歩んだ人生、学ぶ姿勢で人のフカミは増すらしい

 桜庭と、その男子、あとから名前を知った甘野老あまどころの件は、学年主任のところで話が止まった。あまどころ、という不思議な苗字の前には、桜庭と同じく洗礼名がついている。日本でこの名前の人間は、きっとこの男子生徒しか、いないのだろう。


 学年主任は50代で、痩せており、白髪交じりのふっさりとした髪の毛を丁寧にセットしていて、スーツもチョークの粉がついていない、清潔感のある人物だった。


 普段来客用に使われている部屋に2人は呼び出されて、最後にクラス担任が入ってきた。クラス担任はこれでお前たちは退学だ、という自信にあふれていたので、桜庭は左手でフードを下げた。その手首には父から借りた水晶のロザリオがつけてある。そのロザリオが小刻みに震えていたのを見て、自分が怯えているのだとわかった。隣の甘野老あまどころは震えひとつ見せていないのに。


「さて、一応クラス担任……沢田先生から話は聞いているのだけれども、人にものを教える立場からしたら、どちらの話も伺っておかないといけないと思ってね。沢田先生はミカエル桜庭春人さくらば はると君がファッションでブレスレッドをつけており、髪の毛もハーフだからバレないだろうと金髪に染めていると主張している。そしてそのブレスレッドを取り上げようとしたら抵抗され、手に傷を負ったと。そして……ラファエル甘野老託人あまどころ たくと君。君は同じハーフである桜庭君をかばったふりをして、教師である彼に対し、『イエローモンキー』と差別用語を使い、反抗的かつ悪質に彼を貶し、鬱憤を晴らした、と、沢田先生は主張している……が、どうも……少々、話が違うようだ。桜庭君、左手首のロザリオ、見せてくれないか」


 桜庭は丁寧にロザリオを外し、学年主任へと両手で手渡した。学年主任もそれを両手で受け取り、しげしげとみつめる。


「うん、ちゃんと玉が10個ずつ連なった1連が5つ繋がっている。これはブレスレッドではなく本物のロザリオだね。十字架にはイエスも彫られているし、円を束ねているのは聖母マリアのメダルだ。装飾から見て、カトリック教のものだね。……話を聞いてからキリスト教について少し学習をしたんだ。これが壊れてしまったというロザリオかな?」

「……いいえ、その、鎖の切れてしまったものは、修理に出してあります。これは父の予備のものです」

「この石は水晶だろうか」

「……はい。父が『クォーツ』と言っていたので」

「浄化作用があると聞く。それにきちんと手入れされているね。繋ぐ金具は古いけれど、水晶に濁りがない」

「……ありがとうございます」

「……君の本当のロザリオは何でできていたのかな」

「ノイジルバー……と、聞いていますが、なんの物質かは……ええと、銀に似ています。ひとつの玉じゃなくて……その……玉の形をした透かし装飾で……祖母から……遺品に、と……俺の洗礼名をつけたのは祖母でしたので。その……祖母も曾祖母……曾祖母はもっと前の人、から受け継いだと……父の家の家宝でしたので、古くて、少し、曇りのある鈍色をしています」

「ノイジルバーは銀にいろいろと配合をした物質だったかな。いやね、私はアンティークに目がないんだ。ノイジルバーか……透かし装飾……君の祖母よりずっと……そうだね、古ければ18世紀後半のものだ。どんなものか見てみたい。修理が終わったら、悪いが私のところにそれを持ってきてくれないか」

「……え、あ、はい。わかりました」


 学年主任は丁寧に両手で桜庭のロザリオを返してきたので、桜庭は拍子抜けしてしまった。


「君も、君の両親も敬虔なクリスチャンのようだ。これは宗教的に必要なものであり、この学校は宗教によって生徒を差別しない。さて、残るは髪の毛なんだが、これは確かめるまでもない。君は睫毛も金色だ。眉毛までは誤魔化せても、睫毛までは誤魔化せないからね。いや、ズボンを脱いでもらっても確認はできるんだが……さて、冗談はさておき、次は甘野老君だ。君は沢田先生を『イエローモンキー』と侮辱したそうだが、本当かな」


 学年主任のひとみは黒く優しかったけれど、そこには少しだけこわいものも含まれていた。甘野老とは違う、不思議な迫力がそこにはあった。


「本当です」

「どうしてそんなことを?」

「彼が俺のことを半黒人と侮蔑したので、差別主義者の言葉を借りました。俺は肌の色で人を差別しません。なぜなら……ええと、なんだったか……日本人の血を貴ぶ風習から言えば、俺の身体には黒人の血も、白人の血も、黄色人種の血も流れているからです」

