コウコウセイのセカイ

信じるカミサマによって人は違う価値観をそなえるらしい

 入学式後の教室で、これからの授業のことや、学校の方針、それから小難しく飾り立てられた簡単なことを聞かされて、1人1人、自己紹介をさせられた。だいたいが、自分の名前をもう一度言って、どこの中学出身か、部活は何に入りたいか、入っていたか、それから決まり文句のように、「よろしくお願いします」と、まるでそう言えと言われたかのように、自己紹介をしていった。


 席順は真ん中で男女を区切り、男子が窓側で、女子が廊下側だった。名前は女子の方から呼ばれていき、そのため男子は遡って最後の方から呼ばれた。随分適当なことをする先生だな、というのが、桜庭の担任に対するはじめての印象だった。


 桜庭は紹介するほどのこともなかったけれど、教師に「次は……ん?あー……えーっと、ミカエル桜庭春人」と名前を呼ばれ、「はい」とごくごく小さな声で返事をした。いつものようにフードを左手で下げる。この行為に、いったいどれだけの価値があるのか、桜庭にはわからないけれど、それはもうクセだった。小学校からずっと、この行為を繰り返している。


 校則ではブレザーの下にはよほどのことでもないかぎり、何を着てもいいらしかった。だから桜庭は、ブレザーの下に、薄手の白いパーカーを着こんでいる。他にも、上級生に目をつけられるのを気にしない生徒が、黒いブイネックのインナーや、桜庭と同じくパーカーを着ていた。この教室にいたのは、35人中3人ほどだったけれど。


「桜庭春人でいいです。……よろしくお願いします」


 桜庭はそれだけ言って席に着こうとした。けれど教師が、「立ちなさい。立ってきちんと、フードをとりなさい」と言った。桜庭は仕方なく、下を向いてフードをとった。まばゆい金髪と碧眼に、教室がざわめくのがわかった。こころにある波が、ひどく荒立つ。脈がはやくなって、心臓がひえるのがわかった。


 桜庭はこういう反応にはよくよく慣れていた。それでもそうなるしくみになっている。みんなはじめだけだとわかっていた。そこからは無関心になるか、嫌な関心を持つか、どちらかだ。


 先生の雰囲気で、桜庭はすぐ、先生が自分について、嫌な関心を持ったのがわかった。視線がどろついて、めためたと自分に貼りつくのが、わかってしまった。


「ブレスレッドは校則違反だ。髪を染めるのも」

「……これはブレスレッドではありませんし、髪の毛は生まれつきです」

「じゃあなんだっていうんだ!口ごたえするな!」

「……」


 桜庭が説明をすると面倒なことになると黙り込むと、1番左の席の、前から2番目くらいの男子生徒が、「そいつがキリスト教徒だからだ。ブレスレッドじゃなく、ロザリオだ。洗礼名、ついてるだろ。日本人はファミリーネームの前につけんだよ」とぼそぼそ言った。それは教師の耳にも入ったらしい。


「ファミリーネーム!?キリスト教徒!?何を根拠にそれを言うんだ!名前にしたってこの生徒はハーフだからだ!それにかこつけて髪を染めてファッションを楽しんでいるだけに決まっている!ロザリオだかなんだか知らんが、没収だ!」

「……先生、その人の言う通り、俺はキリスト教徒です。両親とも敬虔なクリスチャンで、これは俺が生まれた時に父方の祖母からの遺品だと……」

「今は証拠がない!没収だ!」


 教師が無理矢理に桜庭のロザリオを奪おうとしたから、桜庭は反射的に抵抗をした。そうしたら古くなっていた細い鎖が切れて、カシャン、と軽い音を立てて鈍い銀色をしたロザリオが床に落ちた。桜庭はそれを即座に拾い上げて、目を伏せた。それを後目にしていた例の男子生徒が、ため息をついた。


「……証拠なら今のでわかっただろう」

「フリに決まっている!」

「じゃあ、なんだっけ、名前、まあ、そこのハーフ、なんでもいい。『アヴェ・マリアの祈り』を」

「……アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎えるときも、お祈りください。アーメン」

「マタイの福音、7章1節から12節」

「……?……うろ覚えですが……人を裁くな。あなたたちも裁かれないようにするため……。 あなたたちは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、……兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことが……」

