キミシダイロケット

草壁 利人

序章

セカイがはじまった日

 桜庭は昔っから、いじめられる側の人間だった。父親はスウェーデン人で、母親は日本人だったからだ。けれどここでは親がどうこうという問題ではない。父は実に温厚で、口数は少ないが真実の言葉を口にする。そして1980年代の日本では珍しく、家事をよく手伝い、母親をよく労っていた。母親も愛情深く、桜庭のことをたいそう可愛がったが、叱るべき時にはきちんと諭した。なにがいけないのか、どうしていけないのかはもちろん、どうしてこんなことをしたの、と、桜庭の意見を必ず、聞いた。桜庭はその時にいつも、うまく答えられない自分が、恥ずかしくって、消えてしまいたかった。


 桜庭の性格は内気なくせに、見た目ばかりは派手だった。生まれた時に比べれば少しは色が入ったとはいえ、日に透けると白に近くなるブロンドの髪、そして空に一滴、緑の絵の具を混ぜたような碧眼、見るからに貧弱そうな、血管の透ける白い肌。そして父母ともに敬虔なクリスチャンであったがためにいつも手首にはロザリオをぶら下げていた。洗礼も受けており、その時に賜った洗礼名が「ミカエル」で、正式なテストの時には「ミカエル桜庭春人」と書かなくてはならなかった。だからいじめの恰好の獲物になった。


「なんでミカエルなんて女の子みたいな名前が頭にくっつくの?」

「学校にブレスレットは持ち込んではいけない。没収だ」

「そのきんぱつ、フリョーなんだ」

「君はもっと外に出て日に焼けなさい」

「もっとみんなと仲良くしましょう。さあ、あの輪にはいってきて」

「お前と遊ぶと弱虫泣き虫がうつるー」


 色んな言葉どもが桜庭を追い詰めていった。だから桜庭はいつもフードのついた服を着て、そのフードを目深にかぶった。そうして教室の隅で息を殺し、読書か勉強をした。


 桜庭の夢は宇宙へ人を運ぶロケットを作ることだった。そのことを教室の後ろの席で言ったら、「なんで宇宙飛行士じゃないの?」とみんなに笑われた。宇宙飛行士だけじゃ、あの広くて、暗くて、温度が無い、でも綺麗な宇宙へ行けないってこと、誰もわかってなんかくれなかった。桜庭は宇宙が好きなのだ。父は若い頃、スウェーデンの大学の准教授で、宇宙構造物について研究していた。その出張先の日本で出会ったのが母だ。その後結婚を機に、日本の高い技術力を求め、交流のあった大学の准教授になった。そして今では教授にまでなった。


 桜庭は書斎にこもる父の姿が好きだった。そのブロンドの髪の毛に隠された小さな宇宙にも、たまに見せてくれる本当の宇宙の資料も好きだった。父の研究室は人工衛星の打ち上げプロジェクトにも参加していた。その人工衛星の名前は「うめ2号」というらしい。人工衛星から送られてくる宇宙の写真や画像は美しかった。そうして桜庭も、宇宙工学への道を歩みたいと考え始めた。そしてそれを父にもごもごと相談したら、真っすぐに桜庭の瞳を見つめて、「なら、よくよく、考えながら、勉強をしなさい」とだけ言われた。


 小学生にだって、社会がうずまいているっていうのがよくわかった。ソ連とアメリカの冷戦時代から、1989年11月10日のベルリンの壁崩落、そして昭和天皇の崩御によって元号が平成となり、新しい天皇陛下が即位した。さらにあれだけ日本を熱狂させていたバブル経済の崩壊、世界がめまぐるしく創りかえられてゆくさまを、桜庭は小学生の、透き通った瞳で、わけもわからず、流されるまま、見ていた。


 そして、めまぐるしく変わる中でもずっと動かないものも、視ていた。星空だ。このあたりは少し都会に近いから、父親が暇で、なおかつ晴れた日の公園でしか視られないものだ。父親は桜庭に「こうせい」と「わくせい」の違いや、全天の星の名前と、その解説もしてくれた。そこらの中学生が、夕方の東の空に輝く星を「あ、いちばん星」と指さすのを見ながら、あれは金星って名前があるんだ、と、ひっそりと、宇宙に寄り添った。そこだけが、安寧の場だった。


