それぞれの、

「お姉さま?」


 耳に馴染んだ声で呼びかけられてハッと顔をあげると、ミリーが心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「あの、どうかなさったんですか? お昼からなんだか元気が無いように見えましたけど」


「いえ、少し疲れているだけですわ」


「そう、ですか……」


 納得していない様子ながらもミリーはそれ以上食い下がることはせずに引き下がる。それが有り難い。今は彼女の前で虚勢を張るのも億劫なくらいの気だるさが、私に付きまとっていた。

 クラスの違うエルザは、暇さえあれば私を訪ねてやって来るが、そうは言っても互いにそれなりの立場にある令嬢同士。用事もあれば付き合いもあり、四六時中一緒という訳でもなかった。わかっている、わかっているのだけど。


「話を聞きに、来ると思ったのですけど」


 今日は私が殿下と昼を共にすることも当然知っていたわけだし、昼には来なくともその後どこかのタイミングでは会いに来るだろうと思っていた。しかし実際には、休み時間はおろか同じ時間と空間にいるはずの講義中でさえ、エルザは近寄ってこなかった。講義室で何度か姿は見かけたが、目が合うと微笑んで手を振ってくるだけで、話しかけてもこなかった。


「……何を弱気になっているのですか、私は」


 何をされたわけでもない。どちらかと言えば私はマリーナに対して「何かした」側なのだろう。それにあの場で起きたことをありのままエルザに話す気にもならない。何を話すかも明確じゃないのに、話を聞いて欲しいなんて。そんな矛盾を抱えるほど、私は気が弱っているのだろうか。

 いけない。そんなのは私じゃない。クレアラート・エルトファンベリアは、そんなに弱い人間じゃない。


 弱い人間では、いけない。


 自分に言い聞かせる言葉はこれまで当たり前に繰り返したものだったけれど、今日はなぜか、いつもより重く感じた。



* * *



「ぅあー……」


「屍者が甦ったみたいな声だな」


「失敬な」


 からかうようなドールスの言葉に唇を尖らせる。仕方ないじゃない、今日はクレア分が足りてないのだ。


「そんなに気になるなら、会いに行けばいいじゃないか」


「そうしたいけどー……うう」


 そうしたい、のだけど。


「全部私が出しゃばっていい問題でもないって、ドールスだって思わないの?」


「思わんね。全部なんてやろうとしたって無理だろどうせ」


「そういうことじゃないでしょ」


 そういうことじゃない。自分で言いながら便利で的を射た言葉だと思う。

 複雑さをぼやかして輪郭だけを残して、都合のいい形で飲み込めるようにする。自分にとって都合がいいというのは、自分にとって真実だということだ。的を射ているのも確かだ。

 クレアには言わなかったけれど、今日一日は私の方から会いに行かないと決めていた。


 今回のこと、クレアに殿下へのお弁当づくりを提案したのは最初から最後まで私のワガママだ。クレアが望んだわけでもなければ殿下がそうして欲しがったわけでもない。

 だから、最後までそのまま歩ききってしまったら、それで満足するのは私だけだ。クレアに残るのは、私のワガママを聞いてあげた、というそれだけの思い。


 それではいけない、と思った。


 私が頼んだのは本当で、クレアが望んだわけじゃないのも本当。だけど、最終的にそれを選んだのはクレアなのだ。自分で選んだ結果がそこにある。そのことをクレアにはよく考えて欲しかった。

 別に全部が全部、私の思う通りに進んでくれなくていい。ただ、エルトファンベリアの名前と関わりのない場所でクレアが選んだその結果を受け止めて、咀嚼する時間を、彼女にはしっかり持ってほしかった。そのために、私は今日一日くらい、ガマンするべきだろうと思った。


 思ったの、だけど。


「声が聞きたーいー……」


「クレアラート嬢のこと、好きすぎじゃないか」


「悪い?」


「悪くない、って言ったら俺がアニーを好きなのも許してくれる?」


「許すとかじゃないのよ、迷惑ってだけ」


「それ許さないよりも厳しいな」


 ドールスは苦笑いする。

 私が何を言っても、あるいは当事者であるアニーが何を言ったとしても、アニーを好きだというドールスの気持ちがブレたところを私は見たことがなかった。


 考えてみればドールスのそういうところは、私がクレアに持って欲しいと願っている強さと同じ形をしている。仮にも子爵令息であるドールスが、周囲にどう見られようと当人に袖にされようと、ただのいち庶民出身のアニーを好きだという気持ちをただの一度も偽らなかったように。何の陰りもなくその気持を持ち続けているように。

 家も立場も周囲の視線も関係なく、自分にとって大切なものを大切だと言える強さを、クレアに持ってほしいと願うのも、ワガママなのだろうか。


「はぁ」


「悩ましいため息だな」


 実際、悩ましいのだ。いろいろ考えたところで、前世の記憶を手にしてからの私は行き当たりばったりでここまで来ている自覚がある。緻密な計画を立てられるならそれに越したことはないのだろうけど、そんな黒幕めいた真似が出来るほど私は人心掌握に長けている訳ではなかった。

 記憶を取り戻す前の自分やゲームのエルザベラを振り返って、完璧令嬢というのは魔除け代わりだったのだと思う。高嶺の花でいさえすれば、誰もが一定以上の距離をもって接してくる。気を許すのはドールスやアニーのようなごく一握りの相手で、だからこそ私はずっと完璧でいられた。


