はじめてのはじめて、不思議なハジメテ

 二人で寝る準備をしはじめたあたり、甘野老が少し話しかけてきた。甘野老からなんでもないことを話しかけてきたのははじめてだ。


「……今日は初日で、疲れたろうから日本語解禁だ。お前、母親にものすごく褒められてたぞ」

「……そうなのか?」

「全部訳してやろうか?お前、名前、正確に言わなかっただろ。俺が洗礼名もつけて訂正しておいた。そしたら……『洗礼名はミカエルだなんてほんとに天使みたい。だってあんな透けるような金髪に、白くてすべすべの肌に、綺麗な青空に緑の絵の具をひとつ垂らしたみたいな碧眼なのよ。学校じゃ絶対女の子がほうっておかないに決まってる。物語に出てくる王子様みたい。それに優しそうな顔なのに、目尻はきゅっと切りあがっててとっても恰好いいし、将来はモデルさんにでもなんでもなれちゃいそう』……ええと、それから……」


 甘野老が真顔で、しかも棒読みで女言葉を発したり、間接的にとはいえ桜庭を褒めそやすものだから、桜庭は耳まで赤くなった。


「やめてくれ!もういい!もういいから!」

「……『それに託人と同じように宇宙を夢見ているのね。もっとほかに、さっき言ったみたいにモデルさんとか俳優さんにもなれるのに。託人の道もそうだけど、春人の道もとっても険しい道のりになるんでしょう。でもあの子の眼を見たとき直感したわ。この子は絶対に夢をあきらめたりしない子だって。託人、あなたも負けてられないよ』……だ、そうだ」

「……」

「……クラスの中に、お前みたいな遠い夢追いかけてる馬鹿はいなかった。みんな、あの高校に入れたことで満足しているか、いい大学に受かるのが最終地点のやつらばっかりで、夢……そんな崇高なもんじゃないな。まぁ、目標ってとこだろ。で、それはそこらの大企業のサラリーマンか、公務員……かといって、まっすぐ、そんなちっぽけな目標にすら向かってるような奴ですら、どこにもいない。あのクラスには、俺と、お前だけだ」

「……ああ、なんとなく、そうなんじゃないかって、わかってた。いや、あんたと過ごすうちに、だんだん、違いがわかってきた。父から聞いたことがある。小さい頃の夢には、賞味期限……いや、消費期限があるんだ。みんなどんどん大人になるにつれて、夢を見なくなる。正義の味方とか、お花屋さんとか、そういう、小さな夢も、忘れて、希望とかそういうのを、受験への合格にすり替えるんだ。誰にも認められやしないから、自分をどうにかして認めるためにテストでいい点数をとらなくちゃいけなくなる。だから、承認欲求が、いつまでたっても満たされない」

「そういう奴らは、ただ、怖いんだ。夢を追いかけて、追いかけて、そうして、挫折して、何者にもなれなかった自分を見つめるのが、怖いだけなんだ」

「……たく……甘野老は、怖くないのか」

「……怖いさ」

「……うん、俺も、怖い」


 だから、何者にもなれなくて、自分で立ち上がれなくなった時の支えのために、自分たちはこうして、努力しているんだと、言い聞かせた。後悔だけは、しないように。


「……湿っぽい話になった。……寝るまでにもう少し時間があるな。ストレッチしながら、音楽でも、かけるか」

「……ジャズ?」

「……ああ、まぁ、お前も知ってるようなやつをかける」


 そう言って甘野老は立ち上がり、ラックから1枚のレコードを出した。空色のジャケットには大きく、「Moanin'」と印字されていた。その黒いのを、専用のレコーダーにかけると、桜庭でも何度も聞いたことのあるリズムが、レトロな空気を纏って流れ出した。黒人の音楽だ。桜庭には黒人の血は流れていないけれど、甘野老にはこの空気が肌に染みるように見えた。


 それから2人は軽くストレッチをしたのだけれど、桜庭の背中を押した甘野老が、「……おい、お前柔らかすぎないか」と驚いた声を出した。桜庭はいつも「うわ、軟体生物みてーで気持ち悪ぃ」と言われ続けていたので、「……気持ち悪いだろ」と返した。実際、桜庭の脚は約180度開くし、そのまま身体を前に倒してもべったりと胸が床につく。体育の身体能力検査で1番をとれるのが唯一長座体前屈だった。


