ユメへの一歩、おおきな、一歩
教室に着いても2人は無言で、
1年の教室は4階にあるので、見晴らしがいい。桜庭はしばらく、西日と反対側の空を見ていたが、この時期の金星は明け方にしか見えない。ため息をついて俯いたら、視界にスポーツウェアでリュックを背負い、運動部でもそんなに早くは走らないだろうという速度で校庭を半周し、正門から出ていく甘野老を見た。彼は何か部活にでも入るのだろうか。入部届の締め切りは、たしか明日だ。
桜庭のロザリオは、それから1週間ののちに桜庭の手元に戻ってきた。凹凸のあるざらついた球が手首に触れると、ほっとした。それから、ほんの1か所だけ、目を細めなければ見えないほど小さな金具だけ、新しいものにすり替わっていることに、落胆した。どうにもならなかったらしい。
甘野老は正しかった。このロザリオの、ほんとうのかたちは喪われてしまったのだ。今手元にあるのは修理された、桜庭のこれからのロザリオであり、ドイツで生産されスウェーデンに渡り、父の家で代々受け継がれてきたロザリオとは、歴史が違ってしまった。けれど道は続いてゆく。だから桜庭はいつものように朝の祈りを捧げ、少し道を歩いてから、学校へ向かうバスに乗った。
朝の教室はざわざわしている。先日の事件で、桜庭はどうにも好奇の目で見られているようだった。そして逆に、桜庭を庇ってくれた甘野老は煙たがられているようだった。沢田は彼の横柄な態度から数日で生徒から嫌われる先生になってしまったので、甘野老はそれに立ち向かった英雄的立場を手に入れると桜庭は思っていたが、普段からのぶっきらぼうで正論をつく物言いや、いらない話題の無視、しつこく話しかければあの瞳で睨む態度が問題だった。
はじめ群がっていた女子生徒も3日でそれをやめて、男子生徒はひそひそと陰口を叩くようになった。陰口を叩かれているのは桜庭も同じで、「あいつだけ金髪でもいいとかずるいよな」だとか「聖書とかよくわかんねーけど、頭いいアピールうざいよ」とか、そういうのはよく耳に入ってきた。この場所も息がしづらい。また、中学時代のように勉強ばかりしていたかったのだけれど、雑音は耳を覆いたくなるほどで、桜庭はそれに慣れよう、慣れよう、と、息を殺した。息をするのも、くるしかった。
昼休みになってから、桜庭はついに耐えられなくなって、4階から2階へ降り、この時間帯は空き教室になっている化学室へ逃げ込んだ。そうしてそれにふさわしく化学の教科書を出して、勉強をしながら昼食を食べた。そうしていたら、がらりと教室の戸が開けられて、桜庭はびくりとした。先生か上級生かが入ってきて叱られるのではないかと思ったのだ。
けれど実際はそうではなくて、購買の袋をさげた甘野老だった。甘野老も空き教室を探していたらしく、先客に少々目を開いたが、それだけだった。桜庭はほっとしたけれど、怯えもした。まず何を話せばいいかわからなかったし、甘野老は、怖い。
化学室の机は普通の教室と違っていて、6人掛けのテーブルが6つ置いてある。甘野老は自分と違う机の席につくのだと思ったけれど、わざわざ桜庭の使っていた机の真ん中に腰を下ろした。桜庭は黒板から見て右の隅、甘野老は黒板から見て左の真ん中だ。何を話しかけられるのだろうと桜庭は身を固くしたが、甘野老はなんにも話しかけてはこなかった。甘野老も教科書を広げて、購買のおにぎりを食べている。開いているのは数学の参考書だった。
食事が終わって、本格的に教科書にのめりこみはじめると、桜庭は甘野老の息づかいが気にならなくなった。
不思議だ。中学の時は誰の息づかいだって、誰と勉強していたって気が散って仕方なかったのに、甘野老だとそうはならない。
怖いのに、どこか同じ匂いがする。そう、今まで父親にしか感じてこなかったにおいが、甘野老から、するのだ。この人も頭の中に小さな宇宙を住まわせている。桜庭がそのことに気が付いて甘野老を見ると、「ピッ」と甘野老の腕時計が鳴って、甘野老も桜庭を見た。
「……ロザリオ、戻ってきたのか」
甘野老は桜庭の左手首の鈍い銀を見て、そう言った。透き通る薄茶のひろみが、うつくしいと思えた。
「……ああ……ええと、甘野老君の言うとおり、ほんとうのかたちは……うしなわれてしまったけれど……」
「甘野老でいい。もうひとつ聞きたい。お前、何故フードで髪と目を隠す。白人のDNAを恥じているのか」
「……違う。……俺はむしろ、誇り高く思う。父の血だ……偉大な父だ。みんなは白人って、イギリスやアメリカにしか住んでないと思うらしいけど、父は北欧……スウェーデン人で……今は日本の大学で、教授をしている。専門は宇宙工学だ。人工衛星の打ち上げプロジェクトにも、携わっていた。次の人工衛星のプロジェクトにも……そしてなにより、父は真実の言葉を俺に与えてくれる。……恥じるのは、白人の血を、髪を、瞳を、肌を貶されても、何も言えない自分だけだ……」
「……ふん。俺は弱い奴が嫌いだ。自らをむやみに貶める発言をする奴もな」
「……」
「……だが、メシを食う時間を、くだらないおしゃべりに費やす奴より、教科書に齧りついてる奴は、嫌いじゃない」
甘野老は時計を見て、ガタンと席を立った。
「あと5分で授業だ」
桜庭ははっとして荷物をまとめ、甘野老の後についたけれど、その間、会話はなかった。
放課後になって、桜庭は騒がしい教室ではなく、図書室で勉強をしようと、図書室へ向かった。進学校というだけあって、勉強するスペースが充実している。けれど1人掛けの席はもう3年生で埋まっていて、4人掛けの席しか空いていなかったうえ、その席には甘野老がひとりで座っていた。
