人類がハジメテ立ったのはいつだったか

 はじめ桜庭は甘野老は自分の机で勉強するのかと思ったが、どうやら違うらしい。いつも図書館でしているように、桜庭の斜め前に座って、鉛筆を動かした。桜庭も、もうその光景には慣れていたので、いつもの通りに勉強をした。今日はまず数学のワークブックからはじめると決めていた。


 桜庭は細かく計画を立てて勉強をするのが得意だった。それはいつの間にか45分単位のワークペースになっていて、遅れたぶんを次の日に持ち越さないためのロスタイムまで設けていた。自分がどれくらいの力量で、どれくらいの課題をこなせるかは把握していたし、どれくらいのペースで進めればテストの問題を全部解けるか、そして見直しに割ける時間があるかを、問題をさっと眺めただけですぐに割り出せる。


 こんなことは誰にだってできるものだと思っていたが、初めのインターバルで甘野老が緻密な桜庭の計画表を見て、英語で「それはなんだ」と尋ねてきた時、桜庭はうまく答えることができなかった。辞書で引いて、やっと、「Planning chart」とか、「to study」と、カタコトの英語で返すことができた。


 甘野老はしげしげとそれを見て、『随分、論理的だ。緻密で、隙がない。自分で考えたのか?』と聞いてきた。最後の方だけ意味がわかったので、桜庭は「Yes I did……」と返した。その後の会話はあんまりに複雑だと思ったのか、甘野老は発音しながら、紙にそれを書き出した。桜庭が辞書を引いたりなんだりしてようやくそれを解読すると、「あんた、自分がどれくらいの時間で問題を解けるのか、どれくらいでテストを終えるか、わかるのか」と尋ねているようだったので、「い……Yes」と答えた。


 そうしたら甘野老が早口で英語でまくしたててくるものだから、桜庭はすぐに「Please speak slowly」と返した。甘野老は舌打ちをしてから、それを筆記体まじりの英語で紙に書きだした。桜庭が解読するに、「そんなことができる奴はなかなかいない。それはお前の強みで、すごいことだ。普通のやつは時間配分はできても、自分がどれくらいで問題が解けるかなんてわかりゃしない。コツを教えろ」とのことだった。けれど桜庭がそれにどう答えたものかと頭を悩ませているうちに、甘野老の時計がまたピッと音を鳴らした。そうして2人はもう習慣のように頭を切り替えて、勉強に戻っていった。


 昼食までにまだ1回インターバルを残していたので、桜庭はさっきの質問の答えを、なんとかして考えなければならなかった。桜庭は昔っからこういうことができていたので、うまく説明がつかないのだ。だから少し時間をくれ、と言って、辞書とにらめっこをした。


 うまい言葉が見つからない。だって、自分がはじめて歩いた時、どうやって歩いたか、どうやってコツをつかんだかなんて誰も知らない。それと同じなのだ。あえて言うとしたら、『自分に自信を持たないこと』としか返せなかった。それから、『……できない自分をよく知ること』と、弱気な回答しか導き出せなかった。


 そうしたら甘野老は妙な顔になって、また早口で発音しながら、文字を綴った。桜庭が読解したところ、「お前、自分に自信がないのか。それとも挫折ばかりの人生だったのか」という意味だった。桜庭は今までの人生を振り返って、そうかもしれない、と、思った。


 桜庭の人生には、大きな成功も、確固たる成功体験もなかった。中学の入試も高校の入試も通過点だと思っていたし、中学3年生の1年間、誰にも1位を許さなかったことだって、ただの通過点で、結局、桜庭は有人ロケットのプロジェクトリーダーになるまでは、その有人ロケットが宇宙空間に到達するまでは、成功だとか、幸福だとか、そういうものとは遠い場所に居なければならないような気がした。


 けれど挫折なら何回だってしてきた。出来がいいと思っていたテストの点数が悪かったり、通知簿の評価が内申のせいで悪かったり、差別されたり、虐められたり、それでも桜庭は空を夢見つづけた。あの大空を超えることに、強い希望を抱いていた。


 そのくせ、成功体験がないから、自信がない。削りに削った鉛筆も、まだ山にはなっていなかったし、期末テストは11位で、1位の甘野老には遠く及ばない。点数でいったら46点の開きがある。そのうち26点が英語の点数だった。


