べつにはずかしいことじゃない、いつかキミをそう呼ぶのだから
月曜日になったら、甘野老の父親は仕事へ行き、母親も仕事で用事があるから、と午前中に出払ってしまった。朝食の後片付けもしていない。だから桜庭が気を利かせて皿くらいは洗っておこうと手を出したが、甘野老が「That is not your job」と言った。そういえば、家政婦を雇っていると聞いた。それならば、たしかにその人の仕事を奪ってしまうのかもしれない、と、桜庭は手を引っ込め、甘野老と一緒に勉強にいそしんだ。そうして、10時になったら家のベルが鳴った。時間ぴったりだ。甘野老が「お前も顔合わせしとけよ」と桜庭を引っ張って行ったのだが、1階のモニターに映っていたのはスーツを着た成人男性だった。
『Hello. Thank you for using it all the time. It is housekeeping service.』
「OK, into the house」
「Thank you very much」
そうして当たり前のようにその成人男性が家に入ってきたので、桜庭は硬直してしまった。たしかに顔立ちも少し日本人離れして彫りが深く、瞳の色もグレーがかっていた。けれど日本人でもままいるような程度であったので、どこかに日本人の血が流れているのだろう。しかし、顔の造作が整っている。俳優の誰かに似ている気がしたが、誰だったかがなかなか出てこない。それよりなにより、男が家政婦をやるという習慣がよくわからなくて、桜庭は硬直してしまった。
「ああ、説明は日本語でしてやる。こいつが家政夫のロバートだ。雇用主は俺の父親だからってのもあるが、親の教育方針で俺にはfrank……フランクに接してくる。前にはずみで話したとんでもない世話焼きってのがこいつだが……何硬直してるんだ」
「……だって……家政”婦”だって……あと恰好いい……」
「ああ、漢字が違ったんだな。これだから日本語は面倒くさい。まあ、英語でもHousekeeperだからおんなじ職名か。まぁ男もいるんだ。執事とか、欧州じゃ珍しくない文化だったろう。……こいつがそんなに美形か……?俺はアジア系の美醜はわからないんだ。まぁ、お前の言うところの美形なのは気にするな。慣れるから。ほら、自己紹介」
甘野老に促されて、桜庭は形式ばった名前だけの自己紹介と、1か月間ここに滞在する予定の旨を伝えた。するとロバートはとろけるような笑顔で、『わかったよ。仲良くしようね』と言ってきた。それから例のアメリカンな挨拶をしようとしたところを、甘野老が「Stop!Stop!He is Japanese!」と言って止めてくれた。実際、こんな美形にあの挨拶をされたらかなわない。
ロバートとの挨拶が終わったら、ロバートはベストにエプロンという珍妙なのにしっくりくる恰好ですぐに仕事にとりかかったし、桜庭と甘野老は勉強にいそしんだ。12時になったらロバートが昼食を作ってくれたのだけれど、それがあんまりにも美味しくて、びっくりした。桜庭はしきりに「Berry delicious!」と褒めたが、甘野老は黙々とそれを口に運んでいた。おいしいと伝えると、ロバートは流暢な英語でこれは隠し味に何があるだとか弱火がどうとか英語で返してくるものだから、桜庭は例の構文と筆記でどうにか会話をして、それから、いつものように「thank you」と言った。そうしたらロバートは少し驚いた顔をして、『給料分の仕事をしただけだよ』と言った。
その後の15分のインターバルの時に、桜庭は「なんでロバートさんは驚いた顔をしたんだ?」と甘野老に尋ねた。甘野老は発音しながら筆記で、『日本人は基本的に「ありがとう」という言葉を使う回数が少ない傾向にある。あー……まぁ、俺の家族と一緒にアメリカからこっちに引っ越してきて、日本人の見た目はともかく、英語を喋る外国人に対する冷たさみたいなものにばっかり触れてきたあいつにとって、小さな感謝の言葉でも、嬉しかったんじゃないか。俺の家族は別で』と返してきた。
桜庭の家では、いつも当たり前のように「ありがとう」という言葉が飛び交っていた。桜庭は小さな声であっても店のレジでは最後に「ありがとうございます」と言うし、バスを降りる時にも「ありがとうございました」と言う。それは父からの教えで、「何かをしてもらったら、必ず感謝を口にしなさい。言葉にしなければ、その気持ちはどこかに籠ったまま、なくなってしまうものだから」というのがあったからだ。だからそれを思い出させてくれた甘野老にも、桜庭は「thank you」と言った。