 父のその言葉が全くの真実だと知ったのは、中学2年生になってからだった。ロケット、それも有人ロケットの打ち上げが成功している機関は、日本には、無い。1993年までにはソ連時代のロシアと、アメリカだけだった。JAXA(日本宇宙航空研究開発機構)も研究だけは行っているらしいけれど、有人ロケットの技術力はあっても、予算が下りない。人工衛星の開発で充分だという声が大きいようだった。アメリカとのごたついた政治関係もある。桜庭の家は決して裕福じゃあない。桜庭がどんなに勉強したって、桜庭がアメリカの大学に通うお金は、出ないだろう。その前に、学力が全然追いついていない。桜庭は特に英語が苦手だったし、父はスウェーデン語と日本語はペラペラだったが、英語は日常会話程度だった。100人以上いる同級生の中で、桜庭はいつもだいたい10番台程度の成績だったし、教師からの風当たりも強かった。けれどそれを相談できる友達もいなくって、だから桜庭は父の言葉を信じて、きちんと勉強をすることしかできなかった。父の言葉が間違っていたことは、今までに一度だって、ない。


「国語とかさあ、普通に喋れてるんだから勉強する意味なくない?」

(文章の中から真実をあばく練習だ。書かれていることを理解することができなかったら正確な討論すらできない)

「社会って、最近のはニュースで全部やってるし、歴史なんて昔のことやってなんの意味があるの?もう終わっちゃったことだろ」

(ニュースでやっていることがすべてじゃない。メディアは簡単に情報を操作できる。歴史は今まで偉人も、凡人もが通ってきた道だ。それを知らずにどこへ向かうと言うんだ。道はまだ続いている)

「数学ってなんの意味あるの?大人になっても使うのなんて小学校レベルで十分でしょ」

(お前の住んでいる家がどういった物理法則で成り立っているのか知らないのか。物理法則は計算と実証の積み重ねだ。道路も、路線も、着ている服だって、突き詰めれば数学が絡んでくる)

「理科って、実験は面白いけど、でもなんで実験するんだろ。こうすればこうなりますーって説明だけでじゅうぶんなのに」

(机上の空論になんの意味がある。実験は実証時実験の練習だ。女子が使っているリップクリームだって実証実験を重ねて製品化されているんだ。理論だけ構築したって実際にやってみないとわからないだろ)

「英語なんか俺国外行かないし、別に勉強しなくていいじゃん」

(日本国内でできることは限られている。これからは世界各国と協調していかないと社会は成り立たない。その共通言語となりうる英語を疎かにするのは自分の未来に蓋をするようなものだ)


 桜庭は教室のざわめきが嫌いだった。ここは自分がいる場所じゃあないんだってことがわかっていた。クラスメイトの名前なんて半分もわからないし、静かに勉強をするには向いていない。けれど桜庭のように休み時間中ずっと勉強している生徒も中にはいた。しかしその数名と、桜庭は話したことがない。抜かなければならない相手たちであったし、それよりなにより、桜庭とは、根本の空気が違った。それがなんなのかはわからなかったけれど、とにかく違っていたのだ。地元で有名な進学校であったので小学校の時のような幼稚なイジメはなかった。けれど桜庭には友達が1人もいなかったし、桜庭に話しかけてくるクラスメイトも、だれ1人いなかった。桜庭はそんな教室から、静かに空を見上げる。飛行機雲の、もっと向こうだ。


 桜庭は勉強に勉強を重ねて、中学3年には学年1位の座を3学期全部渡さなかったし、100点を取った答案も山積みになった。そうして、県内で1番の進学校を受験して、合格した。けれどここはまだ通過点であって、まだずっと、ずっと、もっと険しくなる道が続いているのだとわかっていた。入試の成績は、283人中、54位だった。もっともっと、努力しなければいけない。それでも、澄み切った空を見上げれば、そのオゾンの先にある宇宙を感じることができたし、小学生の頃に抱いた夢は、どうにも、手放しがたかった。それがエンジンのようになって、桜庭を突き動かす。


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