「もういい!わかった!ロザリオだかなんだかの没収はなしだ!」


 教師はどん、と桜庭を突き放すと、椅子ごと派手に倒れた桜庭も気にせず、ずんずんと教壇に戻ろうとした。けれどそこに、また声が響く。名前も知らないその生徒は、浅黒い肌をしていて、髪の毛も赤毛だった。


「おい、ロザリオは神聖なものだ。生まれた時から身に着けているやつもいる。あいつのは相当高価だ。そして遺品だ。かたちだけ弁償できても、戻ってくるものは何もない。謝れ」

「教師には敬語を使え!」

「論点をずらすな。それに、他人の信ずるものを汚す輩が何を教えられる。マタイの福音7章5節までを聞いていなかったのか?お前の目玉の中に丸太があると言っているんだ。なんなら12節まで暗唱してやろうか」


 同じ高校生になったばかりの人間とは思えないほど、その生徒には迫力があった。その生徒は怖いけれど、どうしてか、桜庭は好感、というより、不思議とおなじにおいを感じた。それが同じハーフらしくて、キリスト教徒らしいから、ということからだけではないということも、どうしてかわかった。だが、中学でいやというほど教師や先輩に意見を言うなという空気を吸ってきた桜庭に、その生徒の行動は理解が及ばない。


 担任の教師は、しもぶくれた顔を赤黒く蒸気させて、名簿を確認した。そうしてからその生徒の名前を見つけて、すぐに桜庭と同じ関心を、その生徒に抱いたようだった。それから、つけいる隙のようなものも。ほんとうは、そんなものなんて、生まれや育ちには存在しないのに。


「……フン、お前もハーフか。どうせ半黒人だろう。だから庇うんだな?」

「お前みたいなやつをアメリカの差別主義者がなんて呼んでるか知っているか?『yellow monkey』だ。ああ、お前は英語の教師じゃないな。意味を教えてやろうか?『黄色いサル』だ。そして俺に『気高い』黒人の血は4分の1しか流れていない。俺の親はメスティーノと日本人だ。それにハーフだから庇ったわけじゃあない。お前が横暴だったからそれに抗議しただけだ」

「貴様……!この件は学年主任、果ては校長まで届け出るからな!」

「……ここの教師がお前のような差別主義の頭でっかちばかりなら通う価値もない」


 教師はそれ以上もう何も言わなかった。しかし目の奥は怒りに燃えており、どうしようもなく醜く寄った眉間の皺が、桜庭は恐ろしかった。ぎすぎすした空気に満ちた教室の中で、ひどく不機嫌な声でもって、また名前が読み上げられていく。その空気を作った張本人の名前も読み上げられたけれど、桜庭は心臓の音がひどくて、ずっと胸をおさえていた。息が、くるしい。息を吸っても、それは喉で止まるようで、音を聞いても、それは鼓膜で止まってしまっているようだった。


 ホームルームが終わっても、桜庭はその男子生徒に助けられた礼も言えず、切れてしまったロザリオをじっと見つめていた。助けられてからの行動がとても攻撃的で、恐ろしかったこともある。けれどそういった感情か考えは頭のすみっこでだけでぐるぐるめぐっていて、ほんとうの関心だけがこころを支配している。


 けれどそれがなんなのかは、わからない。とにかくずっと、きれた、とぎれてしまったその鎖の、いびつに歪んだそのひずみを、どういう感情が自分のなかで渦巻いているのかもわからず、みつめていた。


 そうして暗い雲を抱えながら家に帰り、鎖の切れたロザリオを母に見せたら、母は少し切れた部分を観察したのち、「大丈夫、これならまだ修理できるわ」とこたえてくれた。桜庭はほっとしたけれど、なんにも巻かれていない自分の左手に、ひどく違和感を覚えた。アヴェ・マリアの祈りにしろ、マタイの福音にしろ、子供の頃、それこそ物心つく前から身体に染み込んでいた言葉どもだ。あまり神様に祈ったことはないけれど、知らないあいだに自分を支えてくれていたのだと、左手首を右手で握って、天井を見た。そこにはなんにもいやしないのだけれど、どうしてか、カミサマを想うとき、ひとは天を見上げる。

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