近所にあるイセカイ
夏休みは8月1日から8月31日までだ。桜庭は教えられた住所まで、何か忘れているような、と思いながら、しかし緊張しながら歩いた。
バスでは停留所が2つも違うのに、徒歩ではなんと15分で到着してしまう。甘野老はこんなに近所に住んでいたのか、と、驚いた矢先に、その家の大きさにも驚いた。
敷地自体もかなり広いのだが、家も窓の数とその高さから見て3階建てだ。多分部屋数やら面積やらは桜庭の家の3倍はあるし、よくある、というよりここらではそれしか見かけない和風家屋でなく、近代的な洋風建築だ。こんな四角くて窓の広い家は海外映画でしか見たことがない。
桜庭はその敷地を囲むこれまた洋風な塀が途切れた門のところでフードを取り、恐る恐るインターホンに指をかけた。すると押す前にジーというかすかな音に気が付いて、それが最新のモニター付きインターホンだとわかり、さらに緊張をした。ごくりと喉を鳴らしてから、これもアメリカ式なのだろうか、なんてことを考えながらボタンを押した。
すると普通にピンポーンとありきたりな音がして、少ししてから「Who are you?」と電子の混ざった誰だかわからない声で問いかけられ、驚いた。驚きすぎて「え、あ、その……今日からホームステイ……」と言ってしまった。すると「Hey, I do not understand it in Japanese. Speak English!」と返ってきて、桜庭は簡単な日常会話なのにパニックを起こしてしまい、あーだのうーだの意味のないうめき声ばかり出してしまう。
そうしていたらガチャリとドアが開いて、仏頂面の甘野老が出てきた。桜庭はほっとして「あんたか……吃驚した……」と言ったが、甘野老は桜庭の肩口を人差し指で突いて、「Speak English」と、ゆっくり、桜庭に刷り込むように睨んできた。桜庭は「お、オーケー……」と返したが、甘野老は溜息をついて、「Your pronunciation is shit. It's OK. OK?(お前の発音はクソだな。『OK』だ。いいか?)」と言われ、訳も分からず「OK……」と答えた。
『お前、意味わかってないだろ。まぁいい。入れ。一応家の中を案内する』
「ゆ……Please……slowly……?(ゆ、ゆっくり……)」
『ゆっくり?俺は何をゆっくりにするんだ?……いいか、こういう時は「ゆっくり話してください」、だ。ほら、復唱してみろ。「ゆっくり話してください」』
「P……P”r”ease speak s”r”ow”r”y」
『お前の発音は本当にクソだな。「L」と「R」の発音がまるでできてない』
「……ソーリー……」
『意味もわからないで謝るな。そしてカタカナ英語を喋るな。耳障りだ。……もういい。とりあえず中に入れ。……分かるだろう表現で言ってやる。ついてこい』
桜庭は何をまくしたてられているのかわからずおどおどしてしまっていたが、最後の「Come with me」だけは甘野老が単語ひとつひとつを切り離すように、桜庭に突き付けるように発音したので、なんとか「俺と来い」という意味なのだろうと理解ができた。それに甘野老もすたすたと家の中に入っていってしまったので、それについていくしかなかった。
玄関を通ると、広い廊下を挟んですぐにドアがあった。一応日本式で、玄関で靴は脱ぐタイプの家らしかった。
「いいか、説明だけは日本語でしてやる。変なとこに迷い込まれたり入られたりしたら困るのはこっちだからな」
先ほどまでの流暢な英語から流暢な日本語でぶっきらぼうに言われて、桜庭は頭が混乱してしまう。けれど英語で話していた時の方がなんだか圧がすごかったので、桜庭はいつもはびくついてしまうような言動でも落ち着いて聞くことができた。
「今家に居るのは俺と、母と、父だけだ。今日は土曜日だからいないが、土日以外は日本人の家政夫がいる。ただそいつはアメリカ育ちでカタコトの日本語しか喋れないし、カタカナ英語は通じないからな。で、目の前のドア、中は昔兄貴が使ってた部屋だが、今は……物置部屋だ。入るなよ。で、左手の階段奥のドアの中はウォーキングクローゼットで、右手奥のドアはレストルーム。車庫があるから1階は狭いんだ」
