1章
いつか見た夢
夢を見ていた。
見知った少女が、大勢の人に囲まれている。
けれどそれは温かなものではなく、少女に向けられる視線は冷ややかなものばかりで、広い空間を埋めるほどにいるはずの誰一人として彼女に歩み寄ろうとはしない。
クレアラート・エルトファンベリアは表情の抜け落ちた顔を俯かせ、周囲の視線から逃れるように視線を落としていた。
それを俯瞰していたと思ったら、次の瞬間には私もまたその集団の一部となって、彼女の後方に立つ一人になっていた。
集団の中から数人、クレアの前に進み出る者たちがいる。
人数は――よくわからない。
五人、いや六人? あるいはもっといるだろうか。十人には届かないだろうけれど、どうにも姿が歪んでいて正確な人数が把握できない。
けれどその中に数人、見知った顔があった。そう認識すると、それらの人物だけは姿が明確になる。
先頭に立つのはクレアの婚約者である第一王子、ユベル。
そのすぐ隣に進み出て、ユベルに寄り添うように立っているのはマリー。
マリーとは反対側、二人より半歩ほど引いた場所に立つ人物はやはり姿が歪んでいたけれど、さらにその隣に立つ人物は判別できた。
エルザベラ・フォルクハイル。あれはライバル令嬢のエルザ/私だ。
「過ちを、認めるつもりはないか」
口火を切ったのはユベルだ。
私を含む大勢の野次馬も、マリーも、エルザも、クレア自身でさえ言葉を発さなかった空間に、ユベルの声はひときわ大きく反響する。
「……過ち、など」
クレアの声は震えていた。
怒っている? 違うと思う。
焦っている? 違うはずだ。
恐れている? 違う、違うのだ。
怒りでも焦燥でも恐怖でもない。
「過ちなどで、ある、はずが」
一言一言、絞り出される言葉に滲んでいるのは、失望だ。
婚約者であったユベルに対してでも、その隣に立つことを許されたマリーに対してでも、彼らを支持したエルザに対してでもなく。
こんな結末を導いた彼女自身に、失望していた。
「――――過ち、だったのでしょうか?」
顔を上げたクレアの表情は、背後に立つ私からうかがい知ることは出来ない。けれどその顔と見つめ合ったはずのユベルたちは一様にクレアから目を背けた。エルザ/私も例外ではなく。
「そう、でしたの。けれど、では、それなら、私は」
途切れ途切れに発される言葉は、いつもの高飛車な彼女とは程遠く、今にも崩れ落ちそうな足場の上にただ一人で立っているような、そんな頼りなさで。
「私は、どうすればよかったのでしょう?」
親の手を離してしまった小さな子供のような、声だった。
「もっと早くそれを問わなかったことが、お前の罪だ」
それでもユベルは告げた。許さないと。彼女を裁くと。もう、許すわけにはいかないのだと。
「……クレアラート様、っ、わたし、やっぱり――」
「マリー」
思いつめた表情でなにか言いかけたマリーを制したのはエルザだ。
エルザは険しい表情で首を振り、マリーにそれ以上言うべきではないと思いとどまらせる。
それはとても正しいことだ。慈悲が敗者を一層惨めにさせることをよく知っていて、クレアの最後の矜持を傷つけないようにという、彼女なりの配慮だ。
でも違う。だめ。それではだめなの。
クレアが求めているのはそんなことじゃない。たった一人でいい、彼女を守ろうとしてくれる味方が一人でもいれば、それで彼女は救われたはずなのだ。
みっともなく泣いて、喚いて、既に失いつつある貴族の矜持を放り捨てて、それでも。
最後に心だけは、救われたはずなのだ。
矜持を守るなんて、そんな綺麗なだけの結末じゃ救われない。だってクレアがこの結末に至ったその根本的な原因はユベルにもマリーにもないのだ。彼ら彼女らに守られた矜持なんて、それこそクレアにとっては苦痛の種だ。
ああ誰か、誰でもいいから。
ユベルでも、マリーでも、エルザでも、顔の見えない誰かでも、いいから。
クレアに駆け寄ってあげて。抱きしめて、叱って、一緒に泣いてあげて。思い切り泣かせてあげて。
そうじゃなければあまりにも救われない。クレアという少女の人生が、あまりにも報われない。
どうして。どうして誰もそうしてあげられないの?
誰もそうしないなら私が行く。私が肩を抱いて、背中をさすって、泣かせてあげる。せめてそれくらい、それくらいさせてくれたっていいじゃない!
「――――」
クレア! と、そう叫んだつもりだったのに。
私の喉から声は出ず、当然クレアは振り返らない。
彼女の後ろにいては顔を見ることさえできず、ならばと駆け出そうとしても歪んだ野次馬たちは押しても引いても動かない。
出ない声を振り絞ってクレアを呼ぶ。動かない野次馬を押しのけようと滅茶苦茶に暴れる。
届かない――。
そう思ってしまった瞬間、私の体は後ろ向きに引きずられる。腰にワイヤーでもくくられたように、前へ進もうとしたはずの私は凄まじい速度でその場から引き離されていく。
待って、お願い、やめて。
叫んで藻掻いても、私を引きずる力は少しもゆるまない。
だめ、だめ、だめだめだめ!
誰かが、クレアを、クレアに、私が。
もう意味をなさない言葉ばかりを繰り返して、気づけば私はモニターからはじき出されていた。
自分の部屋。机の上。液晶の向こう側で。
悪役令嬢、クレアラートが断罪されていた。
* * *
「……さいあく」
ここ数年で最悪の目覚めに、私はズキズキと痛む頭を押さえて再びベッドに倒れ込んだ。
前世の記憶を取り戻したあのお茶会から一夜明けて。
多すぎる情報に軋む頭が少しはマシになっていることを期待して床についたのに、目覚めてみれば気分は昨夜よりも悪化していた。
壁掛け時計に目をやると、いつもの起床時間より一時間も早い。……今見たものについて、たっぷり考えろと言われている気分ね。
夢というにはあまりにハッキリと覚えているそれを反芻する。
そう、あれは夢だ。夢であり、私ではない私の記憶だ。
そうなのよね。いくら前世の私が夢見がちな正直ちょっとイタイ子だったからって、ただゲームをしただけでその登場人物を本気で救いたいなんて馬鹿げたことを考えはしない。全ての始まりはあの夢だった。
ゲームでクレアラートの断罪シーンを見てから眠ったある晩、私はあの夢を見た。目が覚めてもひどい喪失感に襲われて、その日一日は大好きなゲームを視界に入れないように過ごした。
ただの夢だけど。ただの夢で、私の頭の中にしかないものだけど。
救いたいと、本気で思ってしまった。
それは前世の私の記憶だけど、思い出してしまったら他人事じゃいられない。今ここにいる私も、あの喪失感を知ってしまった。
「たすけて、あげたい」
寝起きでうまく回らない口で呟く。声に出せばそれは決意になって、私の全身に焼き付いた気がした。
あるいはいつか同じ夢を見たもうひとりの私が、同じ決意を刻んだから私がここにいるのかもしれない。
……なんにせよ、もう助けないという選択肢は残されてないわね。夢の中では決して届かなかったこの手も、声も、今なら触れて、届けることができるんだから。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようアニー」
扉越しの呼びかけに答えながら、前世越しの決意を噛み締める。
きっと、いえ絶対に彼女を救ってみせるから、と。
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