「……俺も柔らかい方だとは思っていたが、さすがに羨ましいな……お前、バスケやってても怪我、少なかっただろ」

「……たしかに、怪我はほぼしなかったな。突き指とかは最初しょっちゅうだったけど、あとは軽い捻挫くらいか……試合にもほとんど出てないし」

「練習中でも3on3だとか1on1だとか紅白試合でいくらでも接触プレーあるだろ。ポイントガードなら、まぁゴール下はないだろうが、他にもバスケならいくらでも選手同士の接触がある。レギュラーにラフプレイしてユニフォーム取るとか……そういうのも、あるだろ」

「ああ、接触はたしかに日常茶飯事だった。でも接触しそうになったら基本腕クロスするし、ゴール下に持っていく時は腕使えば脚の置き場所さえ間違わなきゃ抜けてたし……。接触しそうな時はなんか、相手の雰囲気っていうか、全体のプレイヤーの位置とか空気でわかって、あ、くるなって、だいたい怪我は避けられる。レギュラーでもないんだから、練習で俺にラフプレイしかけてくる奴なんていないし……いや、嫌がらせでかけてくるやつはいたな……でもまあ、見えるから……」

「なんでそんなに周囲が見えてて、腕も使える、パスも通るポイントガードなのにレギュラーを取れなかったんだ!?壊滅的にシュートが入らないとか、何か……」

「……俺が、ハーフで、キリシタンだから」

「……」

「監督は、あんたのいうところの差別主義者だった。白人とキリスト教を毛嫌いしてた。金髪は審判への評判が悪いとか、なんとか。じゃあ実力でポジションもぎ取れって話なんだろうけど、そっちは……チームに、俺が馴染めなかった。どうにか練習中にチームプレーが成り立ってても、ノールックパスは、通らない。俺がどれだけ見えてても、味方がどれだけマークを外しても、俺がパスするってフェイクかけてる目線に、全員が騙されるんだ。ほんとのチームメイトなら、そうじゃなかったかもしれないな……」

「……弱小チームに、ビッグプレイヤーが混ざったみたいな状況だ」

「……そんなんじゃ、ない。俺、じつはあんたの試合、ちょっと見たことある。中学、同じ区だったんだな。市民体育館の、多分中総体だったと思う。すごいポイントガードがいるなって。ポイントガードって、どうしても、タッパない奴が輝く場所、みたいなイメージある、だろ。でも、あんたは違った。中学バスケならフォワード、いやセンターだって……どっちも張れるんじゃないかってタッパで、一瞬で状況判断して、的確にボール、捌いてた。それでスリーポイントシュートもあって、背中に4番背負うのはやっぱこういう奴なんだなって、思った。……あれ、でもそんとき……なんか妙に思ってて……あんた……」

「……俺も、ノールックパスは通らなかった」

「え、」

「……中総体、1回戦負けだった。……言い訳をすれば、そのチームがその年に全国制覇したんだ。お前が観たのは1回戦の、多分1クオーター目か、2クオーター目だ。その後俺はベンチに下げられた。俺もチームに馴染めなかった。だから、スタメンでも、キャプテンナンバーは貰えなかった。背負った番号は9番だ。それで、夏が終わってから……俺、ああ、そういえばチームメイトと、1回も一緒に帰ったこと、なかったなって、思った」

「……俺も、なかったな……」

「多分、そういうとこなんだろ。……レコード、終わってる。そろそろ寝るか」


 甘野老がそう言って、いつの間にか終わっていたレコードを丁寧にケースに戻したので、その話はこれぎりだった。そうして甘野老は桜庭のためにソファの開きかたを教えて、それにもう夏だったので、少し厚いタオルケットと、朝方この部屋は冷えるからと、薄い毛布を横に置いてくれた。


 それからエアコンを消して、カラリと窓を開ける。そうしたらそこからまだ生ぬるい夜の空気が入り込んできて、この部屋に満ちていった。窒息するほど濃密でなくって、胸いっぱいに吸い込めるほど軽くない、日本の、夏の空気だ。丁度、海の浅瀬に立って、足の裏の砂が、ずるずると引っ張られてゆくような感傷があった。


 甘野老は「電気、消すぞ」と言って、パチリと電気を消した。そこからは何も会話がなかった。足の裏の砂が無くなっていって、ぶくぶくと、海の底に沈んでゆくような気がした。桜庭はゆっくりと、気持ちよく溺れながら、幸福な夢を見た。海底から見上げる太陽は、月の輝きに、よく似ている。アポロ11号が到達した、人類がはじめて感覚を知った、はじめての惑星だ。


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