「……狭い、のか、これで……そして家政婦……1階はほぼ収納スペース……」
「2階に行くぞ。2階がダイニングキッチンとリビング、バスルーム……あとは両親の寝室がある。だいたいそんなとこだ。今父親と母親がリビングにいるはずだ。英語で挨拶しとけよ。もうカタコトでもカタカナクソ英語でも単語でもLとRの発音がクソでもどうでもいいから」
「……OK」
階段も普通の木材かと思いきや、壁紙やドアの色にマッチした黒で、これは本当にとんでもないアメリカンハウスにホームステイすることになってしまったと桜庭が目を白黒(桜庭は碧眼だが)させているうちに、3階まで吹き抜けになっているリビングに到着した。ものすごい解放感に言葉を失っていると、妙齢の日本人らしき綺麗な夫人が突然両手を広げて「Oh! You would be “Yamannbagiri”? Nice to meet you! I am Hiromitsu's mother. Feel free to call me "Mom" during homestay!」と桜庭がかろうじて「桜庭」と「母」と「ナイストゥーミートゥー」だけが聞き取れる英語でまくしたてながらハグをしてアメリカンスタイルの挨拶をしてきた。桜庭はそれだけで脳味噌がショートしてしまって、本当にカタコトの英語、しかも中学で初めて習ったであろう「は、ハロー…….ま、My name is Kunihiro Yamannbagiri.Nice to meet you too」とだけ条件反射で答えられた。そして茫然としているところに、甘野老よりやや浅黒い肌をして、顔の造作も明らかに外国人なラテン系の男性が手を差し伸べながら近づいてきた。
『……私の妻の行動を申し訳なく思う。君は日本人だから、こういった挨拶には馴染みがないだろう。初めまして、春人。私は託人の父だ。君を歓迎しよう。ただし、私は礼節をわきまえない人間は嫌いでね。節度ある行動をもって生活するように。託人、後は頼んだぞ』
「い、Yes, I understand.……Nice to meet you too」
母親に比べ、父親は挨拶は握手にとどめていたし、かなりゆっくりと、そして短縮することなく喋ってくれたので、おおよその意味は理解することができた。多分アメリカ式の挨拶で混乱させてしまって申し訳ないだとか、よろしく、だとか、歓迎しよう、で、そこから先は単語が難しくてわからなかったが、多分嫌いな部類の人間がいて、モデレーション、だからモデル、つまるところ模範的態度で生活しろ、と言っているのだろうと桜庭は理解した。
そこからは甘野老親子で何か早口に喋りはじめた。といっても基本的に喋っているのは母親で、父親と甘野老は聞き役のようなものだった。何か相談をしているのかと思いきや、ところどころで「Friend」、「Cute」、「Cool」という単語が聞き取れた。なにやら自分の容姿や背格好について母親が褒めそやし、甘野老が「Friend」に対して「No. He is just a classmate」と答えているのはわかった。
それから父親はとりあえずの禁則事項のようなものを甘野老に伝えているようだった。甘野老の顔はともかく、性格は明らかに父親に似たのだろうなあと、桜庭は思ったがしかし、「甘野老」という単語が出てこなかった。出てきたのは「たくと」だ。桜庭は音楽でもするのだろうか、と首を傾げる。そのあたりになって、甘野老が桜庭のもとへ戻ってきた。
「……注意事項だから間違いのないように日本語で。まず、さっきも言ったが、1階の部屋には入らないでくれ。レストルーム……ああ、日本語ではトイレか。トイレは別だが。それから両親の寝室と、3階にある父の書斎にも。それ以外は入って構わない。食事は土日は母が、平日は家政夫が用意するが、好き嫌いは無視する。だが、アレルギーはあるか?」