 だから桜庭は小さな声で「Yes」と言った。そうしたら甘野老は丁寧に英字を綴って、『「諦め」が頭をよぎるかどうか。それが心の力の差だ。お前は一度だって、諦めたことがあるか?』と尋ねられたので、桜庭ははじめて、自信を持って、「No, I haven’t」と答えることができた。だから自分は今ここにいるのだ、と、実感できてしまったものだから。



 昼食はありふれたオムライスだったが、その会話が怒涛の英語で、桜庭はすっかり疲れ切ってしまった。なにより甘野老の母親がよく喋る。甘野老が友達を家につれてくるのははじめてだとか、どういうふうに仲良くなったの、だとか聞いてきたが、甘野老が「He is just a classmate」と、強い語気で言うと、はいはい、とすぐに引き下がった。


 桜庭は片付けくらいは手伝おうと「Can I help you?」と尋ねた。そうしてすぐに、「あ、こういう時はMayの方が」と口をおさえたが、甘野老の母親は「Thank you!」と言って、桜庭に皿を洗わせてくれた。その間にも英語で色々話しかけてくるものだから、桜庭は甘野老に習った例の短文を何回か使わなければならなかった。


 そして甘野老の母親はボディランゲージがかなり多くて、桜庭はそれも参考になった。わからない単語もだいたいこんな意味なんだろうな、だとか、こういうことを伝えたいのだろうな、というのがわかって、さらにちゃんと待ってくれる人だったので、それなりの構文を使って会話をすることもできた。甘野老はその間、ぼそぼそと発音が違うだとか構文がおかしいだとか言っていたが、リビングでゆったりとテレビを観ながら、父親とニュースについて軽く議論して腹休めをしているようだった。


 13時になってから、また甘野老と桜庭は勉強を再開した。そうしてインターバルの間にいつもより少ない会話をして、そうしているうちに、17時になった。甘野老はいそいそとスポーツウエアに着替え始めたので、桜庭も中学時代のジャージに着替えた。


「ついてこなくていいって言ったろう」

「……身体、動かしといて損はない。勉強だって体力、使うから。……けど多分俺は1kmくらいしか、あんたのペースにはついていけない。コースはこのあたりだと折り返しにするしかないから、あんたが4km走ってる間にインターバルを取る。そしたら残り1kmも持つだろう。これでも、中学はバスケ部だったんだ」

「……奇遇だな。俺もバスケ部だった。ポジションは?」

「……ポイントガード志望の、ユニフォームももらえない、ただの部員」

「俺は……一応、スタメンのポイントガードだ。……お前の身長なら、フォワードでもよかったろ」


 桜庭の身長は、父親譲りなのか178センチほどあったが、猫背のせいで、あまりそう大きくは見えない。細身なのも関係しているだろう。しかし、甘野老もそれと同じくらいはある。目線が同じくらいだから、よく目が合ってしまう。


「……俺の夢に一番近かったのが、司令塔ってポジションだ。それを言ったら、あんたの体格でも、フォワードできたろ」

「……俺だって、同じ理由だ」


 そんな話をしながら軽いウォームアップをして、甘野老は結構な速度で走り出した。桜庭はそれにきっちり1kmだけついていって、ぜえぜえと息を切らして、立ち止まった。1kmなんて、100mダッシュ10本分でしかない。中総体のベンチの隅で終えた最後の試合から、自分の身体はどれだけなまってしまったのだろう。甘野老の背中が遠くなってゆく。きっと、何度も見る光景だとも思ったけれど、これが夢の光景だとも、思った。そう思った自分を、少しだけ、不思議に思ったけれど。


 そうして甘野老が戻ってきた時は、ペースが随分、ゆっくりになっていた。最後の1kmはクールダウンも兼ねているらしい。桜庭は乾ききらない汗をまた温めるように、それについていった。


 それから、中学時代の、観客席から見ていた、とある試合を思い出していた。やけに背の高いポイントガードがいるな、と足を止めた試合だ。そのポイントガードはボールを持っている時間が他に比べて短かった。チームメイトがマンツーマンディフェンスを外した瞬間にはもうパスが出るのだ。


 スリーも決められて、パスを出せなければゴール下もこなしている。けれどプレイスタイルが、少しワンマンすぎるかもしれないと思った。チームの軸にはなっているけれど、どこか、何か足りないような、と。


 試合を見たのはタイムアウトも挟んで10分程度で、そのあとすぐに自分の部の監督に呼ばれたので、プレイはその一端しか見られなかったが、今思い出せばあれは甘野老だ。随分遠くにいるなあと思った。甘野老の後ろを走りながら、そう思った。5km走るのに、クールダウンも入れてだいたい30分で、その後軽く身体を動かすステップを踏んでから念入りにストレッチをし、時間を潰した。


