともかく、屋敷の住人であるザルツバークさんやカトレアさんが起き出すにはまだ早い時間だろう。
カトレアさんには「朝食で」と言われていたし、それまでは自由にしていてもいいのだろうか。
少し、屋敷の中を歩いてみようかな。
そう決めてベッドを降り、ひとまずキャビネットを除いてみる。上等とわかる室内着がいくつか収まっていたので、私は着たままだった上着を脱いでガウンを羽織った。というか、他の上等な服は形が複雑で着方がわからなかったのだ。
扉を開けて廊下に顔を出してみるが、少なくとも見える範囲に人の気配はない。静まり返った廊下に物音を立てるのがなんとなく忍びなくて、私はなるべく物音を立てないよう廊下に出て、慎重に扉を閉めた。
さて、どうしよう。
歩き回るとはいってもどこに何があるか全く把握していない。適当にそこらの扉を開けて入ってはいけないと怒られてもいけないので、できることといえばこの長い廊下を歩き回るのと、玄関ホールを見に行くくらいだろうか。屋敷の外観からすると更に上の階がありそうなので、階段を見つけたら三階へ行ってみてもいいかもしれない。
そんなわけでとりあえず玄関ホールに繋がる大階段に向かおう、とそちらへ向き直ったところで、ふと視線を感じた。
「……?」
はて、とキョロキョロ見回してみるが、相変わらず廊下に人気はない。慣れない場所でまだ落ち着かないだけかも、と思い直して再び階段方面に向き直る、と。
「あら?」
「!」
がちゃっと音を立てて扉が閉まった。私の部屋から数えて四つ隣の扉から、一瞬だが小さな顔が覗いていたのが見えた。見間違いでなければ今のは。
「……女の子?」
ちらりとしか見えなかったが、ひょっこり覗いていた小さな顔の高さを鑑みても、大人とは思えない。扉に引っ込む時に残像を残した燈色の髪が長かったのも、少女らしい特徴だ。
この家の誰かの子か、それとも使用人の子か、或いは幼くして侍従見習いに出された使用人その人か、いくつかの可能性は思い浮かんだものの、当主のザルツバークさんとカトレアさんが兄妹であるということ以外にこの家の家族構成について何も知らない私では浮かんだ考えが正解かどうかを確かめることはできそうにない。
結論の出ないことを悩んでばかりいても仕方ない。
私は気持ちを切り替えると、女の子が引っ込んでしまった扉の前に立った。わからないのなら、本人に聞いてみるのが一番手っ取り早い。
「おはようございます」
軽くノックしながら、扉越しにそう声をかけてみる。静まり返った室内からは何の反応もない。
「あの、私、怪しい者じゃないんですよ? 昨夜からこちらでお世話になっていて」
言いながら、あの子にしてみれば私は怪しさ満点じゃないかと思う。昨日のカトレアさんの気持ちが少しわかった。余計に怪しまれるとわかっていても、身の潔白は主張したくなるものらしい。
「ええと……そう、私、ザルツバークさんとカトレアさんの義妹いもうとになったんです。それで昨夜遅くにこの屋敷に案内して頂いて……あ、名前はマリーナです」
名乗っていなかったことを思い出して最後に付け加える。するとたたっと室内から小走りの足音がして、扉がほんの少し、細く開いた。わずかな隙間から、くりくりと好奇心に満ちたまんまるの目がこちらを覗いている。
「……レアお姉ちゃんのこと、知ってるの?」
初めて聞く声は少し掠れていた。緊張しているのか、早朝だからか。元の声は子供らしく高いのだろうと思えたが、その掠れ方に少し違和感を覚える。呼吸する時にも、少しだけ何かをこするような音が混じっていて、風邪を引いて喉を痛めた時の声に似ているような。
「カトレアさん、面白い方ですよね」
とはいえ、初対面でいきなり指摘することでもない。私はなるべく警戒を説いてもらえるように笑顔を心がけて、少女の質問に答える。言ってからカトレアさんに少し失礼だったかな、と思ったけれど少女も同意見だったのかにひっと歯を見せて笑った。うーん、悪戯っ子っぽい笑い方だ。可愛いけれどね。
顔立ちと背格好からすると6歳くらいだろうか。年相応に無邪気そうで、城下の子どもたちとさほど雰囲気が変わらないことにこっそりと安心した。
「……マリーナ、お姉ちゃん?」
女の子が首をかしげる。私も一緒にかしげた。どうなんだろう?
