鼓動

Side:Villain


「おやすみなさいませ、お嬢様!」


「ええ、あなたも疲れたでしょう、ゆっくり休みなさいな」


「はい!」


 ぴょこん、と元気に可愛らしいお辞儀をしてリムが退室するのを見送り、私は背中からベッドへ倒れ込んだ。ぼんやりと天蓋を見上げながら、今日の出来事を思い返す。


『たとえこの身がお傍にいられない時も、私の心はクレア様の元に』


 まるで愛の告白のような言葉だった。芝居がかって、けれどなぜか白々しさは感じなかった。いいえ違う、あれは確かに真摯な言葉だったように思える。


 正直に言って、訳がわからなかった。


 エルザベラ・フォルクハイル。私は彼女が嫌いだ。

 家柄で我が家に劣りながらその振る舞いは常にスキがなく完璧で、高嶺の花と言われながらいつも人に囲まれ、社交の場では私を差し置いていつの間にか会場の中心に収まっている。

 それだけならまだしも、私がよその令嬢に絡んでいると必ず見計らったようなタイミングで現れて邪魔をする。義務感か正義感か知らないけれど、どちらにしたって迷惑な話だ。私にとって、家柄を、我が家の力を示すのは必要なことなのに、あの女のせいでここしばらくはどうにも上手くいかない。

 マリーナ王女さえ圧倒するエルトファンベリアの娘、という風聞は悪くないと思ったのに、前回も、今回も邪魔をしてきた。本当に、忌々しい。


 忌々しい、はずなのに。


『クレア様からは甘い匂いがするのですね』


 抱きしめられたのなんていつぶりだろうか、なんて、そんなことを考えてしまう自分にうんざりする。

 いつぶり? そんなこと考えるまでもないじゃないか。白々しいにもほどがある。あんな風に抱きしめられたことなど、物心ついてから一度も無かったことは私自身がよく覚えているというのに。


「……なにを考えていますの」


 愚かな考えを振り払うように軽く頭を振って自分を戒める。

 抱きしめられたことがない? それがどうしたというのか。その経験が無いのは、それが私に、エルトファンベリアの娘には必要がないからだ。


『クレア様を想う気持ちでは誰にも負けない自信がありますから』


 …………必要ない、はずなのに。


 気づけばその言葉と挑戦的な微笑みを、何度も思い出してしまうのはどうしてなのだろう。何度だって思い出したいと、私自身がそう思ってしまうのはなぜなのだろう。

 私を想う、なんて。そんな言葉は初めて聞いた。だって私を想うということはすなわちエルトファンベリアに傅くことだと思っていたし、私の知る睦言とはそういうものだった。


 愛の言葉を囁かれたことなどいくらでもある。けれどその連中だって私が殿下の婚約者であることなど百も承知で、愚かな火遊びに興じているだけだ。あわよくば私に気に入られて、エルトファンベリアを後ろ盾に得たいだけだ。

 誰もが私を通して家を垣間見る。だから私は何よりもこの名を、エルトファンベリアという名を、傷つけないように振る舞わなくてはならない。それが、私にとっても私以外の誰にとっても、当たり前のことだ。当たり前のことなのに。


『でもクレア様、私のような令嬢をいじめるの、お好きでしょう?』


 からかうような声に滲む、隠しきれない親愛の色。あんなこと、言われたことがない。失礼極まりない言葉のはずなのに、それがどうしてか心地いい。

 だって、それはまるで私という個人に向けられた言葉のように聞こえたのだ。互いの家名など関係ない、とても無作法であまりに気安い言葉に聞こえたのだ。


 ……ああ、やっぱり私は、彼女が嫌いだ。


 たったあれだけの言葉で、まして一度言われただけのそれをこうして思い返すだけで、際限なく私の胸を温めてしまう。小さな蝋燭の火のように弱く不確かに揺れて、それでも私の鼓動を何度だって跳ねさせる。


「とも、だち」


 彼女が求めたものを口にして、胸だけでなく顔までじわりと熱くなる。

 友人と呼べる人間はいるけれど、その誰一人として私をからかおうとなんてしなかった。ましてあんな、髪が乱れるほど抱いて嗅いで――っ、いえ、それはいいわ、忘れましょう。ていうか忘れさせて、お願いだから。


 少しだけ、けれど確実に早まる鼓動の音を感じていながら。

 入学式を待ち遠しく思う自分に、気づかないフリをする。


 どこまで行っても、私はエルトファンベリアなのだと、浮かれる自分に言い聞かせて。


 ――入学式まで、あと七日――



* * *



Side:Heroine


 正直に言って、気が重い。


 そりゃ、私だって健全な町娘だったのだし、幼い頃にはお姫様なんてものに憧れたりもした。あるいはそんな幼い日の私だったら、王家の一員として王城に暮らすことになるなんて夢のようだと目を輝かせたのかもしれない。


 けど、そんな時期はとっくに過ぎ去ってしまっていた。


 十六にもなれば、というか十を数える頃にはもう自分の立場や暮らしぶりに夢を見るのなんてやめていて当然だ。身分というのはこの社会に於いて当たり前に絶対で、一度理解してしまえばそこに空想を差し挟む余地などない。

 それでも、身の丈に合った城下の暮らしには満足していた。貴族や王族のようにきらびやかでは無かったとしても、そこには確かに幸福があった。日々の中に喜びを見つけて、人並みにやりたいことがあって、人並みに生きていた。

 それが当たり前になってしまえばもう、子供の頃に見たきらびやかな夢なんて、ただの気恥ずかしい思い出に過ぎない。それが現実になってほしいなんて、ちっとも思わなかった。

