歩んだ人生、学ぶ姿勢で人のフカミは増すらしい
桜庭と、その男子、あとから名前を知った
学年主任は50代で、痩せており、白髪交じりのふっさりとした髪の毛を丁寧にセットしていて、スーツもチョークの粉がついていない、清潔感のある人物だった。
普段来客用に使われている部屋に2人は呼び出されて、最後にクラス担任が入ってきた。クラス担任はこれでお前たちは退学だ、という自信にあふれていたので、桜庭は左手でフードを下げた。その手首には父から借りた水晶のロザリオがつけてある。そのロザリオが小刻みに震えていたのを見て、自分が怯えているのだとわかった。隣の
「さて、一応クラス担任……沢田先生から話は聞いているのだけれども、人にものを教える立場からしたら、どちらの話も伺っておかないといけないと思ってね。沢田先生はミカエル
桜庭は丁寧にロザリオを外し、学年主任へと両手で手渡した。学年主任もそれを両手で受け取り、しげしげとみつめる。
「うん、ちゃんと玉が10個ずつ連なった1連が5つ繋がっている。これはブレスレッドではなく本物のロザリオだね。十字架にはイエスも彫られているし、円を束ねているのは聖母マリアのメダルだ。装飾から見て、カトリック教のものだね。……話を聞いてからキリスト教について少し学習をしたんだ。これが壊れてしまったというロザリオかな?」
「……いいえ、その、鎖の切れてしまったものは、修理に出してあります。これは父の予備のものです」
「この石は水晶だろうか」
「……はい。父が『クォーツ』と言っていたので」
「浄化作用があると聞く。それにきちんと手入れされているね。繋ぐ金具は古いけれど、水晶に濁りがない」
「……ありがとうございます」
「……君の本当のロザリオは何でできていたのかな」
「ノイジルバー……と、聞いていますが、なんの物質かは……ええと、銀に似ています。ひとつの玉じゃなくて……その……玉の形をした透かし装飾で……祖母から……遺品に、と……俺の洗礼名をつけたのは祖母でしたので。その……祖母も曾祖母……曾祖母はもっと前の人、から受け継いだと……父の家の家宝でしたので、古くて、少し、曇りのある鈍色をしています」
「ノイジルバーは銀にいろいろと配合をした物質だったかな。いやね、私はアンティークに目がないんだ。ノイジルバーか……透かし装飾……君の祖母よりずっと……そうだね、古ければ18世紀後半のものだ。どんなものか見てみたい。修理が終わったら、悪いが私のところにそれを持ってきてくれないか」
「……え、あ、はい。わかりました」
学年主任は丁寧に両手で桜庭のロザリオを返してきたので、桜庭は拍子抜けしてしまった。
「君も、君の両親も敬虔なクリスチャンのようだ。これは宗教的に必要なものであり、この学校は宗教によって生徒を差別しない。さて、残るは髪の毛なんだが、これは確かめるまでもない。君は睫毛も金色だ。眉毛までは誤魔化せても、睫毛までは誤魔化せないからね。いや、ズボンを脱いでもらっても確認はできるんだが……さて、冗談はさておき、次は甘野老君だ。君は沢田先生を『イエローモンキー』と侮辱したそうだが、本当かな」
学年主任のひとみは黒く優しかったけれど、そこには少しだけこわいものも含まれていた。甘野老とは違う、不思議な迫力がそこにはあった。
「本当です」
「どうしてそんなことを?」
「彼が俺のことを半黒人と侮蔑したので、差別主義者の言葉を借りました。俺は肌の色で人を差別しません。なぜなら……ええと、なんだったか……日本人の血を貴ぶ風習から言えば、俺の身体には黒人の血も、白人の血も、黄色人種の血も流れているからです」
「反抗的な態度をとったかな?」
「とりました」
「なぜそんなことを?」
「……隣の生徒をひどく貶し、大切であろうロザリオを壊しました。そして俺に流れる4分の1のDNA、祖先、そして宗教的差別を受けました。……Why dost thou shew me iniquity, and cause me to behold grievance? for spoiling and violence are before me, and there are that raise up strife and contention.……『あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。略奪と暴虐がわたしの前にあり、また論争があり、闘争も起っている』……あのロザリオは神に祈るためのもの、その敬虔たる信徒が略奪を受けました。修理したところで、戻ってくるものはまた、違うかたちのものです。名前からハーフだと決めつけ……実際、ハーフではありますが、ハーフだからチャラついていると決めつけ、信仰をファッションだと嘲りました。そして彼に……ええと、桜庭に、体罰を。敬語を使わなかったことは俺の落ち度ですが、敬語を使わせなかったのは担任の落ち度と考えます」
英語の発音がうつくしかった。思わず、聞き惚れてしまうくらいに。そしてその言葉どもは、桜庭のこころの中にも、ちゃんとしまってある。
「……そうか。では以後、沢田先生が態度を改めるようであれば、君は沢田先生に対して敬語を使い、敬えるのかな?」
「……いいえ。しかし形式的に敬語は使います。日本は縦社会ですから。ですが人間の中にある差別的思考は自然なものであり、その人物を構成するものです。俺は3回差別されました。その3回の差別が、俺の中から消えない限り、彼……担任の先生に、本当の敬意を払うことはできません」
ふたりの言葉はぶつかり合っているように見えたけれど、どうしてか、そのぶつかった部分が少しだけは溶けて、一緒の課題に取り組んでいるように、桜庭には感じられた。
中学で討論会というものをやったけれど、それがきっと、今目の前で、ありきたりにただしく行われているのだとわかった。先生と生徒という立場なのに、対等な、ひとひとりという関係に、ずっと近かった。学年主任の先生がそうしているのだ、きっと。
「……どうやら、桜庭君に関しては誤解から生まれた議題だったが、甘野老君に関しては誇張があったとはいえ、甘野老君にも責がある。『敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい』だったかな。……名言集くらいは読んでいるからね。しかし、君も敬虔な信者だ。信じているものを侮辱されたのだから、それは仕方のないことなのかもしれない。けれどね、かなしいことにこの日本という国は差別の多い国なんだ。君たちハーフは奇異の目で見られ、キリスト教徒は信仰を理解されない。金色の髪の毛も、毛先にゆくほどに薄くなる赤毛も、翡翠色のひとみも、薄茶のひとみも、白い肌も、浅黒い肌も、すべて差別の対象になる。差別は限りない。日本人同士ですら差別し合う。それらすべてと戦っていたら、君の剣は輝きを失い、屍の山を作るだろう。……少し恰好をつけすぎたかな」
学年主任の先生はふう、と小さくため息をついた。そうして、祈るように手を組んで、桜庭を見て、それから甘野老を見た。
「洗礼名はどちらも天使……それも
学年主任はそう言うと2人を部屋から出し、ぴしゃりと扉を閉めた。中からは沢田の怒りに震える声と、それを穏やかにいなし、諭す学年主任の声だけが聞こえる。けれどその声はさっきの甘野老との溶け合うような響きではなく、ただ殴りかかり、それをかわしているだけに思えた。溶け合うことは、きっと、ずっとない。
放課後に呼び出されたので、廊下にはもう西日が差していた。2人は一度教室に戻ってから帰らなくてはいけないから、自然と歩く方は一緒になるのだけれど、会話はなかった。
ただ桜庭は恥ずかしかった。甘野老のように反論や討論、議論できる力や勇気が欲しかった。今まで勉強してきたことはなんだったのか、わからなくなった。
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