カトレアさんをお姉ちゃんと呼んだということは、少なくとも彼女の娘という訳ではなさそうだ。けれどザルツバークさんの娘という可能性は残っているし、他の住人や従者の娘が年上の女性を姉と慕っているだけかもしれない。まぁその論法でいくなら私もお姉ちゃんと呼ばれていいはずだけれど。
「あなたのお名前は?」
「……ティー」
「ティーさんね。かわいい響きだわ」
おそらく愛称と思われる短い名前を教わる。貴族の名前事情には疎いので、その響きだけではやはり彼女がどういった立場なのかはわからなかったが、なんとなく彼女の明るい燈色に似合う響きだと感じた。
名前を褒められて嬉しかったのか、ティーさんはまた歯を見せて破顔する。その顔が可愛かったから、という訳でもないけれど、この子とは仲良くしたいなぁと自然と思わせる何かがあった。
「ティーさん、私ちょっと早起きしすぎてしまったみたいなの。でも、この家には来たばかりですることが無くって。よかったら、皆さんが起きてくるまで一緒に遊びませんか?」
「いいよ。ティーが遊んであげる」
むふーと嬉しそうに頷くティーさんが微笑ましい。すっかり警戒は解けたようで、すぐに扉を全開にして私を迎え入れてくれた。
「まぁ、可愛いお部屋ですね」
「レアお姉ちゃんがいっぱい用意してくれたの」
招き入れられた部屋はティーさんの私室らしい。広さは私の部屋と同じくらいで、元々配置されていたであろう家具もほとんど同じだ。元は客室として使われていた屋敷だというから、その時にあったものをそのまま使っているのだと思う。
ただ、壁は彼女の髪色に合わせたのか淡い燈色に塗られていて、朝だというのに夕焼けを見ている気持ちになる。ベッドには高級そうなものから手作り感のある少し拙いものまで大小さまざまなぬいぐるみが、特に枕元と足下を中心に所狭しと並んでいる。大半が動物をかたどったもので、色も様々だったので実に華やかだ。
鏡台や事務机はほとんど使った形跡がなく(そもそも椅子の大きさからしてティーさんの身長に見合わない)、一方私の部屋にはないものとして小さな本棚が目についた。
本は高級品とまでは言わないが、城下で暮らしていた私にとってはちょっとした贅沢品で、両親がいくつか持っていたものを読んだことはあっても自分で持ったことはなかった。ティーさんのような小さな女の子の部屋に、小型とはいえそんな本がぎっちり詰まった本棚があることに少し面食らう。仮にも王族の家なのだから庶民感覚で高価なものがあるのに驚く必要はないのかも知れないが、見た目以上にお金がないのだと昨夜聞かされたばかりでもある。お金のある無しという言葉のスケールが庶民とは違うのかなぁ、とひとまずは納得しておくことにした。
「ここ、座っていいよ」
ぽふぽふとベッドを叩くティーさんの言葉に甘えて、ぬいぐるみを動かさないように気をつけながらベッドに腰を下ろす。
こうして個室を与えられているということは、ティーさんがツェレッシュ家の一員なのはまず間違いなさそうだ。となるとやっぱり、当主であるザルツバークさんの娘だろうか。そもそもザルツバークさんに奥さんがいるのかどうかもわからない。
ティーさんはぱたぱたと本棚に駆け寄っていくと、うんしょうんしょと重そうに重厚な装丁の本を一冊抜き出した。本は基本的に革表紙で頑丈な作りだが、この部屋の本棚に収まっているそれらは私が見たことのある本の中でも相当に立派な作りで、単純な革表紙というよりある種の彫刻のように凝った意匠が隅々まで施されている。よく出来た美しい装丁だが、それだけ子供の手には重たいだろう。
軽く息を切らしながらベッドまで本を運んできたティーさんは私の膝にどんと本を乗せ(重い!)、すぐに自分も私の隣に飛び乗ると、ずりずりと私の膝の上の本を引きずって今度は自分の膝に乗せた。
「ティーがご本を読んであげます!」
どうだ、っとばかり自慢げに言うので、私も「わー」と声を出して拍手を贈った。ティーさんは満足げにまたむふーっと胸をそらしてから、いそいそと本を開いた。
彼女の自慢げな様子に応えたいというのもあったが、ティーさんくらいの歳で本が読めるというのは実際に結構な驚きだった。
この国の識字率は周辺国と比べても高い方で、城下ともなれば庶民でもほとんどの人が字は読める。教育を受けない貧民街の人たちですら、口伝である程度の文字は習得しているくらい、生活の中で文字というのは当たり前に用いられているものだ。
とはいえ、本が読めるかというのはまた少し違う話になってくる。会話をする分にはその都度補足するくらいで問題なくとも、文字というのは知らなければ読めないし、発音できても単語の意味がわからなければ内容が理解できない。城下の人たちが文字を使うのは多くの場合仕事のためだ。そのため仕入れに必要な商品の名前や、買い物のための日用品の名前などは流暢に読み書きできても、物語や政治といった生活に必須の事項以外が多く書かれている本をきちんと内容まで噛み砕いて読み解ける人はそう多くない。