 夕食を終えたら、甘野老は桜庭に英語で「俺の勉強計画を作ってみろ」と言ってきた。桜庭は困惑して、とりあえず、すべての教科の基礎の問題と、応用、発展の問題を甘野老に解いてもらった。それから少し考えて、計算をして、甘野老用の勉強計画を作った。


 さすがに桜庭より問題を解くスピードが速いので、少し詰め込んで、夏休み中盤には課題が終わる仕組みになっている。インターバルも入れて、甘野老が問題を解いていた時間と、桜庭が細かく計算をする時間で、約2時間の作業になった。


「これでいいのか?」


 桜庭がそう言って、やっとそれを甘野老に見せると、甘野老はチャートをじっと見て、『これは才能だぞ』と、一言言った。桜庭は誰にでもできることだと思っていたので、赤面をして、左手でフードを下げた。そうしたら甘野老が、『こういうときは素直に「ありがとう」って言うもんだ』とメモに書いた。発音はしない。だから桜庭が拙い英語で、でも少し笑って、「Thank you」と言った。


 そして20時になったら、甘野老が「風呂、入ってこい」と桜庭を促した。桜庭は「お前が先じゃなくていいのか?」と聞いたが、無視された。しかたなく桜庭は着替えを持って、2階のバスルームへ足を運んだ。桜庭はその風呂の広さに感動をしたが、はやく風呂に入ってしまわなければ、と、いそいそと服を脱ぎ、シャワーを浴びた。それから、湯船に浸かって、さっきの甘野老の言葉を反芻した。言葉にはしてくれなかったけれど、はじめて、褒められたかもしれない。はじめて、甘野老に15分間の会話以外で貢献できたかもしれないという充足が、身体のすみずみまで行き渡るようだった。


 桜庭が風呂からあがると、古典の単語をさらっていた甘野老が、入れ替わりで風呂へ入った。その間、桜庭は何をしていようかと思った。風呂に入るとどうしても気持ちがリラックスしてしまって、集中ができない。だからぼんやりと今日やったところをさらって、甘野老と自分との英語のやりとりを書いたメモ用紙を眺めた。そうしたら自分の英語の拙さと同時に、甘野老の英語の粗さも見えてきて、少し笑えた。日本の高等教育で使わないようなスラングや、伝わればいいという雑な構文もいくつかあった。そうしていたらなんだか甘野老が近くに感じられて、不思議な気分になった。


 甘野老が風呂から戻ってきたら、とりあえずの勉強の時間は終わりらしかった。甘野老によると、「こんな時間に勉強したって、悪くすれば徹夜癖がつくし、質のいい睡眠に繋がらない」だそうだ。桜庭はやはり朝型の生活リズムがいいのか、と、再認識した。それから、桜庭が今日やった内容をさらっているのを見た甘野老が、逆にどうしてそんなことをする、と質問をしてきた。桜庭は説明をしようとしたが、英語ではさすがに難しすぎて手に負えず、「Can I speak in Japanese?」と尋ねた。すると甘野老は「仕方ないな」と日本語で返してきた。


「ええと、人間の記憶には長期記憶と、短期記憶がある」

「……長期記憶……ああ、あの、何回も繰り返し唱えてるアヴェ・マリアの祈りだとか、聖書の内容だとか、そういうやつか」

「そう、それ。そういうのは長期記憶ってのになってて、脳みその海馬……つまるところの引き出しから、すぐにひっぱってこられるから、簡単に思い出せる。ええと……大切なのは何回も思い出すって行為なんだ。何回も思い出すと、その記憶は長期記憶になる。でも、そう何回も思い出す時間なんか、ない」

「……それで?」

「ええと、長期記憶がいつ形成されるかっていうと、寝てる時、だ、そうだ。だから、今日やった内容を軽くさらっておいて、明日の朝にもう一度それを見返すと、記憶に残りやすくなる。うまくすれば一晩か二晩くらいで長期記憶になる。センター試験に出る範囲全部、何回も何回も毎日できるわけじゃ、ないから、だからこれが一番、効率がいい……父に教わった」

「……ふうん……試す価値はあるな」


 桜庭は甘野老が感心していることに照れて、フードをかぶろうとしたけれど、そういえば寝巻にはそんなもの、ついてなかった。だから前髪をくしゃくしゃにして、少し笑った。甘野老はそれを見て、「なんで笑う」と聞いてきたから、桜庭は「nothing」とだけ返した。


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