婚約者といっしょ
段取りは思いの外すぐに整った。
否、整ってしまった、と正直に言うならばそんな心境だった。
「……わかりましたわ。では明日に」
「はい、食材の用意はしてありますので」
そう言って、さらに二言三言の段取りの確認を終えると、リムは一礼して退出した。彼女の前で溜息をつかなかったのは、せめて令嬢としての威厳を損なうまいとする私の挟持の賜物だった。一人だったら確実にベッドで項垂れていた。
というか、項垂れた。
「嫌なことほど早くやって来るものですわね……」
そしていざやって来たら過ぎ去るのは牛歩より遅いと相場が決まっている。まったく、うんざりだ。後の王妃としての義務というならば気合も入るが、いうなればこれは「善意」の類。間違っても必須の行いではないというのに。
「まぁ、それでも失敗はできませんわね。エルザの顔も立てなくてはいけませんし」
友人の顔を思い浮かべて、少しだけ気持ちが軽くなった。まぁ、先ほどリムを通じて私をうんざりさせる知らせを届けたのも、その友人なのだけど。
リムが持ってきた報せは、殿下との昼食の約束が無事取り付けられたという内容だった。
私が直接頼んでも良かったのだが、エルザのとりなしで彼女と殿下の共通の旧友であるナエラディオ家の令息が間に立って都合をつけるという運びになった。どんな些細なことであれあんな下級貴族に物を頼むというのは不愉快極まりなかったが、エルザの「じゃあつっけんどんにならずに殿下を自分から誘える?」という質問に閉口してしまった時点で選択肢などなかった。
これでも棘のある物言いが癖づいていることは自覚しているのだ。殿下に対してはもちろん対応に気を遣ってはいるが、食堂の一件では前科もあり、エルザに何とかしてもらったようなものだ。考えなしに大丈夫と頷くにはちょっと厳しいものがあった。
そしてそのナエラディオ子爵令息から、またエルザと、そしてあの銀髪のメイドを通じてこちらに連絡が届けられた、という訳だ。
あれからいくらか練習したとはいえ料理のレパートリーはまだ多くないので持参するお弁当のメインはまたハンバーグを予定している。
「……ま、あの子があれだけ喜んでくれるなら味は心配ないわよね」
人それぞれ好みの違いはあるだろうけれど、エルザは味も保証してくれたし、多少私に甘いところがあることを差し引いても味覚がおかしいわけではないハズだし。それならそのままの味付けでも問題ないだろう。
と、いうか。
「あの子が喜んでくれたんだから、そのままでいいですわよね」
変えなくてもいい、というより変える気にならない、というヤツだった。
* * *
「……それで? どういう風の吹き回しだ」
「どう、といいますと?」
いくつかある中庭の一つ、いつもなら人の集まりもそこそこな人気スポットだったが、今日は人気もなくひっそりしている。恐らく、エルザかナエラディオ令息あたりが事前に殿下が今日この場所を利用することを吹聴していたのだろう。気が回るのか、お節介なのか。
「ドールスに言われて来たが、昼食の誘いだというのに食事の用意は必要ないと言われた。それもこんな場所へわざわざ呼び出して、二人でだと。何か、俺に用でもあるのではないか?」
私も大概だけど、殿下の対応にも問題があるように感じるのは私だけじゃないわよね。婚約者に呼び出されてすぐ用事は何だって……いや、逆の立場なら私もそうか。絶対何の用だって聞くわね。
エルザが言っていたのはこういうことなのでしょうか、とぼんやり考える。わかるような気もするけれど。
「……どうにかしたい、ともやっぱり思えませんわね」
「ん? なんだ?」
「なんでもございませんわ。今日は――」
――今日は、何だ?