 だというのに。


「……はぁ」


 人気がないのは確認済みだったので、遠慮なしのため息を吐き出す。お城では憂鬱を顔に出すことも許されない。正直、下町娘の私が暮らすには堅苦しすぎた。

 新しく家族になったツェレッシュ家の皆さんがいい人たちだったのは救いだけれど、彼らと気安く接することが出来るのも一日のうちの僅かな時間だけだ。


 服が汚れるのも気にせず木陰に座り込んでぼーっと空を見ている私を、王女だなんて誰も思わないだろうな。私だって私が王女だなんて思ってないのに。

 こんな姿をエルトファンベリアのご令嬢に見つかったらまた嫌味を言われるのだろうか。でも、それでもいいかなと少し思う。私が王女に相応しくないなんて私が一番知っているのに、それを言葉にするのはあの人だけだ。


 クレアラート様の言葉は、正しい。


「王女さま、かー……」


 学院には中庭がいくつかあって、ここはその一つ。色とりどりの花が咲き乱れていたり、小川が流れていたりする庭も見かけたけれど、どこも歓談する学院生たちで賑やかだった。人気のない場所を求めて彷徨って、気づけばこの寂れた中庭に座っていた。


 明日は入学式だけど、二年生として編入する私はこうして前日のうちに学院の門をくぐっていた。

 私が二年生だからもちろんだけどクレアラート様もエルザベラ様も私より一つ年下。うう、年下の女の子に泣かされたり庇われたり、情けないなぁ私。


 ああやってパーティーや舞踏会に出るたび、同世代の令息や令嬢とは踏んできた場数が違うと思い知らされる。

 特にあの二人、クレアラート様とエルザベラ様の二人はもう、年齢なんか関係なく私よりずっと大人だ。

 姉のよう、といえばそうなのかもしれない。躾けの厳しいツンとした次姉と、それを諌めてくれる大人びた長姉、かな。


「お姉ちゃん――なんて、ね」


「姉がいたのか?」


 思わず勢いよく振り返った。誰もいないし誰も来ないだろうと安心しきってひとり言を漏らしたのに、まさか人が来るとは。

 しかも。


「……殿下」


 よりによってそこにいたのはユベルクル・ヴァンクリード第一王子殿下。付け焼き刃の王女である私とは違う、正真正銘の王子さまだ。


「ああ俺だ。ちなみに、兄上と呼んでくれても構わない」


 サラリとそんなことを言われて面食らう。数秒経って、やっとそれが先程の呟きにからめた冗談だと思い至る。む、無表情なんだもの、冗談がわかりにくいわ。


「それは……その、畏れ多いですわ」


「そうか? まぁ無理にとは言わないが。しかし殿下とはずいぶん他人行儀ではないか」


「いえあの、そもそもこうしてお話するのは、初めてだと思うのですが」


 そう、なぜか気安い感じで声をかけられた上にわかりにくい冗談までかまされてしまったが、私と殿下はこうして直接言葉を交わしたことはない。


 同じ王城に暮らす者同士とはいえ、私は勉強や稽古でいっぱいいっぱいだし、殿下は学院生であることに加えて公務もあるから私よりも遥かに忙しい。そして私は分家であり王城の厄介者一族の新参者、対して殿下は第一王位継承権を持つ現王の長子。

 接点なんてあるわけないでしょうに。


「そう畏まるな。姓は違えど家族のようなものだ。歳は……同じだったか。ふむ、妹ができたような心持ちだったが、双子ということになるか」


「い、いえあの、畏れながら殿下、さすがに王家直系の殿下と新参者の私が兄妹を名乗るわけには……」


「む、お前もそんなことを気にするのか。俺はツェレッシュの者たちと王室は、もっと距離を近づけるべきだと思っているのだが」


 殿下の表情はほとんど変わらないが、わずかに眉が釣り上がった気がする。う、もしかしてやばい? 私ごときが王子のやることに意見しちゃダメだった? あぁ、胃が痛いよぅ。


「……まぁいい。これから同じ学院に通うことになるのだ。困り事があれば遠慮なく俺を頼れ。遠慮はいらん。俺も何かあればお前をアテにさせてもらう」


「勿体なきお言葉です。でも、私なんかが殿下のお力になれることなど無いと思いますけど」


 言いながら、苦笑いで先ほどまで先輩令嬢たちに抱いていた劣等感を誤魔化す。


「…………」


「で、殿下?」


「…………むぅ」


 あ、あれー? 黙ったかと思えば難しい顔で唸りだしちゃったんだけど……え、今度こそ私なにかマズった? やらかしちゃった?


「よし、名前で妥協しよう」


「名前?」


「ああ。殿下は堅苦しい。城でならともかく、この学院では俺もお前も一生徒として立場は同じだ。学年も変わらないのに上も下もあるまい。よって」


「よって?」


「俺のことはユベルと、そう呼んでくれればいい。俺もお前をマリーと呼ばせてもらおう」


 淡々と、当たり前の事のようにそう言って。それなのに。


「――――改めてようこそ、ヴァークラルト学院へ。学生たちを代表し、俺がお前を歓迎しよう、マリー」


 ふわりと、その微笑みを私に届けるように風が走る。

 令嬢として、王族として、まだまだ半人前にも満たない私にも。

 この学院で掴めるものがあるかもしれない――根拠もなくそんな予感をさせるような、とびきりの微笑み。


 鼓動の音が一段、高くなった気がした。


 ――入学式まで、あと一日――

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