「I have not done anything to be thankful」
甘野老らしい返しだなあと思いながら、桜庭は鉛筆をくるりと手の中で転がした。
甘野老の家にホームステイしてから、桜庭はアメリカの文化や、英語、そして人と話すことやコミュニケーションの取り方をかなり学んだ。最後の週くらいになると、甘野老の母親の話すスピードにもついていけるようになったし、話せる英語のバリエーションも、発音できる単語もかなり増えた。それに、発音から綴りを予測できるようにまでなって、桜庭は甘野老に感謝しかなかった。その、最終日の晩になって、甘野老の父親から、「少し、時間をいいかな」と、カタコトの日本語で話しかけられた。夕食が終わった時だった。
「君をホームステイさせたこと、とても幸福に思う。託人にいい影響があった。託人は、自信過剰なところ、人を寄せ付けないところがあった。しかし、この1ヵ月で……いや、ふうん、ま、前から、とても、よくなった。彼はいいクラスメイトを持った」
「……それは、えっと……俺も、同じです。俺は英語をよくよく学べましたし、あまど……託人から、たくさんのことを学びました。俺は自分に自信がなかったし、ほんとは何者にもなれないんじゃないかって……」
「すまない、日本語は苦手なんだ。ゆっくり、おねがい」
「あ、はい……。俺は、自分に自信がつきました。そして、夢に向かって、まっすぐ、進んで行こうと、本当に決心することが、できました。ありがとうございました。ほんとうに、ありがとうございました」
そう言って、桜庭は深々と頭を下げたけれど、甘野老の父親は、静かに手を差し出してきた。頭を下げるのは日本の文化だ。桜庭はすぐに頭を上げて、差し出された手を、しっかりと握り、甘野老と同じ薄茶色のひとみを、じっと見た。人の目を見てコミュニケーションすることが、もう、怖くない。むしろ自分は今まで、何を怖がって生きてきたのだろうとさえ、思えた。
最後の夜は少しだけ勉強をして、それから風呂に入って、ふたりして、ぼんやりと、日本語と英語の混ざった会話をした。なんでもない話で、あとから思い出せそうにない会話だった。けれど最後の方に、「俺たち、なんなんだろうな」と、桜庭がぽつりと呟いた。
「……Friend、じゃあない。俺はそういうのが嫌いだ。甘ったれてて、生ぬるくて……」
「一緒に勉強して……走って、それから……バスケもしたっけ……でも友達って、遊ぶ人のことだよな……俺たちがしたのは、勉強と、トレーニング……」
「日本語になんかいいの、ないのか」
「……思いつかない。不思議だ。もう16年も日本語をしゃべってるのに、勉強してるのに、わからないんだ。……あ、なんだっけ、前に俺の父が……スウェーデン語でなんか言ってた気がする……けど、忘れた」
「眠いのかもしれないな、お互い」
「そうだな……でも寝たら……」
このホームステイが、終わってしまう、と言いかけて、桜庭は口をつぐんだ。終わるのは、夏休みだ。甘野老は「じゃあ、レコード、1曲だけ入ってるの、流そう」と言って、初日と同じレコードをかけた。桜庭は半分夢見心地でそれを聞きながら、「なあ、託人、俺と握手、してくれ」と言った。甘野老はファーストネームで呼ばれたことにもなんにも言わないで、ただ、浅黒い手を、桜庭に伸ばした。桜庭はその手を取って、甘野老の瞳を見た。不思議とぼんやりとした笑みが浮かぶ。
「thank you. ……My best rival」
その手はすぐにほどけて、ジャズのリズムに飲み込まれて、ぱっと散っていった。甘野老もなんでもないのに、「春人」と桜庭を呼んで、らしくなく、ちょっと笑った。ああ、甘野老ってこんな風に笑うのか、と、桜庭もつられて、また笑った。そうして、曲が鳴りやむまで、ふたりでひそひそと、英語と日本語で会話をして、レコードが終わったら、静かに眠った。今日は満月で、開け放った窓から、眩しいくらいの月明りが差している。
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