 でも、クレアと関わるというのは、そんな風に他人事でいられるものじゃない。

 前世の私の経験も、エルザベラとしての経験も、誰かを「変える」なんて大それたことが出来るほど高尚なものは見当たらなかった。

 だから手探りで、成功しているのか失敗しているのかもわからなくて、不安で、それらをひっくるめて、悩ましい。


「私、上手くやれてるのかしら」


 迷いでも躊躇いでもないけれど、ふとした時に立ち止まってしまうのだった。


「あのな、エルザ」


「なに?」


「お前はきっと、思う通りにやればいいと思うぞ」


「……なによ、急に」


 見ると、ドールスは気恥ずかしそうに首のあたりを軽く引っかきながら続ける。


「別に、お前のやることが全部正しいなんて言うつもりはないがな。それでも、お前はきっと最後には、ちゃんと正しい答えに辿り着くよ」


「随分優しいこと言うじゃないの。らしくないわ」


「俺がそうだったからな。多分、アニーもだろ」


「…………」


 言われて、少しだけ納得する。

 二人の事情は、それぞれから概ね聞いている。私が関わった結果、彼らの心境がどう変わったのかも、本人たちから聞いたことがあった。

 その全てが私の力ではなく、運やめぐり合わせによるところはかなり大きい。ただ、それでも彼らは私がいて良かったと言ってくれている。今も昔も。


「エルザが正しいと思ったことに、俺もアニーも救われてる。だから多分、クレアラート嬢も救える。お前はそういうヤツだよ」


「ドールス」


「ん?」


「あなた、結構いいやつだったのね」


「気づくのが遅せーよ」


 ニヤリと笑って嬉しそうに言う。私が彼らを救ったのなら、その分私もきっと彼らに救われている。

 願わくばクレアと私の関係もそうありたいと、思った。



* * *



「…………」


 教室は、嫌いだ。人が多くて、そしてその全員が、私を腫れ物のように扱う。

 明確に嫌がらせをされたわけじゃなく、陰口を叩かれている様子も、少なくとも私に気づける範囲ではない。けれどそれを幸運だと思えるほど、私は出来た人間じゃなかった。

 元庶民であり、現王女。そんなの、私だって隣にいられたら困ってしまうけど。

 自分がそうなってみても、やっぱり困るのだ。望んでそうなったわけじゃないのだから、胸を張ることもできない。


「ユベル様……」


 数少ない「友人」と呼べる相手を思い浮かべたら、無意識に声になって口からこぼれていた。はっとして周囲を見回すけど、幸い誰かに聞かれた様子はなかった。


 いけない、教室では波風を立てないように気をつけていようと思ったのに。

 表情はあまり変わらないけれど、ユベル様は私に友人として接してくれる。王子と王女という関係がそうさせているとわかっていても、それでも私は彼に救われている。それと同時に、甘えているのだと、自覚もしている。

 だけどこんな息詰まる教室と、肩の凝る王宮とだけで生きていくことは私には難しかった。私はそんなに、強くない。

 でも、だからって、あんな言い方はするべきじゃなかった。


「はぁ」


 背が曲がらないように姿勢を気にかけることに少しは慣れたつもりだけれど、ため息をつく時は、流石に肩が落ちた。


『クレアラート様には、関係ないことですから』


 つっかえながらだったけれど、私はハッキリとそう言ってしまった。

 関係ないわけがない。彼女の婚約者と、私は何度も二人きりで会っている。何か特別な事があったわけじゃないけれど、そんなことは何の言い訳にもならない。


 間違っているのは、私だ。


 でも、だからって、我慢することが出来るかと言われればそんなことはなくて。

 せめてクレアラート様かユベル様のどちらかが、婚約者を本当に大切に想っているならきっと諦められたのに。そうやって責任をなすりつけてしまうのは弱さだろうか。

 確かに傍目から見て二人はお似合いだ。お互いに立場も能力も申し分なく、容姿だって際立っていて、並んで立つ姿はそれはそれは絵になる見事さだ。芸術的なカップルだとさえ思う。


 だけど、二人の目はいつだってお互いを見ていない。


 エスコートのため腕を組んでいようと、パーティで婚約者として踊っていようと、笑顔で談笑していてさえ、あの二人はどこか他人めいている。婚約者としての親密さなど欠片もないその関係は、私の心にどうしても凝りを残す。


 なぜ、私ではいけないのか、と。


 ユベル様が私を好きになってくれるかは分かりようがない。それでも私なら、きっとあんな風に温度のない関係にはならない。

 ユベル様が好きでもない人と、彼を好きでもないクレアラート様は一緒にいられるのに。ユベル様の持つどこか不思議な温かさを望む私に、その権利はない。

 わかっている。個人の感情を優先するなんて、王族にも貴族にも許されない。今や私もその一人なのだから、つまらない嫉妬に固執してツェレッシュ家のみんなに迷惑をかけるわけにはいかない。


 わかっている。でも、わからない。


 庶民だった頃の私が自由に好き勝手生きていたわけではない。出来ることはたくさんあったけれど、立場や経済事情から出来ないことはその何倍もあった。

 でも、あの頃は心だけは自由だった。何を想っても許された。それが、今は。


「想うことも、間違いなのかな」


 嫉妬、なんて感情を初めて自覚した。

 貴族としての格、婚約者の立場、周囲からの承認。私の欲しいものを、たくさん持っている人がいる。それなのに、彼女はいつも。


「どうして、あんなにつまらなそうにしているの……?」


 誇ってくれればよかったのに。自慢してくれればよかったのに。そうすれば、罪悪感なんて知らないまま、思い切り妬むことだってできたのに。

 クレアラート様は自分を誇り、私を貶めるけれど、いつだってそれは私と彼女の問題だった。彼女はユベル様の婚約者であることを、一度だって私を貶す理由にしていない。


 気に入らないから。


 彼女の鋭い感情は、鋭いからこそ真っ直ぐで、偽らない。

 想いを隠してユベル様と関わり続ける私とは、違う。

 思うままに人を傷つけられる彼女のそんな真っ直ぐさだけは、どこかユベル様と似ていた。

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