2章

信頼

 嘘だ、と心のどこかではそう思っていた気がする。私にとって、善意や好意というのはすべからく嘘であって然るべきものだったからだ。


 別に、耳触りの良い言葉を吐くものが私やエルトファンベリア家に対して必ずしも一物抱えていると、そんな風に全方位を敵と睨んでいるわけじゃなくて、私を褒める言葉、私を好意的に見る視線、私を敬う言葉、その全ては我が家への畏敬の念がさせることで、私がさせていることではない。


 そういう意味で、私にとってそれらは嘘であった。

 だから、私はずっと疑っていた気がする。エルザベラ・フォルクハイルの好意もまた、私ではなく我が家に向けられたものなのではないかと。


 もちろん、そうではないのだと彼女は何度も主張した。言葉でも、行動でもだ。

 お茶会での贈り物も、殿下から逃げてしまった私を追いかけてきたことも、これまで知り合った他の誰もしなかったことだ。

 だから私を追いかけて彼女が中庭に現れたとき、例えその言葉や振る舞いの真偽がどうであったにせよ、私は彼女を受け入れてしまうのだろうという予感がした。絆される、というやつなのだろう。たとえ彼女の言動の全てが偽りであっても、そこに救いを感じてしまった私がいたのだから。


 けれどそれだけだった。


 受け入れるのだと納得はしたけれど、それでもまだ信じきれてはいなかった。彼女との関係をきちんと定義しようと週末に約束を取り付けたが、その時にはまだ、エルザベラという少女は私にとってミリーやリムのような、周囲よりも少しだけ気安い関係になるだろうと思っただけなのだ。


 もちろん、エルザベラという存在を二人と同じように感じたわけではなかったけれど、令嬢同士の友情なんてたとえ互いの気持ちがどれほど真摯であったとて家には抗えないのだから、そこには必ず限界の壁がある。それ以上を望んだところで、私が令嬢である限りこの手は届かない。だから、手に入るもので満足するべきだ。

 努力して手に入るものは星の数ほどあるけれど、努力して手に入らないものも確実にあるのだと、私の人生が物語っている。


 だからそれで納得していた。エルザベラという少し……いや大いに変わり者の令嬢との関係が世間的に「友人」と呼ばれるそれであればいい。それで満足できると、そう思っていたはずなのに。


「は? なんですって?」


 だから屋敷へ戻ってその話を聞いた時、思わずそんな剣呑な声が出てしまったのは、何も報告してきたメイドに悪意あってのことではないのだと弁明したい。使用人に頭を下げるなんてエルトファンベリア家の長女として絶対に出来ないのだけど。


「すみません!」


「謝罪は結構ですわ。私は問い返したのです、もう一度報告なさい」


「は、はい。フォルクハイル侯爵令嬢さまが、食堂で第一王子殿下を罵倒したとのお話が広まっておりまして……」


 お茶会に引き続き一緒に行動していた私に、今後の対応を考えるために報告した、という次第らしい。


 確かに公爵令嬢としてもユベルクル殿下の婚約者としても、自分の身近な人間が王子に罵声を浴びせたというのは問題だ。スッパリと関係を断つか、あるいは付き合いを続けるにしても何かしらの注意や対応は必要だろう。

 けれど私はその報告を聞いて、その後の対応よりもその中身の方が気になってしまった。


「……彼女は、何を言ったのですか?」


「はい?」


「エルザベラ嬢ですわ。彼女は殿下に、一体何を言ったというのです?」


 ある種の予感めいたものはあったのかもしれない。彼女ならあるいはという、期待にも似た、そんな予感が。


「それは、その」


 言いよどむメイドを目つきに険を込めて睨む。早く言え、という私の意図は正しく伝わったようで、彼女は慌てて口を開いた。


「私も直接見たわけではありませんが、報告では、殿下を『バカ王子』と……その、『クレア様を不幸にするバカ王子なんか、私は絶対に認めない』と凄い剣幕だったそうです」


「……そう。わかりました、報告はもう結構ですわ。下がりなさい」


「は、はい! 失礼します」


 メイドが退室してしっかりと扉が閉じたのを確認した途端、足の力が抜けてストンとその場に座り込んでしまった。自分の部屋でよかった、とぼんやり考える。


「私を不幸に、ですか」


 そんなこと、一体誰が気にしただろう。他ならぬ私自身が、自分の幸福なんて秤にかけたことすら無かったのに。私より、お父様より、殿下より、最も優先されるべきは「エルトファンベリアの名」だ。個人よりも、主君よりも、何よりもまず家名が優先される。なぜならばそれは今を生きる私達よりもずっと後の世代にまで繋がなければならないものだから。……貴族の家に生まれるということはそういう価値観の下で生まれることだ。

 それなのに、私が不幸だとか、幸福だとか、そんなことのために王子殿下に喧嘩を売るなんて、なんて馬鹿な真似をするのでしょうか、あの子は。


「ふふ、あはは」


 口の端から笑いが漏れて、何が可笑しいのかわからないのに、笑っている自分がなんだかもっと可笑しくて、少しずつ笑いが大きくなる。


「は、っはは、あははは!」


 笑う。可笑しい。可笑しすぎて笑いが止まらない。止まらないのに。


「はは、は、ふふふ、ひ、ひぐっ」


 ――なんで私は、泣いてるんだろう。


 笑い涙じゃない。笑いと一緒に溢れる涙じゃなく、喉が引きつって胸が痛くて目尻から熱いものが溢れる。可笑しいのか、嬉しいのか、悲しいのか、もう自分のことが何もわからない。


「ぐすっ、ひひ、はは、は、はー……貴女には負けたわ、エルザ」


 するりとそんな言葉がこぼれて、私はまた少しだけ笑った。


 彼女と、友だちになろう。


 上辺だけじゃない、令嬢としてじゃない、家名を懸けてでもない。ただ純粋に、私として、エルトファンベリアではないただのクレアラートとして。

 机の上に乗った首飾りを一瞥して、私は決意を固める。

 まずは何から始めようか。

 彼女を真似て、首飾りに相応しい赤を纏うところから始めるのがいいかもしれない。きっとその赤は、もう私にとって劣等感ではない、純粋な憧れの色に変わっているから。


「約束は週末ですもの、準備を急がなくてはいけませんわね」


 私が望んで、この手を伸ばす。なんだか柄にもなく、その新鮮さにわくわくする私がいた。

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