桜庭はおそるおそる、「ここ、使ってもいいか……?」と、甘野老の斜め前の席を指した。甘野老は「俺の時間に合わせろよ」とだけ返してきた。桜庭は「俺の時間」というものがなんなのかわからなかったけれど、その席について、静かに勉強を始めた。そういえば、この時間にここにいるということは、甘野老は運動部には入らなかったのか、と、桜庭は少し疑問に思った。
それから30分ほどして、甘野老の時計が「ピッ」と音を立てた。甘野老はぐっと伸びをして、小さな声で「インターバルだ」と言う。そうして、くいっと指を動かし、桜庭を引き寄せてから、ひそひそと、周りに聞こえない程度の音量で、「45分勉強法だ。45分勉強して、15分休憩をする。その方ががむしゃらに勉強するより集中力が持って、頭に入る」と言ってきた。そういえば昼間もだいたい45分頃に甘野老の時計が鳴っていた。
「休憩中はなんでもない話をしたい。なんか話題、ないのか」
「そんな……急に言われても……あ、そうだ、学年主任って、名前、なんて言うんだ?」
「……たしか、遠野先生だ」
「そうか……」
「ああ、ロザリオを見せに行くって約束してたな。……俺は小さな約束でもきちんと覚えている奴は嫌いじゃない」
「……あんた、癖なのか?すぐに他人を褒めそやす」
「俺は嫌いか嫌いじゃないかを普通に口にしているだけだ。褒めてなんかいない。好きだなんて、ひとことも言っていない」
「……そ、そうか……」
近くでじっと見つめられると、どうにも、恥ずかしかった。甘野老の薄茶のひとみは弱いばっかりの桜庭を見透かしているようだった。
「あんた、睫毛が長い。ほんとにうすい金色だ。そのくせ、瞳はすぐ陰る」
「……人の目を見て話すのは苦手だ……」
「欧米では目を見て話さない奴は嘘をついているか隠し事をしている、信頼できない、と思われる」
「……」
「あんたの父親が真実の言葉を口にするとき、その瞳がかげっていたことがあったか?きっと、じっとあんたの目を見て、口にしていただろう。尊敬する父ならば、それに倣え」
甘野老がそう言い終わった瞬間、また、甘野老の時計が鳴った。甘野老はすぐに切り替えて勉強に戻り、桜庭は逃げるようにして勉強に戻った。
15分のインターバルを3回終えたら、図書館が閉められてしまった。桜庭はいつもよりずっと勉強したことが身についている気がして、身体が1センチ中に浮かんでいるような気分だった。
けれど甘野老との合計45分の会話で、自分がどれだけ話下手で、弱虫で、いじけてばかりいたのかとため息が出るようだった。ふたりして教室に戻ると、さすがにその時間までは人は残っておらず、教室は暗く、シーンとしていた。甘野老は昨日のように軽いリュックだけ持って、教室を出ようとした。それで思わず桜庭は「おい、教科書とか参考書とか、いいのか?」と聞いてしまった。
「走って帰るのには邪魔なんだ。重石にしたって変な筋肉がつく」
「走るって……運動部でもないのに……それに家での勉強はどうするんだ」
「家用と学校用で全部の教科書やら参考書やらは2冊ずつ買ってある。運動部以外は走って帰ってはいけないのか」
「いや……走るって体力使うし……体力使ったら眠くなるし……そしたら集中力とか……」
「問題ない。小学校からずっと、毎日片道5キロ以上走ってる。中学では運動部だった。それくらいでへばってたら、夢に届かない」
「……夢?」
「宇宙飛行士だ」
甘野老はまっすぐに桜庭を見てそれだけ言うと、更衣室のある1階までさっさと降りていってしまった。桜庭は「宇宙飛行士……」と、茫然と呟いて、その倍率の高さだとか、門の狭さだとか、そういうことを想像した。それから、自分が開発した有人ロケットで甘野老のあのうつくしいまでに真っすぐな横顔が、途方もなく彼方にある宇宙に運ばれる様を、夢にみた。
そうしたら、ぽとん、と、バッグを整理していた手の甲に水滴が落ちた。それが涙だってわかって、おいてかれてる悔し涙だってわかって、弱かった自分を目の前に立たせた。
猫背で、うつむいてばかりいて、誰とも話せない、自分だ。これでなにが変わるってわけじゃ、ないけれど、決心を固めたら、弱い自分は少しだけ顔を上げて、さよならをするように手を振った。桜庭も手を振ろうとしたけれど、ぐっと手を握って、教室を飛び出した。すべてはこころのなかにある。
1階の昇降口から、ローファーに履き替えて、外に出た。グラウンドでは野球部が練習をしていて、大きな声でクールダウンのために走っていた。そのちょうど横っかわに甘野老の背中と、赤毛が見えて、桜庭はその背中に向かって、息を吸い込んだ。風が吹いて、フードがめくれて、金髪も、光の加減で青にも青緑にもなる瞳が、あらわになる。ナイター用のライトに照らされ、長くのびた前髪のせいで、視界にきらきらと光の粒子が舞う。
「俺は!有人ロケットの!開発プロジェクトリーダーになる!!」
甘野老は野球部の掛け声を消し去ったその声にふと立ち止まり、振り向いて、少しだけ、笑った。そんなのが見える距離じゃなかったけれど、どうしてかわかった。だから、桜庭も泣きながら、少しだけ、笑った。金目と碧眼が混ざり合い、パチリと音がするようだった。その瞬間を、一瞬のそれを、桜庭は一生、忘れないのだろうなあと、思った。
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