「反抗的な態度をとったかな?」

「とりました」

「なぜそんなことを?」

「……隣の生徒をひどく貶し、大切であろうロザリオを壊しました。そして俺に流れる4分の1のDNA、祖先、そして宗教的差別を受けました。……Why dost thou shew me iniquity, and cause me to behold grievance? for spoiling and violence are before me, and there are that raise up strife and contention.……『あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている』……あのロザリオは神に祈るためのもの、その敬虔たる信徒が略奪を受けました。修理したところで、戻ってくるものはまた、違うかたちのものです。名前からハーフだと決めつけ……実際、ハーフではありますが、ハーフだからチャラついていると決めつけ、信仰をファッションだと嘲りました。そして彼に……ええと、桜庭に、体罰を。敬語を使わなかったことは俺の落ち度ですが、敬語を使わせなかったのは担任の落ち度と考えます」


 英語の発音がうつくしかった。思わず、聞き惚れてしまうくらいに。そしてその言葉どもは、桜庭のこころの中にも、ちゃんとしまってある。


「……そうか。では以後、沢田先生が態度を改めるようであれば、君は沢田先生に対して敬語を使い、敬えるのかな?」

「……いいえ。しかし形式的に敬語は使います。日本は縦社会ですから。ですが人間の中にある差別的思考は自然なものであり、その人物を構成するものです。俺は3回差別されました。その3回の差別が、俺の中から消えない限り、彼……担任の先生に、本当の敬意を払うことはできません」


 ふたりの言葉はぶつかり合っているように見えたけれど、どうしてか、そのぶつかった部分が少しだけは溶けて、一緒の課題に取り組んでいるように、桜庭には感じられた。


 中学で討論会というものをやったけれど、それがきっと、今目の前で、ありきたりにただしく行われているのだとわかった。先生と生徒という立場なのに、対等な、ひとひとりという関係に、ずっと近かった。学年主任の先生がそうしているのだ、きっと。


「……どうやら、桜庭君に関しては誤解から生まれた議題だったが、甘野老君に関しては誇張があったとはいえ、甘野老君にも責がある。『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』だったかな。……名言集くらいは読んでいるからね。しかし、君も敬虔な信者だ。信じているものを侮辱されたのだから、それは仕方のないことなのかもしれない。けれどね、かなしいことにこの日本という国は差別の多い国なんだ。君たちハーフは奇異の目で見られ、キリスト教徒は信仰を理解されない。金色の髪の毛も、毛先にゆくほどに薄くなる赤毛も、翡翠色のひとみも、薄茶のひとみも、白い肌も、浅黒い肌も、すべて差別の対象になる。差別は限りない。日本人同士ですら差別し合う。それらすべてと戦っていたら、君の剣は輝きを失い、屍の山を作るだろう。……少し恰好をつけすぎたかな」


 学年主任の先生はふう、と小さくため息をついた。そうして、祈るように手を組んで、桜庭を見て、それから甘野老を見た。


「洗礼名はどちらも天使……それも熾天使セラフィムだ。ミカエルは右手に剣、左手には魂の公正さを測る秤を携えている姿で描かれることが多く、火の元素、赤色と結び付けられる。ラファエルという名前はヘブライ語で『神は癒される』という意味であり、ユダヤ教の伝統で癒しを司る天使とされている。そして風の元素、黄色と結び付けられる。君たちの洗礼名はまるで正反対だ。けれどどちらも、人間を前へと歩ませ、救い、正しい道へと導く熾天使だ。その洗礼名に恥じない行いを、私は期待しているよ。……では、以上、時間をとらせてすまなかった。安心しなさい、どちらも『今回は』懲罰は無い。しかし甘野老君は、以後気を付けるように。……私は少し、沢田先生と話さなければならないことがある」


 学年主任はそう言うと2人を部屋から出し、ぴしゃりと扉を閉めた。中からは沢田の怒りに震える声と、それを穏やかにいなし、諭す学年主任の声だけが聞こえる。けれどその声はさっきの甘野老との溶け合うような響きではなく、ただ殴りかかり、それをかわしているだけに思えた。溶け合うことは、きっと、ずっとない。


 放課後に呼び出されたので、廊下にはもう西日が差していた。2人は一度教室に戻ってから帰らなくてはいけないから、自然と歩く方は一緒になるのだけれど、会話はなかった。


 ただ桜庭は恥ずかしかった。甘野老のように反論や討論、議論できる力や勇気が欲しかった。今まで勉強してきたことはなんだったのか、わからなくなった。

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