「いや、ない」
「なら問題ない。父からの伝言だ。休みだからといって遅寝するな。遅起きするな。きちんと勉強をすること。英語の勉強に協力はするが、日本語での受け答えはしない。どうしてもわからなければ辞書等で調べろ。筆記でもいい。それが自分のためになる、だ、そうだ。だができるだけ教科書通りの英語を使って、速度にも気を遣ってくれるらしい。父はああ見えて甘いからな。母親についてはあの性格だからどうせ早口になる。さっき教えた短文で乗り切れ。で、朝食は7時、昼食は12時、夕食は18時だ。平日父は仕事で帰るのが遅くなる場合があるが、食事の時間はずらさない。家政夫が10時から19時までの契約だからな。あとは俺からのルールだ。毎日5時に起床、22時に就寝。そして勉強はいつもどおり俺の時間に合わせろ。俺は朝飯前と夕飯前に5kmずつ走ってくる。日課だからな。別に付き合う必要はない。勝手にしててくれ。で、部屋は3階の部屋がいくつか空いてるんだが、同じ3階の俺の部屋に住んでもらう。どうせ勉強して寝るだけだろ。15分、いつもどおり、なんでもない会話を、英語でする。だが……寝る場所だけ、変えるか?」
「……いや、そのためだけの部屋をもらうのは申し訳ないし、甘野老がそれでいいなら、それでいい。わかった。……・それから、聞きたいことがあるんだが」
「なんだ」
「『たくと』って、なんだ?やたらに聞こえてきて……誰か音楽でもやるのか?」
「……俺のことだが。俺の名前」
「……ああ、下の名前……」
「お前、掲示板に貼りだされてた順位表見てたのに、知らなかったのか」
「いや、甘野老だけで判断してた。あとラファエル。ラファエル甘野老なんて、おんなじ名前のやついるわけないだろ」
「ミカエル桜庭には言われたくないな。まぁ、いい、俺の部屋に案内する」
そうして3階の甘野老の部屋に通されてみて、桜庭は愕然とした。まず、広さが桜庭の部屋の倍はあるし、家具はシックに統一されているし、ラックには古びたジャズの円盤と、部屋の片隅にはそれを鳴らすレコーダーまであった。
暗い色のカーペットとクッションには埃ひとつなく、天板の一部が硝子になっているローテーブルにも指紋ひとつついていなかった。それから、本棚にはたくさんの参考書や教科書の他に、宇宙工学や宇宙力学、その他諸々の宇宙関連の書籍が並んでいて、壁にはでかでかとアポロ11号のポスターが貼ってあった。
それを見る特等席には簡易なソファも置いてある。そして勉強机も小学生から使っているものではなかった。高校になってから背丈に合わせて買いなおしたらしい落ち着いたもので、椅子は桜庭の父親が使っているような、腰を痛めない作りだった。
「3階のレストルームはあそこだ。それからそのソファは広げるとベッドになるから、お前はそれを使え。親父がなんでこんな友人を持ったことのない俺にこんなものを与えたのかは知らないが、まあ、今回は役に立ったな」
甘野老はなんてない顔で色々と指さしているけれど、なかなか頭に入ってこない。けれど、桜庭はこの部屋に満ちている匂いに、ひどく馴染むものを感じた。それから、ああ、あの中学で違うと思ったのは、これなのか、と、得心がいった。
みんな、いい高校や大学に受かることが目標で、その先にはなんにもなかったのだ。けれど甘野老は違う。自分と同じで、大学に入学することは通過点で、その先にさらに狭い門があるということを、ちゃんとわかっている。そして、ゴールはそのずっと先で、ゴールに到達したって、「6フィートアンダー」にたどり着くまで、たどり着いてしまうまで、何回も何回もゴールを目指して、息を切らして、走り続けなければいけないってことも、わかっていた。
甘野老は腕時計で時間を見て、「It is ten o'clock」と、はっきり発音し、時計をピッと鳴らした。桜庭はそれだけで何を指しているのかわかって、すぐに夏休みの課題をボストンバッグから、取り出した。
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