エルザの提案でお弁当を用意した。多少なりともこの関係をどうにかすべきかもしれないと思わないこともなかったし、それもいいかなと納得もした。
けれどそれをそのまま伝えるのが正解なのかというと、それは少し違う気がした。
「どうした?」
「先日のお詫びも兼ねての、ちょっとしたおもてなしですわ」
なんというかこれを言う時の私は概ね言い訳に使っているな、と少しの後悔が過った。エルザと殿下に同じ言葉で対応するのが、少し不愉快に思える。どちらに対してなのかは、わからないということにしておくけれど。
「もてなし?」
「はい。本日の昼食は、私がご用意させて頂きました」
そう言って持参したバスケットを指し示すと殿下が首を傾げる。
「……エルトファンベリア家の昼餉としては、随分シンプルに思えるが」
「申し訳ございません。本来ならもう少し手の混んだものをご用意するべきだと思ったのですが、何分不慣れなことですので」
「不慣れ? まさかこれは」
「はい、私の手料理ですわ」
「…………」
呆気に取られた様子でまだ中身もわからないはずのバスケットを凝視する殿下は、さすがにちょっと失礼だと思った。
「まさかとは思うが、薬でも盛っ――」
「殿下?」
「すまない、冗談だったんだが」
下手くそ。
「何なら毒味致しましょうか? 私は構いませんけれど」
「いや、それには及ばん。さっきのは本当に冗談だ、これでもお前のことは婚約者として信用している」
「……そうですか」
少し意外だ。婚約者として信用している。それは私も同じだが、そういうのは私達の間では口にしないものだと思っていた。互いにそれ以上のものを求めてはいなかったけれど、そんな事務的な関係であることを相手に伝えることには遠慮があった。割り切った関係であるなら言っても問題ないだろうに、それをしなかった理由は何だったのだろう。そしてそれを、今になってこの場で口にすることに、どんな意味と意図があるのだろうか。
この信頼は、私と殿下に変化をもたらすものなのだろうか。
「まぁ、それなら良かったですわ。どうぞ、まだ少し不格好でお恥ずかしいのですが」
「……いや見事なものだ」
取り出された私の弁当を見た殿下の表情は淡白だったが、こういうことで過剰にお世辞を言うタイプでもない。これは本当に驚いているらしい。
「どんなゲテモノを想像していたんですの?」
「むしろお前が作ったのか疑わしいクラスの完璧なものが出てくるかと思っていたんだが、本当にお前が一人で用意したんだな」
「失敬ですわね、たとえ多少見目が悪くても人の手を借りたものを自分の作と偽るほど恥知らずではございませんわ」
「そうだな。ああ、お前はそういうやつだった」
そういうとはどういうなのか、聞いてみたい気もしたが、結局飲み込んだ。踏み込むということは、踏み込まれるということだ。きっと私はまだそれを、一人の友人にしか許せていない。覚悟もなしに口にするには、その言葉はきっと鋭すぎる。
「ん、美味いな」
「光栄ですわ」
「ああ、本当に美味い。驚いた」
「……なんだか悪意を感じますわね」
「すまない、冗談だ」
「どこからかは聞かないでおきますわ」
……意外だ。殿下との間でこんな軽薄な会話がポンポン行き交うとは思わなかった。エルザやミリーとするそれとは少し異なるが、同時に近いものも感じる。
エルザの進言通り、確かに手料理を一緒に口にしたことは私達の間に一種の気安さをもたらしはしたのだろう。他人行儀なのに比べたら、きっと良いことなのだろう。
だろう、けれど。
「…………」
「どうかしたか?」
『クレア? どうしたの?』
……違う。なにかが、私の胸にストンと落ちずにつっかえている。
料理を認められるのも、気楽な会話がかわされるのも、狙い通りの展開で十分に満足の行くものだったはずなのに、何かがまだ足りないと思える。
『美味しいよぉ……』
どうやら満足感と、幸福感は別物らしい。
けれど、こんなものなのかもしれないとも思う。そちらの感慨は、あっさりと腑に落ちた。これまでの淡白な関係から、一歩の前進。進展ではなく、歩み寄りの一歩。
私達の関係はどこまでも事務的なままで、それでいいとお互いに思っている。けれどそれは、事務的な会話だけで互いに円滑に過ごせる訳じゃなかったのだろう。
きっと変わらずにいれば誤解や行き違いがあり、それは関係を悪化させることはあっても良くすることはなかった。だから進展ではなく改善と維持。それに取り組むのはきっと間違ってない。
けれどそれは正しさであって、「私」の望みではない、なんて。
「ほんと、私もどうかしていますわね」
殿下に聞こえないように呟いた。私の望みだなんてそんなもの、私と殿下には必要ないもののはずだ。そんな余計なことを考えていることを知られるのは、どうにも我慢ならなかった。
或いはそれも私の望みなのかもしれない。
胸の内なんて知られたくない。私にとって殿下との関係は、その手前までで丁度いい。その手前までが、少なくとも今の私が許せる限界だ。そしてきっと、それは向こうも同じだ。
言葉遣いや態度は気にしない。踏み込んではいけない場所に足跡をつけさえしなければ、私達はこのまま変わらずにいられるのだろう。だから、線だけきっちり引いていれば、それでいい。
「……馳走になって悪かったな。美味かった」
「私から言い出したことですから。というか、早かったですわね。そんなに急がなくても良かったですのに」
「なに、本当に美味かったからな。手が止まらなかったというのが実際のところだ。よければ、また作ってもらいたいくらいだ」
「機会があれば、ということにしておきましょう。私も暇ではございませんから」
「知っている。次があれば、また堪能させてもらおう」
「では、私はこれで」
「もう行くのか。まだお前の分は残っているようだが」
私が閉じた弁当入れを一瞥して殿下が首を傾げる。けれどここに残るのだって正直困る。今は弁当という共通の話題はあるが、それ以外で私達に気安く交わせるような雑談の種はない。
殿下からは味の感想と、感謝と、少しばかりの気安さを既に受け取っている。ここらが潮時だろう、と察したまでのことだ。
「殿下はどうぞ、ごゆるりとお休みください。人に囲まれていないのは、久しぶりなのでは?」
「……そうだな。今回はお前の気遣いに甘えよう」
「そうしてくださいな。では、ごきげんよう」
バスケットに二つの弁当入れを収めて、私は中庭を後にする。
喜びはないけれど、そこに確かな達成感はあった。十分な成果は出せただろう。任務を遂げたという充足感を覚えてゆっくり教室へ向かう、と。
「ぁ、クレアラート様」
「……マリーナ様」
見たくもない顔に、出くわすこととなった。
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