私の両親は城下では珍しくその辺りに通じていたから私も多少は本の読み解きに自信はあったけれど、ティーさんくらいの年頃ではさすがにまだ読めなかっただろう。王族ということで教育の水準が違うのか、それとも彼女が特に博学なのかまではわからないが、私の感覚では十分にすごいことだった。
「むかしむかし、お城のあるお部屋で――」
ティーさんが読み聞かせてくれたのは物語の本だった。舞台や登場人物の設定は違うが、城下にも似た話が寝物語に伝わっている、典型的な「お話」で、子供がわくわくするようなちょっとした冒険心をくすぐる部分と、お話に織り込まれた寓話というか躾というか、そういう部分が上手に噛み合った、ありがちだけどよく出来たお話だった。
ティーさんの声は相変わらず少し掠れ気味だったけれど、その違和感と子供らしく少し舌足らずな部分を除けばその語りはとても流暢で、彼女がこのお話を読み慣れていることがよくわかった。
「おしまい、です」
最後まで読み終えて満足げに本を閉じたティーさんに、私は掛け値なしの称賛を込めて拍手した。
「ティーさんはお話を読むのが上手ですね」
「へへへー」
もっと褒めていいんだぞと胸を反らすのが可愛くて、拍手の次は頭を撫でる。嬉しそうにこちらの手に頭をぐりぐりしてくる様子から本当に満足しているのが伝わってきて、こちらも温かい気持ちになった。
「リーナには特別に、もっと読んであげてもいいよ」
「まぁ。ありがとうございます」
いつの間にか私のことも愛称で呼んでくれる気になったらしい。普段は親しい人からはマリーと呼ばれることが多かったけれど、彼女は名前の後ろを取ったようだ。呼ばれ慣れなくて少しむずむずしたが、ティーさんに親しげに呼ばれるのは素直に嬉しかったのでそのまま受け入れる。
「じゃあね、次はあっちの――」
「はいはいそこまでよー」
ティーさんが次の本を取りに行こうとベッドを降りるのと同時に、音を立てて扉が開いた。驚いて振り返ると、嬉しそうな、そしてちょっと呆れたような顔をしたカトレアさんが立っていた。
「朝からティーの部屋が賑やかだと思ったら、もう新しいお姉ちゃんと遊んでたのね」
「レアお姉ちゃん」
楽しい時間を遮られた不満からか、ティーさんがちょっと口を尖らせる。
「怒らない怒らない。大丈夫だよマリーナちゃんはこれからずっとうちにいるんだから。遊ぶのは朝ご飯の後でもできるよ。それより早く行かないと、ザルツが一人寂しく朝ごはん食べなくちゃいけなくなっちゃう。それだと可哀想でしょ?」
言われて外を見るともうすっかり明るい。私たちがお話に夢中になっている間に日はだいぶ昇っていたらしかった。たしかに、ティーさんが読み聞かせてくれたお話は寝物語にする時は子供が眠るまで語って翌晩にまた続きから始めるような長編だった。それを通しで最後まで聞いていたのだから、結構な時間が経っていても不思議じゃない。
「ザルツ、かわいそう……」
一人で食事を摂るザルツバークさんを想像したのか、ティーさんが目を潤ませる。本人は至って真剣だが、こんな形で憐れまれているザルツバークさんに少し苦笑した。
「行きましょうか。次のお話はまた今度、聞かせてくださいね」
「うん。約束」
「はい、約束です」
私たちが頷き合うのを嬉しそうに見ていたカトレアさんに「ほら急いで」と促されて、私たちはティーさんの部屋をあとにした。
ぱたぱたとちょっと危なっかしい勢いで走っていくティーさんを軽く小走りで追いかけながら、カトレアさんが笑った。
「よかったよ、ティーはまだ小さいから、新しい家族に馴染めるか心配だったんだ」
「そうなんですか? とても楽しそうにお話をしてくれましたけど」
「うん、マリーナちゃんがそれを受け入れてくれて良かったよ。あの子はちょっと、うちの家族の中でも難しい立場だから」
「難しい?」
私が聞き返すと、カトレアさんは少し悲しげに眉尻を下げながら続けた。
「あの子の名前はね、ティセリア・ヴァン・ツェレッシュって言うの」
「ミドルネームが……」
貴族ならば、ミドルネームを持つものは多いが、この国では通常それは名乗りに含まれないことが多い。生家よりも嫁ぎ先や爵位を与えられた家名、自分が今現在どの家に属しているかの方を重視するお国柄の性質だ。
ティーさんにミドルネームがあること自体は、貴族の娘として考えれば不思議ではない。まぁ基本的に結婚によって変わる名前があの年頃の子にあるのは珍しいといえば珍しいが、親の家系次第では生まれた時からそれがあるのはおかしなことではない。
親の家系次第では、だ。
「うん、そうなの。あの子のミドルネーム、ヴァンはヴァンクリード、正真正銘この国の正統王家の名前よ」
カトレアさんの言葉に、ティーさんの名前がずっしりと重たくなったような、そんな気がした。
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